下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

「演劇の新潮流2 ポストゼロ年代へ向けて 第2回 ロロ=三浦直之」WEB講義  

                         
主宰・中西理(演劇舞踊評論)=演目選定
 東心斎橋のBAR&ギャラリーを会場に作品・作家への独断も交えたレクチャー(解説)とミニシアター級の大画面のDVD映像で演劇を楽しんでもらおうという企画がセミネール「演劇の新潮流」です。今年は好評だった「ゼロ年代からテン年代へ」を引き継ぎ「ポストゼロ年代へ向けて」と題して現代の注目劇団・劇作家をレクチャーし舞台映像上映も楽しんでいただきたいと思います。
 新シリーズでは引き続きポストゼロ年代演劇の劇作家らを紹介していき、この世代に起きている新たな潮流の最新の動きを紹介していくとともに90年代半ば以降は平田オリザに代表される「群像会話劇」「現代口語演劇」中心の現代演劇の流れの非主流となってきた「身体性の演劇」の系譜の流れを紹介していきたいと考えています。
【日時】5月15日 7時半〜
【演目】レクチャー担当 中西理
【場所】〔FINNEGANS WAKE〕1+1 にて 【料金】¥1500[1ドリンク付]
 ライトノベル世代の演劇
「演劇の新潮流2 ポストゼロ年代へ向けて」でクロムモリブデンに続き、今回取り上げるのはロロ=三浦直之です。ままごとの柴幸男、柿喰う客の中屋敷法仁ら昨年あたりからポストゼロ年代の劇作家たちが本格的に台頭してきたのですが、そのなかでも漫画、アニメ、小説(ライトノベル)といった他ジャンルのからの影響を強く感じさせるというのがロロの特徴です。ゼロ年代における(小説・現代美術・映画などの)表現傾向は簡単に言えば「漫画やアニメやゲームみたいだ」ということなのですが、ロロの三浦直之にはどうやらそうしたほかのジャンルの表現の要素を演劇に積極的に取り入れ展開していこうという強い意思があり、確信犯としてそれを目指しています。
 ロロは2009年5月に三浦直之の処女作「家族のこと、その他のたくさんのこと」が王子小劇場の「筆に覚えあり戯曲募集」に入選したのをきっかけに三浦が在籍していた日本大学芸術学部の仲間らとともに旗揚げしました。同作が2009年度王子小劇場佐藤佐吉演劇賞最優秀脚本賞のほか、4 部門を受賞。2009年は「毎月芝居します! 」と宣言し、現在までに12 本の作品を発表するなど結成後、精力的に活動したこともあり、公演数はかなりの数になるのですが、結成してまだ2年目。メンバーのほとんどが20代前半であり、これまでこのレクチャーで取り上げてきた劇団のなかでも本当に若い劇団といえます。 
三浦直之インタビュー

演劇の世界では平田オリザの現代口語演劇の影響力からか小説などのほかのジャンルにおけるアニメ・漫画的なキャラクター設定やゲーム的な仕掛けなどのいわゆるゼロ年代的な要素の導入が目立ちにくいきらいがありました。そのため、先行するジャンルとは明らかにタイムラグがあり、演劇でようやくそれが顕在化してきたのが2010年以降になってからのことです。
ロロの作品は参照項として数多くアニメ、ライトノベル、漫画からの引用や見立てが仕込まれていて、そうした分野に慣れ親しんだ人にはそれがトリガー(引き金)となって、アニメ的なイメージが立体化されて再現させるような仕掛けとなっています。ところが参照元のジャンルへのリテラシーがないとこれは本当に「なにがなんだか分からない世界」なのです。そういう意味でこれはよくも悪くも極めてポストゼロ年代的といえるでしょう。
 「セカイ系」的な物語構造をデス電所五反田団などのゼロ年代演劇が持っていることをこれまでのレクチャーで分析してきましたが、ロロの場合、その物語の多くが「僕と彼女の物語」の形式をとっていることや例えば谷川流の「涼宮ハルヒ」シリーズがそうであるように非日常系というか唐突にほとんどなんの説明もなく一見、日常的な物語世界に宇宙人のような非日常的なものが登場したりします。次に見てもらいたいと考えている『いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校』(2010)は表題どおりに卒業式を間近に控えた小学校を舞台に多少なりともデフォルメされた形ではありますけれど、小学生たちの恋愛模様が描かれるのですが、突然やってきた転校生がどうも地球人ではなく宇宙人でしかもなにものかと戦闘を行っている戦闘美少女であるというようなことがなんの説明もなく起こるわけです。この設定はひょっとすると作者の三浦がものすごく好きだというライトノベル、「イリアの空、UFOの夏」(秋山瑞人)とか、あるいは非日常系という意味では「涼宮ハルヒ」シリーズを思い起こさせるところもありますが、いずれにせよより本格的にいわゆる「セカイ系」と呼ばれる物語の特徴をよく受け継いでいます。ライトノベルやゲーム、アニメ的な世界のガジェットが数多くちりばめられているのもその特徴。そのため、その評価にもライトノベルなどに慣れ親しんだ熱烈な支持層がいる一方で、激しい拒否反応もあり、そういう意味ではポストゼロ年代において出るべくして登場してきた集団といえるでしょう。
イリアの空、UFOの夏

涼宮ハルヒの消失」予告編

まず、それがどんな作品世界であるのか、てっとりばやく説明するためにも、さっそく作品の映像を見てもらいたいと思います。
『いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校』(2010)

出演:亀島一徳(六) 篠崎大悟(八) 望月綾乃(トビ) 北川麗(露島空) 小橋れな(先生) 崎浜純(蜻蛉) 多賀麻美(クリーム) 三浦直之(みうらこぞう)
脚本・演出/三浦直之 照明/板谷悠希子 音響/池田野歩 衣裳/藤谷香子(快快) 舞台監督/鳥養友美 宣伝美術/玉利樹貴 制作助手/幡野萌 制作/坂本もも

 この映像の最初の方に出てくるのが宇宙人らしい霧島空と主人公の六なわけですが、ギターをさして「その、君が背負っているそれは何? 世界?」などというセリフなどは意味ははっきりとはわからないのだけれど、どこかぐっとくるところがあります。もうひとつは一見子供たちの会話劇風の展開からはじまったりはしますが、この舞台全体が三浦が考えるアニメ的なリアリズムの演劇への導入であること。これはつまり、青年団などと比べてみればはっきり分かりますが、大人が小学生を演じるということからして目指しているのが「演劇的リアリズム」じゃないことは明らかです。興味深いのはロロの場合は(小劇場演劇の場合は大人が小学生を演じる際の約束事としてこれまで蓄積されてきたノウハウのようなものもあるのだけれど)そういうものをなんらかの技術によって提示しようともしていない。そこに特徴があるかもしれません。

テヅカ・イズ・デッド ひらかれたマンガ表現論へ

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キャラクター小説の作り方

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東浩紀
動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

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 以上に挙げた4冊はゼロ年代・ポストゼロ年代批評のメルクマールとなった評論です。三浦は単に漫画・アニメ好きというだけではなく、ゼロ年代批評などが分析しているこの世代の表現の特徴を演劇というジャンルに落とし込むための方法論を意識して模索しています。意図的にこういうことを行っている例は現代演劇において(皆無ではないにしても)きわめて珍しいと思われます。
 特に最後の1冊「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 」は先に挙げた3冊の論旨を内包して現代表現における「マンガ・アニメ的リアリズム」「ゲーム的リアリズム」とは何かを考察したもので、ロロの方法論にもかかわるところがあるため、その論旨を要約して復習してみたいと思います。


ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 」

1. 宗教やイデオロギー(マルクス主義天皇制など)の力が衰え、求心力を失う
2. 一人一人の価値観が尊重された結果、小さな共同体が多数出現する

1は「大きな物語」の衰退。
1つの大きな物語に誰も乗らなくなったきた。伝統・規範の力も弱くなった。

2は「小さな物語」の拡大
1人1人が別々の物語を生き、たまたま同じ傾向の物語の人と密につながる。その外側は見えなくなり、世界の「タコツボ化」、「島宇宙化」をもたらす。

ポストモダン化した現在において、物語の地位は相対的に弱くなっていく。なぜなら物語は分散し、交換可能になってくるからです。物語の交換可能性は、それを部品とみなすような考え方を助長します。物語の構成要素は無数にあり、読者はその中から適当にいくつかを選択して消費することになる。東は、それを「データベース消費」と呼んでいる。ここまでは東の「動物化するポストモダン」の反復であるわけですが、続いて東はリアルのあり方の変化について論じていきます。


リアリズムとは何か

リアリズムとは、現実的、という意味ではなく、ある時点の社会が何を現実的だと思うことにしているか、という約束事のようなものである。それは個々の問題というよりは、社会環境の問題。

いかなる表現も市場で流通する限り、発信者と受信者のコミュニケーションを抜きには考えられない。ある作品を「リアルに感じる」とは、その作品がその時点の社会環境において、発信者と受信者のコミュニケーションを最も効率化しているということである。

リアルとは何か、といった哲学的な問いには深くは踏み込まず、市場での支配的なコミュニケーション様式が、その時の「リアル」であるとし、その「リアル」はどう変わっていったかを見ていく。



自然主義的リアリズム

まず伝統的な近代文学(純文学)を考える。純文学の「想像力の環境」は「現実」である。あるいは「社会」と言ってもよい。各作品が実際にそうかどうかは置いておいて、社会の期待は、純文学は「現実」や「社会」を描くものだ、というものだ。

現実をありのままに描く。その時、言葉は「透明」になる。現実があり、言葉という透明な窓を通して、それを写生する。そういったことにリアルを見出すのが「自然主義的リアリズム」である。ここにはもちろん欺瞞がある。柄谷行人は『近代日本文学の起源』の中で、外界あるいは現実というものは発明されたもので、その時、言葉が事物に先立って透明化する必要があった、としている。現実を描写する=写生という行為は、言文一致によって生み出された歴史の浅い制度にしかすぎない。

近代以前、言葉は不透明なものとして主体と世界の間の障害となっていた。言文一致によって、言葉は透明になり、主体と世界を直接つなげることが可能となった、と人々に思わせました。近代文学、現実描写は言葉を透明にするという操作で可能になったわけです。



マンガ・アニメ的リアリズム

さて、ポストモダン化する社会ではさまざまな地盤がばらばらになっていく。近代文学が描いてきた「現実」も、その影響を免れえません。「現実」というデータベースは、消費者との間に効率的なコミュニケーションを作り出せなくなっていきます。

そうして登場するのが「キャラクター」や「物語」のデータベースです。近代文学の「現実」に対し、このデータベースは「虚構」です(もちろん近代文学の「現実」も実際には「虚構」の一種ではある)。「現実」を描くのではなく、「虚構」を描く(=虚構を写生する)。この典型がライトノベルであり、そこに発生するリアルが「マンガ・アニメ的リアリズム」です。

ここにはさまざまなねじれがあります。マンガ編集者の大塚英志はマンガに「記号性と、それと反するような身体性」を見て、そこに近代文学が抑圧してきた可能性の回帰を見ます。ライトノベル(キャラクター小説)は、そのマンガ表現のそのまた模写であり、同じ両義性、そして同じ可能性を抱えています。その両義性に立脚してこそ、なにものかを描きうるのではないか、ということでしょうね。キャラクター小説の言葉は近代以前の「不透明」でも、近代文学の「透明」でもなく、いわば「半透明」である。



ゲーム的リアリズム

さて、データベースは物語やキャラクターの構成要素の集合ですが、その見方は「物語を作り出すシステムがある」というメタ物語的視点をもたらします。可能な物語が無数にあり、その中から一つを選択する。これは要するにゲーム的な視点なわけですね。

ゲームがもたらすようなメタ物語的な想像力が、キャラクター小説という始まりと終わりが一つしかない形式に侵入してきたときにおこるのが「ゲーム的リアリズム」である。

美少女ゲームを考えてみます。美少女ゲームはプレーヤーに、「1人だけを愛せ」という純愛を勧めながら、もう一方で「他の女の子も攻略できるよ」と浮気をそそのかします。そこでプレーヤーは分裂せざるを得ない。ここにはおそらく、物語の複数性と、1回性のせめぎ合いがある。

東は「ゲーム的リアリズム」の説明を、そういった想像力によって生み出された作品を分析することで示していく。たとえば桜坂洋の「All you need is kill」であり、竜騎士07の「ひぐらしの鳴くころに」、舞城王太郎の「九十九十九」であり、「ONE」「Ever17」といったノベルゲームである。

ここで示されているものを概観(特にノベルゲーム分析を見ると)すると、さしあたり「ゲーム的リアリズム」の特徴は、

物語のメタ視点者であるプレーヤーを、物語内に入り込ませ、複数性の中の一回性(=奇跡)を捏造する

たとえば「Ever17」では、物語にプレーヤーを必要とする。プレーヤーというのはゲーム内でのプレーヤーの視点人物ではなく、ゲームをしているプレーヤー本人である。「ひぐらし〜」でも同じようなことが言える。「All you〜」などはちょっと違うが、メタ物語的視点の自覚を、物語内に入り込ませる、という点では同様かと思います。



おわりに

3つのリアリズムについて見てきました。

自然主義的リアリズム
想像力の環境は「現実」。言葉は透明。ありのままを写生する。

・マンガ・アニメ的リアリズム
想像力の環境は「虚構」。言葉は半透明。「虚構」を写生する。
乱暴にはライトノベルとはアニメを写生した小説と言える。

ゲーム的リアリズム
想像力の環境は「虚構」ではあるが、プレーヤーという「現実」も侵入している。
ゲームにおけるメタ物語性(物語の複数性)と、小説の持つ一回性(はじめと終わりが一つずつしかない)が衝突した際におこる。

 「漫画やアニメのような小説」というのがライトノベルの特徴で大塚英治はこれを「漫画・アニメ的リアリズム」と呼んだわけですが、東浩紀はこの大塚の論点を受けながら、「自然主義的リアリズム」と対比されるもうひとつのあり方として「ゲーム的リアリズム」を提唱しました。ここまでが東の「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 」の論旨の要約ですが、ここから少し私(中西)のポストゼロ年代演劇論に入っていきます。
ポストゼロ年代演劇論 
 冒頭で実はこういうことを言いました。演劇の世界では小説などのほかのジャンルにおけるアニメ・漫画的なキャラクター設定やゲーム的な仕掛けなどのいわゆるゼロ年代的な要素の導入が目立ちにくいきらいがあった。これはやはり90年代後半に支配的になってきた平田オリザ現代口語演劇の影響力が大きかったからと言わざるをえないと考えています。これは以前のセミネールでも論じてきたようになにも平田ひとりの功績というわけではなく、宮沢章夫松田正隆長谷川孝治、はせひろいち、長谷基弘ら90年代を代表する劇作家が共通して持つ時代の空気というようなものをその根拠として挙げる方がより適切なのかもしれませんが、いずれにせよリアルに対するこういう傾向は少し姿を変えながらもゼロ年代には前田司郎*1三浦大輔*2岡田利規*3ゼロ年代の作家たちに受け継がれていきました。
 「わが星」で岸田戯曲賞を受賞し話題の柴幸男をはじめ、快快(篠田千明)、柿喰う客(中屋敷法仁)、悪い芝居(山崎彬)らポストゼロ年代の作家の台頭により、明らかに新しい傾向が現れるのが2010年以降のことですが、彼らには先行する世代にない共通する傾向がありました。

ポストゼロ年代演劇の特徴
1)その劇団に固有の決まった演技・演出様式がなく作品ごとに変わる
2)作品に物語のほかにメタレベルで提供される遊戯的なルール(のようなもの)が課され、その遂行と作品の進行が同時進行する
3)感動させることを厭わない

東の著書を前提にゼロ年代以降の演劇のことを考えてみるとまず「自然主義的リアリズム」が平田オリザの現代口語演劇と重なることが分かるでしょうか。実は平田オリザ自身もスタニスラフスキーシステムに代表されるような旧ソ連で体系化された近代劇(リアリズム演劇)はその有効性を批判しており、彼の演劇論も大きな物語の否定のようなところからスタートしているわけですが、「言文一致体運動」と平田から岡田にいたる「現代口語演劇」の変遷を考えるときにそして自然主義的リアリズム/マンガ・アニメ的リアリズム/ゲーム的リアリズムの3分法でいえば平田の現代口語演劇とポストゼロ年代演劇の関係は自然主義的リアリズムとマンガ・アニメ的リアリズム/ゲーム的リアリズムの対立構造に置き換えることが可能でしょう。
 実はこの世代のほかの作家が時代の空気のようなものから自分にとってのリアルを感じ取り、それがこの変化の要因になっているように考えられるのに対して、ロロはマンガ・アニメ的リアリズム/ゲーム的リアリズムを明確に志向しているところに差はあるかもしれません。それが成功しているのかどうかというのはまだ未知数といわざるをえないのですが。
 伊藤剛は「テズカ・イズ・デッド」のなかで物語のなかにおける「キャラクター」「キャラ」の区別を論じます。「キャラ」とはひとつの物語に回収されることなく、物語の枠を超えて流通する人物造形の要素を言うわけですが、これが東の言う「データベース消費」につながっていくわけです。
 三浦は「記号性」を媒介にしてこれを演劇の世界の人物造形にも導入しようと試みています。ただ、問題はアニメ絵が記号的な要素への還元が比較的容易なのに対して、身体性を持つ人間によって演じられる演劇がどこまでそういう記号性を獲得でくるのかという問題なのですが、そこで生み出されたのが「参照項として数多くアニメ、ライトノベル、漫画からの引用や見立てが仕込まれていて、そうした分野に慣れ親しんだ人にはそれがトリガー(引き金)となって、アニメ的なイメージが立体化されて再現させるような仕掛け」といえます。
 そうした特徴は今見ていただいた「いつだって可笑しいほど誰もが誰か愛し愛されて第三小学校」でも見てとることができるのですが、こまばアゴラ劇場で上演された「グレート、ワンダフル、ファンタスティック」*4では一層顕著なものとなっているといえるかもしれません。  
 

「グレート、ワンダフル、ファンタスティック」この芝居では大きく分けて2つの物語が同時進行する。ひとつがある日突然空から降ってきた男(金田ミラクル男=亀島一徳)の持っていた誕生日ケーキが女の子(桐野真琴=多賀麻美)の顔に激突してしまうことから起こる2人の物語。もうひとつは言葉を集めているアンドロイド「秋冬」と彼が好きになった女の子との出会い。この2つを巡って芝居は進行していく。

 ここで興味深いのはこの2つのうちの1つであるミラクル男と真琴の出会う世界が無限にループする世界(円環的構造)として設定されていることである。この種の円環的構造は「涼宮ハルヒシリーズ」や「けいおん!!」などゼロ年代のアニメや漫画、小説によく出てくるもので、さらに興味深いのはこのループにはミラクル男だけが繰り返しの生の記憶をすべて持って生き続けており、真琴との出会いも世界が更新されるたびに繰り返されるが、ループが繰り返される時には前の出来事はすべてリセットされる、ということだ。

 舞台の床にはいくつか六角形の板の形をしたものが沢山置かれていて、出演している役者たちが舞台の間中これをあちらこちらに移動し続けていた。観劇の際には気づかなかったことだが、twitterのフォロワーの指摘によればこれは「HEX」というゲーム*1ではないかということなのだが、無限ループの循環構造とゲームについての見立てをメタファー(隠喩)として作品内にちりばめながらも主人公である男に「プレイヤー視点」(のようなもの)が導入されているのがこの作品の特徴だ。そうした形で芝居の全体を一種のゲームのようなものと擬えていく「ゲーム的リアリズム」により、舞台は展開する。

 実際、この舞台に対する是非のうちかなり多くの評価がこういう種類の「ゲーム的リアリズム」をリアルなものとして感受できるか、それとも荒唐無稽な絵空事にしか感じられないかが、作品評価の臨界点となり、それゆえ、単に世代的なものだけではなく、こういうリアルに触れた経験の有無が作品の評価において決定的な要因をなすことになってしまう。

(続く)







2009 年5 月、三浦直之の処女作『家族のこと、その他のたくさんのこと』の王子小劇場「筆に覚えあり戯曲募集」史上初入選をきっかけに旗揚げ。同作が2009 年度王子小劇場佐藤佐吉演劇賞最優秀脚本賞ほか、4 部門を受賞。同年は「毎月芝居します! 」と宣言し、現在までに12 本の作品を発表している。自身が触れてきた演劇や小説、映画、アニメや漫画などへの純粋なリスペクトから創作欲求を生み出し、同時多発的に交錯する情報過多なストーリーを、さらに猥雑でハイスピードな演出で、まったく新しい爽やかな物語へと昇華させる。《誰かを好きになるって素敵なことだよね》っていうことを様々な方法で表現し続けてきたが、まだまだ未開発未開拓。これからなにを物語るかは誰にもわからない。素晴らしいのはバラエティィィ!!!

セミネールで使用した主な映像
チェルフィッチュ
「三月の5日間」「フリータイム」「目的地」
 ニブロール
ニブロール 初期秀作集」「3年2組」「青ノ鳥」初演版「青ノ鳥」NHK放映版
「ROMEO OR JULIET」「no direction」
青年団
「冒険王」「バルカン動物園」「S高原から」「東京ノート」(南河内万歳一座「S高原
から」)
イデビアン・クルー
「排気口」「くるみ割り人形
弘前劇場
「家には高い木があった」「職員室の午後」「冬の入り口」「あの川に遠い窓」(山田
辰夫・村田雄浩出演)
レニ・バッソ
「Finks」「ゴーストリー・ラウンド」「Slowly,slow for Drive」「パラダイスローグ
 Paradiselogue」
五反田団
「ながく吐息」「さようなら僕の小さな名声」「いやむしろわすれな草」
ポツドール
「恋の渦」「顔よ」「激情」など
珍しいキノコ舞踊団
「フリル(ミニ)ワイルド」「作品集抜粋」
ダムタイプ
「pH」「OR」「メモランダム」
藤本隆行
「true」「Refined colors」「lost」など
上海太郎舞踏公司
ダーウィンの見た悪夢」「マックスウェルの悪魔」「RITHZM」など
ヤザキタケシ
「ブルータイム」「GUYS2」(トリイホール)「ヤザキタケシVS伊藤キム」など