下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ドロシー・L・セイヤーズ「ナイン・テイラーズ」(創元推理文庫)

ドロシー・L・セイヤーズ「ナイン・テイラーズ」を(創元推理文庫)を読了。


 セイヤーズを読み直そう第7弾。「五匹の赤い鰊」と「死体をどうぞ」は以前に読んでいるので、とりあえず後回しにして、この難物に取り組む。難物と書いたのはこの「ナイン・テイラーズ」は以前に何度も読みかけては転座鳴鐘術についての薀蓄のあたりでついていけなくなって、挫折していて、私にとってはセイヤーズってとっつきにくいというトラウマを与える躓きの石となっていたから(笑い)なんだが、浅羽莢子訳はその意味ではまだとっつきやすかった。だからといって、転座鳴鐘術なるものがなんなのかを理解できたかというと、それは全然心もとない。具体的なイメージがまったくわかないというのは今も同じだ(笑い)。
 内容については京都大学推理小説研究会の尊敬する先輩でもある巽昌章氏が詳しい解説を書いてしまっているので、それに付け加えるような気の利いたことを書くのは難しく、困っているのだが、巽氏も書いているように確かにこの作品については「伝説の名作」としての変な評判があって、やはりあの江戸川乱歩が絶賛したことにもその一因があるようなのだが(笑い)、確かに「重厚で文学的な小説」という評判は私も聞いていたのであった。この形容はセイヤーズの小説全般についてもいわれているようなのだが、少なくともピーター・ウィムジイ卿ものの長編のうち、私が読んでみた9作品から判断する限り、「重厚」はともかくとして、「文学的ってどこが」って感じなのだ。これはもちろん否定的なことを言っているわけではなくて、この「ナイン・テイラーズ」に面白いところがあるとするとそれは「文学的だから」ではなくて、複雑に練られたプロットがミステリとして秀逸だからなんだと思う。
 私の勘違いであればとも思うが、この小説では確かに会話のなかにいろんな文学からの引用がちりばめられたりしていて、文学ないし小説への衒学的な趣味は強く感じられるのだが、それを「文学的」とは言わないと思うのだがどうだろうか。
 巽氏も書いているようにこの「ナイン・テイラーズ」ではある奇抜で有名なトリックが使われているのだが、これもひょっとして乱歩の類別トリック集成のせい?とも感じているのだけれど、乱歩によって密室トリックという風に分類されていたそれは内容を大昔に聞いた時から、ずっとそれがメイントリックで作品が成立するのかと疑問に感じていた。確かにこの作品には「暗号」「顔のない死体」などほかにも乱歩の悪しき還元主義がトリックとして分類するような要素がいろいろ出てはくるのだが、この作品に優れたところがあるとすればそうした個々の要素をパズルのピースとして組み込んだ作品全体のグランドデザイン(プロット)にある。
 表から見える事件の様相としてはまず墓地から発見された正体不明の死体というのがあり、それに昔この村で起こったエメラルド盗難事件、それにかかわり消えたエメラルドはどこにあるのかという謎が物語のドライビングフォースになるのだが、ピーター卿の捜査(あるいは推理)の進行につれて、被害者がだれだったのかを含めて、事件の様相が二転三転していく。今風の言い方をすれば「ホワットダニット」の一種といえるのだが、この構造はコリン・デクスターの先駆と考えることもできる。あるいは被害者が二転三転してそのたびに事件の様相が一変してしまうという謎の構造はルース・レンデルのウェクスフォード警部シリーズを彷彿とさせるところもある。こうした構造はセイヤーズが創作活動を休止した以降のアガサ・クリスティも好んで繰り返して使うことになる。
 ところがこの作品がユニークなのはこうしてまるで玉ねぎの皮をむいていくように真犯人に迫っていったはずのピーター卿が最後に出会うのが、巧緻な犯罪を企てた真犯人ではなく、玉ねぎ同様に「虚空」であるという不気味さで、だからこそあれは単なる物理トリックではなく、そこにこそあのトリックの真意があったわけだ。実際に起きたこと自体は物理現象なわけだが、なぜよりによってその時にかということには運命に操られたという以上の合理的な理由はない。そうした偶然の符合を人間がどのように呼ぶかというと神の摂理と呼ぶことができる一方で、京極夏彦ならばそれに仮の実体を与え「妖怪」と名づけるかもしれない。巽氏が「ナイン・テイラーズ」を論じるにあたって京極を持ち出したことは一見奇を衒っているように見えるがそれなりの根拠はあるわけだ。 
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