下北沢通信

中西理の下北沢通信

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維新派「ろじ式」@精華小劇場

□作・演出 松本雄吉

□出演 岩村吉純 藤木太郎 坊野康之 森正史 西塚拓志 金子仁司 中澤喬弘 貝田智彦 石本由美 平野舞 稲垣里花 中麻里子 尾立亜実 境野香穂里 大石美子 大形梨恵 土江田賀代 田口裕子 沙里 近森絵令 吉本博子 市川まや 今井美帆 小倉智恵 木下なず奈 桑原杏奈 ならいく 松本幸恵 森百合香 長田紋奈

□スタッフ
音楽:内橋和久

 場面
M1「標本迷路」
M2「地図」
M3「可笑シテタマラン」
M4「海図」
M5「おかえり」
M6「鍍金工」
M7「金魚」
M8「地球は回る、眼が回る」
M9「木製機械」
M10「かか・とこ」

維新派の新作「ろじ式」(松本雄吉作・演出)を大阪・難波の精華小劇場で見た。維新派はこのところ野外ないし大劇場の空間で「<彼>と旅をする20世紀3部作」と題して、「nostalgia#1 」(2007、大阪・ウルトラマーケット、さいたま芸術劇場)、「呼吸機械 #2」(2008、長浜市さいかち浜野外特設舞台)を連続上演してきた。それは南米や東欧の動乱の歴史を取り上げ、20世紀という壮大な時間の流れをモチーフに物語性を強く打ち出したものであった。今回の「ろじ式」は本公演とは位置づけられてはいるものの、その続きというわけではない。
 フェスティバル/トーキョーの一部として東京ではにしすがも創造舎、大阪は精華小劇場とともに廃校となった学校の跡地利用をした維新派としては珍しい小劇場空間が今回の会場となった。事前情報では「20世紀3部作の番外編」とも紹介されていたが、ここには物語もそれに付随するスペクタクル性もない。小規模かつミニマルなパフォーマンスの羅列といった形で構成され3部作とは方向性が明確に異なる作品だ。
 ただ、「それがどういうものか」となると説明することはそれほど簡単でない。見終わった直後の印象は当惑であった。この舞台は場面と場面の連関性が明確ではない。それゆえに統一された全体としての構造が読み取れず、散漫な印象が残り「失敗作ではないか」と思ったのも確かなのである。
 だが全体の流れではなく個々のシーンそれぞれをを単独で取り出して考えてみると素晴らしい場面も少なくはなかった。白眉ともいえたのは10のシーンのうち最後から2番目の「木製機械」である。維新派独自の動きのバリエーションをダンス的に構成した「動きのオペラ」の次の進路を垣間見せるもので、「動きのオペラ」のひとつの到達点となった前作「呼吸機械」を超えて、この集団の身体表現の方法論がいまも進化しつづけていることを証明するような刺激的な場面であった。これまでは維新派は一部の場面だけを取り出して評価することは避けてきたが、この「木製機械」は「2009年のダンス・ベストアクト(ベスト10)」に入るべき「ダンス」であったと思う。
 内橋和久作曲の変拍子の音楽に合わせて単語を羅列したような大阪弁ラップ調のセリフをパフォーマーたちが群唱するのが維新派のヂャンヂャン☆オペラである。しかし、現在の維新派はそれだけではない。新国立劇場で上演された「noctune」あたりから(私は便宜上「動きのオペラ」と呼んでいるが)パフォーマーの動きだけでセリフがないダンス風のパフォーマンスがもうひとつの柱となってきた。「キートン」(2004)、「ナツノトビラ」(2005〜2006)でその傾向は次第に強まった。
 「ナツノトビラ」についてのレビューを以前にAICT関西支部の批評誌ACTに書いた時に「舞台を見ていればそこには既存のダンステクニックとは違う身体語彙が意識的に獲得されるための継続的な訓練や試行錯誤が日常的に行われていることが分かる。例えば今回の作品では音楽に合わせて、数歩すばやく歩いた後、そこで突然ぴたっと静止するということを大勢のパフォーマーが同時にやる場面がでてくるが、これなども普通のダンスにはあまりない身体負荷であり、日常的な身体訓練がなされていないとこれだけ大勢がシンクロして群舞的にそれを行うことは簡単なことではない。タップダンスのようにステップで音を出す場面も足の裏に空き缶のようなものをつけてやる場面をはじめ複数でてくるが、全員が同時に踏むというだけでなく、楽器の演奏のようにパートに分かれていたりするわけで、タップダンスやアイリッシュダンスのように超絶技巧のものではないにしても、内橋の変拍子の音楽に合わせてそれを正確に行うのは相当以上のリズム感覚が要求される」と書き、維新派はダンスシアターに近づきつつあると明言した。
 そうした新たな流れはその後「nostalgia」で一層明確なものとなり、前作の「呼吸機械」ではダンスシーンを作品の冒頭とラストのそれぞれ15〜20分ほど、作品の中核に当たる部分に持ってきて、「それありき」で作品が組み立てられていた。「動きのオペラ」のひとつの到達点を示した作品であったといえよう。びわ湖の湖面に向かって、少しずつ下がっている舞台空間、その上を流れていく水のなかに浸かりながら行う。パフォーマーの動きだけでなく、野外劇場だからこそ可能な水の中の演技で飛び散る水しぶきさえ、照明の光を乱反射して輝き、50人近い大人数による迫力溢れる群舞とともにほかに比較するものが簡単にはないほどに美しいシーンを展開した。巨大なプールを使ったダニエル・ラリューの「ウォーター・プルーフ」、ピナ・バウシュの「フルムーン」などコンテンポラリーダンスにおいて水を効果的に使った作品がいくつかあるが、「呼吸機械」もそれに匹敵する強いインパクトを残した作品で、特にラストは維新派上演史に残る珠玉の10分間だったといってもよいだろう。
 それ以来の待望の新作ということもあり、「ろじ式」では身体表現としてどんなことをやってくれるのだろう。舞台を見始めた時の期待感は大きかった。だが、その期待ははぐらかされた。冒頭の「標本迷路」から「地図」「可笑シテタマラン」と続いていく場面がいずれも変拍子のリズムに合わせて複雑な身体所作を繰り返す「動きのオペラ」ではなくて、ヂャンヂャン☆オペラとしてはむしろ古いスタイルでかなり昔に多用されたようなシンプルな群唱に近かったからだ。
 開演以前から狭い精華小劇場の空間は舞台の下手、上手、天井近くとさまざまな骨格模型が収められた600個もの標本箱で埋め尽くされていた。標本箱は一辺が60センチほどの立方体の枠を、積み木のように多様に並べたものでこ枠の中には、現生あるいはすでに絶滅した生物の骨や化石を模した標本が固定され、それがまるで迷路のような空間を形成していく。表題の「ろじ式」の通りに、標本箱は積み重なり互いが簡単には見渡せない「ろじ」になる。
 今回の維新派のパフォーマンスは野外での開放された空間とは対極のようなこの閉ざされた空間で展開された。作品が始まって最初の場面「標本迷路」では役者たちが標本箱を舞台袖から運んできて、まるでテトリスのゲームのように舞台上に積み重ねていく。ここでの台詞が「デボン紀白亜紀……」などと時代を下りながら、少年たちがいまは滅びてしまった古生物を単語として羅列していく。この部分で舞台装置に使われている骨のイメージと合わせて、「そうか今回の主題は進化論なのか」とはや合点してしまう。が、その次の場面、その次の場面と舞台が進行していくたびに疑問ばかりが膨らんでいく展開となる。
 2番目の「地図」では3人の少年が公衆電話で何事かを問い合わせる昭和を思わせる郷愁をさそうイメージが提示される。「可笑シテタマラン」は雰囲気が一変して女の子たちの大阪弁の口調がおかしさをさそう掛け合い的な群唱だ。「海図」では再び犬島で上演された「カンカラ」を連想させるような島づくしの地名連呼となる。ここでは「標本迷路」とむりやり合致させて、人類の進化ならびに島づたいに渡る日本列島に行き着いたの日本人の歴史を展示した場面かも、と思うがシーンが進むごとにそのような統一した解釈には無理があることが露呈していく。やはりここにはそういう共通項のようなものはないのだ。
 この作品のもうひとつのモチーフはつげ義春の「ねじ式」であるが、これも「夢のような、あるいは悪夢のようなイメージの羅列」という構造に共通点はあっても作品との直接のつながりは希薄だ。小学校卒業後はメッキ工だったというつげ義春へのオマージュとして作られたと思われる「鍍金工」という場面はあるものの、作品中のイメージにそのまま「ねじ式」から取ってきたと思われるようなものは少ない。つまり、舞台の進行に連れて分かってきたのはこの作品には物語のような筋立てがないばかりか場面同士にはこれといった連関性がなく、オムニバスに近いのではないのかということであった。
 バレエなど物語性の強いものを除くとコンテンポラリーダンスなどダンス・パフォーマンス作品の上演時間は長くても1時間強のものが多い。演劇のように2時間近い作品は少ない。これが私が常々思っていたことなのだが、物語性がない場合、2時間近い時間集中力を持続するのが生理的に困難であることにその理由があるのではないか。今回の維新派の舞台は個々の場面の完成度は高いが、20世紀3部作にはあった物語の要素がまったくないため、観客にとっては集中力を維持するのは簡単ではない。個人差はあると思うが、少なくとも私には中盤あたりの「鍍金工」「金魚」といった場面は比較的ミニマルな要素が強く構成に起伏が少ないことも相俟って、少し集中力を欠き何度も睡魔におそわれそうになってしまった。
 実は冒頭に書いた「木製機械」と昨年の「聖・家族」で上演されたものを作り直した「かか・とこ」という舞台後半の2シーンが維新派のこれからを思わせる複雑な構造のダンスならびに群唱の最新形を示した場面だったのだが、せっかくの刺激的な場面がそれまでに集中がキレかけていたせいでそれを入り込むのにかなりの努力を必要とした。2時間近い上演時間は長いと感じられた。
 「これは構成の失敗ではないか」と考え、実は公演後すぐに松本雄吉本人にもそう話してしまったのだが、そう考えることにどこか違和感も感じていた。まず考えたのは本公演とは称していたが、実はこの「ろじ式」は「呼吸機械」の前に準備公演として上演した「聖・家族」と同様に本公演に向けてのワーク・イン・プログレスにすぎないのではないかということだ。しかし、アジアあるいは日本が主題となるはずの「20世紀3部作#3」との直接のつながりがありそうな場面はあまり見当たらないという問題もあった。
 「通常の演劇とは異なる構造をどうも確信犯として強い意志で試みているようだ」。観劇から時間が経過するにしたがい次第にこんな印象が強まってきた。「博物館演劇」というこの作品のもうひとつのモチーフにこの作品の構成のヒントはあるのではと考えてみた時、この作品についてひとつの仮説が生まれてきた。それはこの「ろじ式」は演劇がよくとる物語の構造(ナラティブ)でもなく、ある種のダンスや音楽がそうである構造の統一感や形式美でもない。それまでの舞台にあまりなかった「博物館の展示のような舞台」として構想されたのではないかということである。
 「ろじ」のような空間に博物館の展示のように個々のパフォーマンスを配置し、提示していく。そして個々の場面には主題において、あるいは登場人物や物語において同一性があるのではなく、それは互いにゆるやかに響き合いながら並置されていく。もし、そうであれば構成上、観客の生理的な問題への対応において、もう少し全体をコンパクトにまとめるなど、若干の修整の余地がないではないけれども、小劇場パフォーマンスにおけるあらたな形態としての可能性を感じさせる試みではないかと考えさせた。
 維新派は来年(2010年)夏には瀬戸内芸術祭に参加して、「<彼>と旅をする20世紀3部作 #3」を岡山・犬島で野外劇として上演する予定。ひょっとすると前回の準備公演「聖・家族」と「呼吸機械」のようにこの新作に「木製機械」など一部の場面が使われる可能性はないとはいえないが、この新作は日本あるいはアジアの20世紀という壮大な歴史を取り上げ、3部作の完結編ともなるという意味で、今回の「ろじ式」とはまったく異なる方向性の舞台となることは間違いない。そして、その新作は来年末ごろに劇場版として作り直され、さいたま芸術劇場で上演された後、再来年の夏にはエジンバラ・インターナショナル・フェスティバルで上演されることになっている。来年の南アフリカW杯に参加する岡田ジャパンが目標通りベスト4に入り、「世界を驚かす」ことができるかどうかは未知数(個人的に期待はしてるのだけれど)だが、(鳩山政権が仕分けにより国際交流基金を解散するというような暴挙がない限り)この維新派の新作が世界の演劇の本丸であるエジンバラに乗り込み、「世界を驚かす」のは間違いないと思っている。その時にはぜひその場に出掛けて生でそのさまを体験したいものだと考えている。
 それとは別に今回の「ねじ式」で姿を現した「小劇場演劇としての維新派」も今後どんな風に展開していくのかが楽しみ。「ねじ式」ではその実現において十全ではない部分もあったとは思うが、可能性の片鱗は垣間見せてくれたと思う。