下北沢通信

中西理の下北沢通信

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アントニー・バークリー「絹靴下殺人事件」

 アントニー・バークリー「絹靴下殺人事件」(晶文社)*1を読了。
 アントニー・バークリーといえば名作「毒入りチョコレート事件」を中学時代に読んで以降、その著書を手に入れることが垂涎の的だった時代がしばらくあって、大学卒業後にイギリスに旅行にいった時にはかならず書店でミステリのBの棚に行って本がひょっとして見つからないかと覗いてみたものである。
 なんといっても、本格ミステリの黄金時代といっていい1929年に「毒入りチョコレート事件」のようなメタミステリの傑作を突然生み出しているうえに別名義のフランシス・アイルズとしては「殺意」「犯行以前」といったまったく毛色の違ったクライムストーリーを書いているし、さらには「試行錯誤」のようななんとも説明が難しいツイストの利いた傑作まで残しているこの作家はいったいなにものなんだ。その全貌が知りたくてたまらなかったのだ。
 それが94年に「第二の銃声」が国書刊行会から出版されて以降ここ10年ほどで次々と旧作が翻訳されて、日本語で手にとって読めるようになったのだから、世の中なにがあるか分からないではないか。
 「絹靴下殺人事件」はロジャー・シェリンガムものの第3作。あの「毒入りチョコレート事件」の直前に書かれた作品である。絹靴下によって若い女性の首を絞めて殺すというサイコ犯による猟奇殺人を扱っているいわゆるミッシングリンク主題の連続殺人ものなのだが、このタイプのミステリの原型を作ったとされるアガサ・クリスティの「ABC殺人事件(The ABC Murders)」が書かれたのが1935年だからその意味でもバークリーの先見性は際立っていたことが分かる。
 もっともさすがにこの分野は「ABC殺人事件(The ABC Murders)」でクリスティが最初のパターンを開発して以来、そのパターンを継承しながら引っくり返そうとありとあらゆるパターンが試みられてきた。それだけに作者の企みはもはや今のミステリ読みの目には単純すぎて分かりやすすぎるのではあるが、それでもかなり読ませるのはディティールにおける工夫にバークリーならではアイデアがいくつも盛り込まれているからだ。
 シェリンガムの独断と偏見に満ちた推理には相変わらず笑ってしまうところが多いのだが、よくも悪くもおおらかな味わい。これでシェリンガムものとしては未訳はあと一作を残すのみであり、Panic Party [米題 Mr. Pidgeon's Island](1934)は早く読みたいような読んでしまうのがもったいないような複雑な気持ちでもある。
 訳出の順番がバラバラだったこともあり、バークリーはもう一度最初の作品から読み直してみたいと思った。