下北沢通信

中西理の下北沢通信

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青年団リンク キュイ「きれいごと、なきごと、ねごと、」@アトリエ春風舎

青年団リンク キュイ「きれいごと、なきごと、ねごと、」@アトリエ春風舎

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作 綾門 優季
演出 櫻井 美穂

出演
尾﨑 宇内(青年団
折舘 早紀(青年団
小寺 悠介(青年団
寺田 凜(青年団
中藤 奨(青年団
大橋 悠太

スタッフ
美術:渡辺瑞帆(青年団)/音響:櫻内憧海(無隣館/お布団)/ 照明:山岡茉友子(青年団)/舞台監督:島田曜蔵(青年団)/ 宣伝美術:原田くるみ/制作:谷 陽歩

 青年団リンク キュイ「きれいごと、なきごと、ねごと、」はラノベ演劇か?
2010年代もそろそろ終盤を迎えつつあるが、次の10年の新たな潮流を支えていく需要な作家はすでに先駆けてその前の10年の半ばに登場していることが多い。私がポストゼロ年代演劇と名付けた10年代演劇の場合なら00年代半ばに姿を現した2005年に『三月の5日間』で岸田國士戯曲賞を受賞したチェルフィッチュ岡田利規がそうした存在だった。
 その意味で2020年代の現代演劇を引っ張っていく新たな担い手ではないかとここ数年注目しているのが青年団リンク キュイの綾門優季である。彼が演劇界から注目されたのは22歳という若さで「止まらない子供たちが轢かれてゆく」(2012年9月初演)が第1回せんだい短編戯曲賞大賞を受賞したためで、私が綾門の作品を初めて見て、そのアンファンテリブルぶりに強い衝撃を受けたのもその再演(2014年9月)の時だった。
 「きれいごと、なきごと、ねごと、」は綾門のきわめて初期の作品である。これまで2度上演されていて、今回の上演が3度目だ。その意味で代表作ともいえるが、初演(2012年3月)が「止まらない~」より前で、再演(2014年5月31 日~6月4日)も私が観劇した「止まらない~」再演バージョンより前だから、現在も20代と若い綾門のさらに若書きともいうべき 初期作品といってもいい。
 とはいえ、この作品にも綾門作品の独自性として挙げられる特徴はすでに見て取ることができる。ひとつはこの舞台は一見複数の人物が対話しているのに実際にはすべてモノローグであるということだ。
 当日公演会場で配布されていた批評再生塾3期生の伏見瞬の「青年団リンク キュイ『きれいごと、なきごと、ねごと』に寄せて」は「綾門優季は『独白』の作家だ。劇中の全ての対話は見せかけにすぎず、『劇自体』の『独白』として戯曲は成り立っている」と指摘しているが、この作品は典型的にそういう特徴が該当する戯曲構造を持っている。
 実は綾門だけではなく、この世代の若手劇作家に共通してあてはまる特徴はその戯曲がモノローグ的な文体で描かれていることというのが挙げられるかもしれない。
 綾門はあるトークイベントでこうしたモノローグの文体を「SNS特にtwitterのつぶやきのような脳内思考が独白と外に零れ落ちてきたような感じ」などと表現しているが、中でもその典型的なスタイルが彼のものであり、彼の作品は観客の評価が賛否二分されることが多いが、どうやらそのひとつの分水嶺SNS(特にtwitter)になれ親しんでいるかどうかがあるのではないかと自己分析している。
もうひとつは彼の芝居に登場する人物にはリアルな描写はほとんどなく、その属性はキャラ的なものとして与えられていることだ。大塚英志氏はライトノベルを「キャラクター小説(≒ライトノベル)」はこの「まんが・アニメ的リアリズム」にのっとって書かれているとし、「このように『私小説』における『私』の替わりに『キャラクター』を、そして自然主義的リアリズムの替わりにアニメ・まんが的リアリズムを採用した小説をキャラクター小説と呼びます」(大塚英志「物語の体操」2000年) と書いた。実は通常の演劇脚本と異なり綾門の脚本はこうしたライトノベル(キャラクター小説)の特徴をほぼ踏襲しているのだ。すなわち「きれいごと、なきごと、ねごと、」はライトノベル的演劇なのだ。
 ライトノベルでは多くの場合、作品の表紙やページ内に登場人物の漫画風イラストがついている。そして、普通の小説だけを読んでいる人にはあまりよく分からないかもしれないが、これが非常に重要なのだ。それはライトノベルに登場する登場人物というのは基本的にキャラクターであって、それぞれの人物についての詳細で微細な描写が作品内でされるということはあまりない。
 その代わりになされるのが登場人物の基本的なキャラクター設定とビジュアルを補完する漫画的なイラストなのだ。
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 「きれいごと、なきごと、ねごと、」はキャラクター設定の仕方が非常にライトノベル的なのだ。例えば三女翠雨のキャラクターは「三姉妹の三女。高校一年生。ショートカットの儚げな美少女。その雰囲気に庇護欲をそそられるのか、異性にやたらモテる。」など。容姿についてこと細かく触れることはなく「美少女」と大上段から書いてしまうところがいかにもラノベ的だし、そういう感覚からすると例えばエヴァンゲリオンに例えるならば翠雨というキャラは要するにエヴァでいえば綾波レイだなというのが細かく書かなくても了解されてくる。
 そうなると「茶髪で気の強そうな美少女」という次女白雨(はくう)はアスカ(惣流・アスカ・ラングレ)ー、「黒髪ロングの大人びた美少女」という愛雨はエヴァにそのままのキャラはいないけれど、あえて言えば葛城ミサト的な役回りなのかなということも想像できるのだ。 この物語の主要な登場人物は三人の姉妹(愛雨、白雨、翠雨)と長女と二卵性双生児であるその兄、続。翠雨の彼氏・豪、翠雨のクラスメイト・溝口の5人だ。このほかに飼い犬・ペロが出てくる。
 一方キャストは大橋、尾崎、小寺、中藤の男優4人と寺田凜、折舘早紀の女優2人。普通に考えれば女優2人が姉妹のうちのどれか2人を演じて、残りは男優のひとりが回るのかなと予想する。そう考えて芝居を見始めると、予想は大きくはぐらかさせる。
 櫻井美穂の演出ではまず男役と女役の性別を入れ替える。女優2人がそれぞれ続(寺田)と豪(折舘)を演じた。
これに対し、残りの男優4人が入れ替わり立ち代り3姉妹を演じる。さらに特徴的なのは3姉妹の関係はこの舞台の柱となる重要な事項であるにもかかわらず、姉妹とそれを演じる俳優には1対1の対応関係がなく、姉妹のどのひとりも残りの4人の男優(大橋、尾崎、小寺、中藤)が次々とリレー方式で演じ継いでいくことだ。
 誰がどの役を演じるかについて3人の姉妹は愛雨が黒のロングウィッグと赤い布、白雨は白い布に茶色のウィッグ、翠雨はショートカットのウィッグとピンクの布、それぞれを身につける。それを持った俳優がその役であるというルールに一応はなっている。翠雨のクラスメイト・溝口の声はボーカロイドをさらに機械的にしたような音声がその役を担う。
 その結果、舞台にどういう印象が生まれるかというと綾門のテキストではもともとそれぞれの登場人物は現実に実在するものというよりは漫画やアニメのキャラクターに近いのだが、桜井演出は役を演じる俳優の性別を入れ替え、さらには一人の役柄を大勢で演じさせることで抽象性の度合いを強めていく。さらに特に3姉妹についてはそれぞれを同じ俳優が演じ継いで演じることで、誰が誰なのだったかを何度も見失ってしまうぐらい「交換可能なもの」という印象を受けることになる。
例えば女優が3姉妹を演じていれば複数の女優が演じたとしても演じているその女優自身のイメージは脳内に構成される3姉妹のキャラクターと幾分かはイメージを共有することになるのであろうが*1、この「きれいごと、なきごと、ねごと、」ではそういうことが一切ないので、イメージの再構成は観客自身のそれまでの体験に根ざした想像力にまかされることになる。そして、その場合、アニメやラノベに親しんだ観客層であればその脳内再構成はリアルな造形というよりはアニメキャラクターに近いものとして受容されることになるわけだ。

 綾門のラノベ的なテキストがいわゆる「オタク」的な要素を濃厚に漂わせているのに対して、演出家の櫻井美穂は独留学帰り。女性であり、向こうでポストドラマ演劇を学んでいた経歴から言っても綾門的なオタク属性はないと思われる。そしてまったく持ち味の異なる綾門のテキストと桜井の演出がガチで衝突しているのが「きれいごと、なきごと、ねごと、」の面白さだ。
 「きれいごと、なきごと、ねごと、」の最大の謎はいじめによる過食症不登校、ストーカー、家庭内暴力など現代の学校生活、家庭生活におけるストレスにさらされ、破滅していく人々を描いたなんとも悲惨きわまる物語がなぜハレルヤのキャスト全員での大合唱から、自分たちを全肯定するかのような拍手。という突然の大団円を迎えるのかという不可思議でもあった。
 ポストゼロ年代の特有の祝祭的な終末とも考えたが理屈だけでは判然としない。さんざん考えた挙句思い当ったのはやはり発表された当時「不可解、謎の結末」などとと騒がれたTV版「新世紀エヴァンゲリオン」の最終話*2である。

そこには、みんながいてくれた。みんなが祝福してくれた。
「おめでとう」ミサト、アスカ、レイが笑う。
「おめでとう」リツコ、加持が拍手を送る。
「おめでとう」ヒカリ、ケンスケ、トウジが笑顔を見せる。
「おめでとう」ペンペン、マコト、シゲル、マヤ、冬月が祝福する。
 そして、ゲンドウとユイが、シンジに声を掛ける。
「おめでとう」
「ありがとう」
 シンジは溢れる笑顔で答える。ようやく受け入れることができた、この世界に。


 父に、ありがとう。
 母に、さようなら。


 そして、全ての子供達に
 おめでとう

 「謎の結末」と言われたTV版「新世紀エヴァンゲリオン」の最終話はこんな風に終わる。このシーンはそれまでずっと描かれてきたエヴァ使徒が終わりなき戦いを繰り広がられる世界が実は母親の死を受け入れることができずにトラウマの中にいたシンジの妄想にすぎなかったというようにとることもできるし、逆にこの部分がシンジの夢の中の幻想シーンなのかというのがどちらともとれるようになっている。
 ただ、ひとつだけはっきり分かるのはここではそれまでこの世界の中でところを得ることができなかったシンジと世界との和解が描かれていることだ。
 「きれいごと、なきごと、ねごと、」のラストシーンも同じように世界との和解が描かれていて、それはやはりエヴァ最終話のように突然挿入されてカットアウトする。観劇している時にはこの部分は完全にはしっくりこなくて、釈然としない感が続くままこの芝居は終わっていくのだが、意識的に模倣したとまでは言い切れないのだが、ここにはエヴァ的なものが影を落としているというのははっきり感じられた。
 
 

 

*1:例えばチェルフィッチュの「三月の5日間」はそのように登場人物の脳内イメージを構成させる

*2:36ch.com