ホワットダニットの系譜としてのコリン・デクスター(1)
コリン・デクスターのモース警部シリーズといえば当初は日本でもコアな海外ミステリファンのみがその名前を知る存在であった。それが1987年から始まったテレビドラマ「主任警部モース」=写真下=の人気に火が付いたことなどで、本場英国でのアンケート調査ではエルキュール・ポワロを凌駕し、シャーロック・ホームズに肉薄するような人気名探偵となったことも伝えられた。
「ホワットダニット」型のミステリ
とはいえ、ミステリとして見た時にコリン・デクスターのユニークさがそのプロットにあることは間違いない。
「だれが犯人か」という謎を扱うそれまでの伝統的なフーダニットの本格ミステリに対して、デクスターのモース物は時には事件の実態さえ分からず、モースの推論の中で状況は二転三転していくという特異なプロットを取る。こうしたパターンのミステリはアントニー・バークリーの「毒入りチョコレート事件」*1など一部の先例はあったものの、20世紀後半になり初めて一般的になったモダン・ディククティブストーリーの典型といえるものだ。それはいわゆる「ホワットダニット」型のミステリと言い換えてもいいだろう。
形式は微妙に異なるが、アガサ・クリスティーの後期の作品群から、ロス・マクドナルドのリュー・アーチャーものなどある種のハードボイルド小説をへて、デクスターのモース物とルース・レンドルのウェクスフォード警部シリーズという流れに20世紀後半の本格ミステリのメインストリームがあると私は考えている。
この論考ではコリン・デクスターの代表的な作品を取り上げ、ルース・レンドルのウェクスフォード警部シリーズなど先行作品と比較しながら分析していくことにしたい。
代表的な作品と述べたが、デクスター作品の代名詞といえるのが、デビュー作でもある「ウッドストック行最終バス」(1975 )とそれに続いた「キドリントンから消えた娘」)(1976)の2作品であることは間違いない。
「ウッドストック行最終バス」では冒頭(プレリュード)でウッドストック行きのバスを待つ2人の少女の姿が描かれる。興味深いのはこのうち一人はその後、死体として発見され、もうひとりは失踪するわけだが、失踪した女性の方はここでは「最初の娘は」「彼女は」……などすべて固有名詞は避けて表現されていて、その正体は伏せられているのだ。最初にこの事件には二人の女性がかかわっているということが、読者の前に提示されながらも捜査が進んでもなかなか伏せられた方が誰なのかが明らかにならないどころか、解釈を巡って、モースの推測する事件の真相は二転三転していく。この叙述の仕掛けはその後の展開にもこの趣向がおおいにかかわってくることになるわけだが、これはクリスティー、レンデルをへての英国ミステリの伝統芸といってもいいかもしれない。
もちろん、こうした叙述の小さな技巧はほかにも前例があったことは指摘しておかねばならないだろう。この部分はルース・レンデルの「運命のチェスボード」の冒頭部分の叙述の技巧*2を思い起こさせる。
「運命のチェスボード」*3と「ウッドストック行最終バス」はともに物語の冒頭に失踪事件を持ってきている。この二人の作家がプロットに失踪事件をからませることが多いのはまず死体が発見されて、その犯人を被害者の関係者を当たることで捜査していくという従来型のフーダニットミステリと比べて、事件の真相はどんなものなのかという「ホワットダニット」型のプロットにおいて、失踪者が被害者にも加害者にも想定できることから、探偵側の推論において自由度が高いからではないかと思う。
「1万分の1」の論理
冒頭の設定に似ている点は多くともモース警部シリーズとウェクスフォード警部シリーズには相違点も多い。モース警部シリーズの一番の特色は独断専行ともいえる捜査法、そしてそこに表れるアクロバティックとも言われる推論手法にあるだろう。ミステリファンの間にデクスターの名前を知らしめたのは「ウッドストック行最終バス」の中盤あたりにある「1万分の1」の論理である。モースは殺されたシルビアと一緒にいた少女が果たしてだれだったのかを探るための捜査を続け、それと並行して二人をヒッチハイクで拾った男が誰だったのか、再三の呼びかけにもかかわらず、なぜその二人は名乗りでないのかをルイスと一緒に足で稼ぐような捜査で関係者に話を聞いて回るが、一向に真相は明らかにならない。
そして、この膠着状態を打破するために論理のみで直接、ヒッチハイクの男の正体を割り出すなどといって、ノース・オックスフォードに住む約1万人の住人の中から、犯人かもしれないヒッチハイクをしたたったひとりの男を絞り込む鮮やかな推論を展開するのである。まさにアームチェアディテクティブ(安楽椅子探偵)の粋というべきものだが、私のミステリの読書歴のなかでこれに匹敵するものは一度しか読んだことがないが、それはアントニー・バークリーの「毒入りチョコレート事件」の中に出てくるものだ。バークリーによるこの作品は複数の探偵が登場し、次々と推理によってその前に登場した探偵の推理をひっくり返していくという構成のもので、犯人の持つと考えられるいくつかの属性で犯人を絞り込んでいくことという論理構成の形式において、両者は相似形をなしているといってもいい*1。コリン・デクスターの「ウッドストック行最終バス」では登場人物が互いに相手のことを犯人だと誤認して、かばおうと発言するせいで状況が複雑化してしまうとか、事件の犯行ではなく他のことを隠そうとして、巧妙な嘘をつくなどクリスティーが得意とした技法が多数使用されていて、それゆえミステリを読み慣れてない人には何が起こっているのかの問題の設定さえもつかめないということにもなりがち*2だが、展開の予測が次々とずらされるという意味でミステリマニアにとってはきわめてスリリングなものとなっているのである。
一方、第2作の「キドリントンから消えた娘」もバレリーという少女の失踪事件から始まるが、こちらは事件が起きたのは2年前のことで、他の担当者が扱いあがねていたのがモースのところに回されてきたのが端緒となる。いかにも「らしさ」を感じるのが、事件のことを知るやいきなりモースは「彼女は死んでいます」と断言するのだが、失踪した少女から両親宛に「親愛なるママとパパ あたしは大丈夫だってことをお知らせしたいの。心配しないでね(以下略)」と無事を知らせる手紙が届いても、部下のルイスの当惑をよそにその確信は揺るがないのだ。
「キドリントンから消えた娘」も「ウッドストック行最終バス」同様に「彼」「彼女」の三人称描写による「プレリュード」から始まる。この冒頭の描写とその次の章がどのような関係にあるのかというのには一種だまし絵的な仕掛けとなっていて*4、注意深く読み解くとそれは分かるのだが、読み飛ばすと意図的にミスリーディングしかねないような作りにもなっている。こうした技巧はほかの部分にも随所に用いられている。
この作品でも「ウッドストック行最終バス」同様にモースの独断専行の推理、そして捜査方針の変更には目まぐるしいものがある。それは私のような展開の先行きを常に予測し続けるようなミステリファンにとってはきわめて魅力的なものではあるのだが、読者の評価が二分されがちであるのはかなりの手練れのファンでないとこの展開にはついてゆきづらくて、最後まで読み終わっても、結局何が起こっていたのか*5。これはある意味デクスターの持ち味でもあるのだが、こういう部分が評価が分かれる要因になるのだろう。
この点について言えばレンデルのウェクスフォード警部シリーズの持ち味は途中段階で、デクスター以上の膠着状態が続くこともあるが、捜査としては地道ながらも堅実な展開が続く。ただ、こちらの論考*6で取り上げた「乙女の悲劇」などがその典型ではあるが、最後の方にクリスティーを思わせるような地と図の逆転が起こり、そのスプライズドエンディングの切れ味に全てをかけているようなところがあるといえるだろう。
simokitazawa.hatenablog.com
モース警部シリーズ作品リスト
ウッドストック行最終バス 1975
キドリントンから消えた娘 1976
ニコラス・クインの静かな世界 1977
死者たちの礼拝 1979 CWAシルヴァー・ダガー賞
ジェリコ街の女 1981 CWAシルヴァー・ダガー賞
謎まで三マイル 1983
別館三号室の男 1986
オックスフォード運河の殺人 1989 CWAゴールド・ダガー賞
消えた装身具 1991
森を抜ける道 1992 CWAゴールド・ダガー賞
モース警部、最大の事件 1993 短編集
カインの娘たち 1994
死はわが隣人 1996
悔恨の日 1999
下記に同時期までのルース・レンデルのウェクスフォード・シリーズの作品リストを比較のためにおいてみるとコリン・デクスターがデビューした1976年までにはレンデルはすでに9作品を発表しており、こうした先行作品をデクスターが意識しなかったということはありえそうにないからだ。
夕闇のせまるオックスフォード。なかなか来ないウッドストック行きのバスにしびれを切らして、二人の娘がヒッチハイクを始めた。「明日の朝には笑い話になるわ」と言いながら。―その晩、ウッドストツクの酒場の中庭で、ヒッチハイクをした娘の一人が死体となって発見された。もう一人の娘はどこに消えたのか、なぜ乗名り出ないのか?次々と生じる謎にとりくむテレズ・バレイ警察のモース主任警部の推理が導き出した解答とは…。魅力的な謎、天才肌の探偵、論理のアクロバットが華麗な謎解きの世界を構築する、現代本格ミステリの最高傑作。 2年前に失踪して以来、行方の知れなかった女子高生バレリーから、両親に手紙が届いた。元気だから心配しないで、とだけ書かれた素っ気ないものだった。生きているのなら、なぜ今まで連絡してこなかったのか。失踪の原因はなんだったのか。そして、今はどこでどうしているのか。だが、捜査を引き継いだモース主任警部は、ある直感を抱いていた。「バレリーは死んでいる」…幾重にも張りめぐらされた論理の罠をかいくぐり、試行錯誤のすえにモースが到達した結論とは?アクロバティックな推理が未曾有の興奮を巻き起こす現代本格の最高峰。 河からあがった死体の状態はあまりにひどかった。両手両足ばかりか首まで切断されていたのだ。ポケットにあった手紙から、死体が行方不明の大学教授のものと考えたモース主任警部は、ただちに捜査を開始した。が、やがて事件は驚くべき展開を見せた。当の教授から、自分は生きていると書かれた手紙が来たのだ。いったい、殺されたのは誰か?モースは懸命に捜査を続けるが……現代本格の騎手が贈る、謎また謎の傑作本格。ルース・レンドルのウェクスフォード・シリーズ
1 薔薇の殺意 From Doon With Death 1964年
1981年12月 深町眞理子 角川文庫
2 死が二人を別つまで A New Lease of Death 1969年
1987年6月 高田恵子 創元推理文庫
3 運命のチェスボード Wolf to the Slaughter 1967年
1987年4月 高田恵子 創元推理文庫
4 友は永遠(とわ)に The Best Man to Die 1969年
1988年4月 沼尻素光文社文庫
死を望まれた男
1988年9月 高田恵子 創元推理文庫
5 罪人のおののき A Guilty Thing Surprised 1970年
1988年8月 成川裕子 創元推理文庫
6 もはや死は存在しない No More Dying Then 1971年
1987年1 深町眞理子 角川文庫
7 ひとたび人を殺さば Murder Being Once Done 1972年
1980年9月 深町眞理子 角川文庫
8 偽りと死のバラッド Some Lie and Some Die 1973年
1987年9月 深町眞理子 角川文庫
9 指に傷のある女 Shake Hands Forever 1975年
1986年1月 深町眞理子 角川文庫
10 乙女の悲劇 A Sleeping Life 1979年
1983年3月 深町眞理子 角川文庫 △
*1:
*2:「運命のチェスボード」が新機軸というほどではないにしても趣向として面白いのは作品の冒頭から何か事件に巻き込まれたか、引き起こしたらしい「男と女」の描写から始まる。描写自体はけっこう具体的でありながら、地の文での叙述としてはこの二人の正体は伏せられていて「男は」「女は」としてのみ描写される。失踪事件だというだけなら、事件が実際に起こったかどうかは捜査陣の側から見れば疑わしい部分はあるはずだが、少なくとも読者の側からすればこの部分の描写があることで、事件そのものは起こったということを前提として読み進めることができる。それはこんな風に書かれている。
*3:simokitazawa.hatenablog.com
*4:プレリュードでは男と女の出会いが描かれ、一見それが失踪事件の描写のように思われるのだが、本文最初に「三年半後、二人の男がオフィスに向かい合って座っていた」の書き出しがある。最初のプレリュードが「ウッドストック行最終バス」の最初と呼応してるようなこともデクスターの仕掛けといえよう。
*5:例えば当初の謎であったバレリーがどうなったのかは分かっても、途中の殺人事件の真相はどうなったのかが、判然としない読者もいたかもしれない。