下北沢通信

中西理の下北沢通信

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80年代的“笑い”のラジカリズム

 唐十郎ら60年代、つかこうへいら70年代のアングラ演劇・小劇場演劇においても笑いは重要な構成要素ではあった。しかし、それはあくまで物語を展開していくうえでの副次的要素にすぎなかった。ところが80年代に入って大きな転換点が現れる。笑い原理主義の出現である。それは宮沢章夫ケラリーノ・サンドロヴィッチ(ケラ)という2人の才人に象徴される。宮沢がラジカル・ガジベリビンバ・システム(以下ラジカル)を結成するのが1985年、ケラが劇団健康を旗揚げしたのも同じ85年であった。
 前段階として東京乾電池(1976年結成)、東京ヴォードヴィルショー(1973年結成)、そこから派生したWAHAHA本舗(84年結成)のように笑いを表現の中心に置くコメディ(喜劇)劇団が現れるが、それらはそれ以前からあった軽演劇の系譜を引いていた。
 これに対して、宮沢の率いるラジカル、ケラの劇団健康は緻密に構築された脚本と精密な演出により、それまでの既存の笑いのパターンをある時はずらし、ある時は解体していき、それをエスカレーション(増殖)させていくことで、純度の高い笑いを生み出すところに大きな特徴があった。
 彼らが規範としたのは英国のコメディ集団、モンティ・パイソンの過激な笑いであった。モンティ・パイソンの台本をそのまま上演してしまったケラはもちろん、宮沢もその近著「東京大学『80年代地下文化論』講義」(白夜書房)のなかで「モンティ・パイソンは1969年に出てきたんだけれど、パイソンズ的な笑いがようやく理解される土壌がこの国で準備されたのが、おそらく80年代だったんだろうと推測されます。それに影響された僕たちが始めたのが、ラジカル・ガジベリビンバ・システム」とそこからの強い影響があったことを自ら語っている。
 その笑いは「シュール系」「ナンセンス」「尖った笑い」とその後さまざまな言葉で評されることになるわけだが、ひとつの特徴はそれまでの笑いと比較した場合にその笑いについてこられる観客をセンスにおいて選別してしまうという選民思想的な部分を持っていたことだろうか。宮沢は前述の著書のなかでキータームとして、「かっこいい」という言葉を何度も繰り返すが、確かに彼らの生み出した笑いにはそれまでの既存の笑いのパターン(落語的な笑いや大阪のボケ・ツッコミ的漫才の笑いなど)を「かっこわるい」過去の遺物として葬りさってしまいかねないような新しさが感じられた。
 ところが90年代に入ると演劇におけるラジカルな笑いの追求には異変が起こる。90年に宮沢が遊園地再生事業団を発足、続いてはケラが92年に劇団健康を解散、ナイロン100℃を発足させる。もちろん、笑いは大きな要素ではあるのだが、ラジカリズムは放擲され、ナラティブ(物語)や世界観の体現に回帰していく。それに追随するように大人計画松尾スズキも90年代半ばには笑いの要素は含みながらもよりシリアスな主題へとその作風を変貌させていく。皮肉に思われるのはこの3人が作風を転換させていく過程で90年代に入り、相次ぎ岸田戯曲賞を受賞。演劇のメインストリームへと位置づけられていったことだ。「笑いの演劇」の方ではそれに代わって90年代半ばに猫ニャーが出現、その解体的な笑いで話題を呼ぶが、2004年に活動を停止したことで、演劇における笑いのラジカリズムは終焉を迎えることになった。
 2000年代に入り次の笑いの旗手を待望しているところだが、最近それは難しいかもとの諦めの気持ちが強くなっている。当時新しかったシュール系(解体)の笑いが「笑い」ブームなどを見ても、既存の笑いのひとつとして希釈された形で一般にも浸透し、以前のような衝撃度を持ちえないからだ。猫ニャーの場合はそういう状況下でより過激性を求めるなかで自壊していったふしもあった。それでも私はラジカルな笑いが好きだから、そうした情況への分析を吹き飛ばすような新たな才能の出現への期待が捨てられない。「出でよ、21世紀の笑いの天才」なのである。