「キタで芝居を見るhttp://homepage2.nifty.com/kitasiba/」のサイトから依頼を受けて、2005年上期の関西の演劇ベストアクト*1を選んでみた。
2005年上期の関西の演劇ベストアクト
作品
1、WI'RE「H●LL」(伊丹アイホール)
2、クロムモリブデン「ボウリング犬エクレアアイスコーヒー」(in→dependent Theater 2nd)
3、遊劇体「金色夜叉」(京都府芸術文化会館)
4、ニットキャップシアター「ヒラカタ・ノート」(京都府芸術文化会館)
5、ベトナムからの笑い声「ニセキョセンブーム」(アートコンプレックス1928)
役者
1、風太郎(くじら企画「サヨナフ 連続ピストル射殺魔ノリオの青春」の演技)
2、川田陽子(くじら企画「サヨナフ 連続ピストル射殺魔ノリオの青春」の演技)
3、奥田ワレタ(クロムモリブデン「ボウリング犬エクレアアイスコーヒー」の演技など)
正直言って今年上半期の関西の演劇公演は不作だったといわざるをえない。ベストアクトに選んだが実は遊劇体「金色夜叉」、ニットキャップシアター「ヒラカタ・ノート」は昨年上演された作品の再演(新・KYOTO演劇大賞本選公演での上演)。ほかにも、くじら企画「サヨナフ 連続ピストル射殺魔ノリオの青春」、スクエア「ラブコメ」などの秀作はあったが、いずれも過去に評価の高かった舞台の再演で、結局、再演ながら今回が初見であった前記2本を選び、後の2本は今回はベストアクトからははずすことにした。
WI'RE「H●LL」(伊丹アイホール)は1年を通じて物語と演劇の可能性を探るという連続公演「スカリトロ」シリーズの一環として企画されたもので、全体として3つのフェーズに分かれたシリーズの集大成となる公演。第1のフェーズはJUNGLE iNDPENDENT THEATEREで上演された「DOORDOOR」と題するリーディング公演。第2フェーズは昨年末、大阪芸術創造館の全館を使うインスタレーション(美術)&パフォーマンス公演「CROSS1」と大阪現代芸術祭「仮設劇場<WA>」での「CROSS2」で、同じ物語と登場人物(キャラクター)、テキストを共用しながら、まったく異なったアプローチでの上演を試みた。
この「スカトリロ」シリーズは「CROSS1」「CROSS2」を見たがこれまでの印象は「やりたいことはなんとなく分かるけれど、それじゃ全然できてないのじゃないの」というもので、実はサカイヒロト(WI'RE)の場合これまでの他の公演を見ても事前のアイデアを聞くとすごく面白そうでも、実際の公演を見に行くといろんな事情で当初構想したことの半分も実現してなくて思わずがっくりなんてことが多かった。その意味では今回の「H●LL」は初めてのクリーンヒットといえるのではないかと思う。
特に前半から中盤にかけてのテキストのリーディングとダンス的な身体表現、映像、音楽が一体となっての空間構成は見事なもので、アイホールの空間をこれほど巧妙に使いこなした演出というのは珍しいと思い感心させられた。これまでの公演では外部からの客演を加え、それが結果としてうまい関係性が作れずに中途半端に終わっていたが、この公演では出演者を劇団員である5人の女優だけに絞り込み、過去に起こった事件を「記憶のなかの出来事」として、舞台上との距離感を持たせながら、リーディング(語り)やダンス的身体表現をまじえながらあくまでアンサンブルとして表現していくようにしたのが成功した。
関西でいまもっとも充実している劇団であるとここのところ毎回書いているクロムモリブデン「ボウリング犬エクレアアイスコーヒー」も昨年の「なかよしshow」などと比較するとやや小粒の感はないではないが、今年上半期の収穫といえよう。「なかよしshow」はマイケル・ムーア監督の「ボウリング・フォー・コロンバイン」を下敷きにしていたが、この「ボウリング犬エクレアアイスコーヒー」も明らかに同じ映画を意識した設定。ここで描かれるのは米コロンバイン高校の連続銃射殺事件が直前のボウリングでストライクを出した高校生たちが興奮したことが原因で引き起こされたことが証明されて、そのために世界的にボウリングが禁止されている世界である。
この世界でインターネットの自殺サイトで知り合った仲間が集団自殺決行のため待ち合わせるところから物語は始まり、そこに自殺願望の少女(奥田ワレタ)を救おうとする人(齋藤桂子)、殺人願望を持つ人(金沢涼恵)、ボウリング場を復活させようと企む兄妹(森下亮、重実百合)、彼らを利用してなにやら陰謀を企んでいるらしい女(山本景子)らが次々と現れる……と筋立てを説明するとこのようになるものの、筋立てはもはやこの舞台のなかではそれほど重要とはいえない。
このような世界の設定はあくまで舞台の背景にとどまっていて、物語によってそうした主題に正面から切れ込んでいくようなところは今回は薄く、途中なんども繰り返される音楽にのせて、列を作って役者がぴょんぴょん飛び回りながら、舞台上を駆け巡るシーン(ないしシーンのつなぎ)やそれぞれのキャラを生かしたコント風の会話などに代表されるように内容よりものりとテンポを重視した演出で、ナンセンスで出鱈目な展開を強引に見せきってしまう力技に感心させられた。
遊劇体「金色夜叉 貫一編」とニットキャップシアター「ヒラカタ・ノート」はいずれもしばらく公演を見てないうちにその表現のスタイルの変貌ぶりに驚かされた。遊劇体は以前は野外演劇を中心にネオアングラ的なスタイルでスペクタクル性の強い舞台を作っていた印象が強く、それが「金色夜叉」をというのでアングラ劇的などろどろした世界を描き出すのかと勝手に思い込んでいたら、まったく違った。「金色夜叉 貫一編」は抑制された演出のなかに様式性を見事に持ち込んだ舞台で、ともすれば手垢のついた古色蒼然なイメージになりがちな尾崎紅葉の「金色夜叉」をギリシア悲劇のような構築美で現代化してみせた。
一方、ニットキャップシアターもコロスのような集団演技や維新派を彷彿とさせるようなボイスパフォーマンスを現代演劇のなかに融合させた斬新な演出で、以前見た時のコント風の芝居をやる集団という印象を一変させた。この2劇団は今後こうした方法論でどんな舞台成果を生み出すのか要注目といえよう。
関西は笑いの本場などと言われていても、かつて遊気舎の後藤ひろひとが東京に進出して動員を大量に増やすまで黙殺されていたようにこと演劇に関する限り、先鋭的な笑いへの評価は不当に低いのではないかという気がしてならない。こういう状況の中からはヨーロッパ企画やスクエア*2のようにだれにでも分かりやすい笑いは生まれてきても、決して一時期の猫ニャーのような破壊的な笑いというのは生まれてこないのじゃかいかと思う。
そういう逆境のなかにありながらも純度の高い笑いを、しかも笑いだけを追求し続けて孤高の存在となり、今年上半期も「ニセキョセンブーム」で健在ぶりを示したベトナムからの笑い声はだからこそ貴重である。
笑いを追求するといっても、そのテイストが一種類といわけではなくて、笑いのデパートのようにさまざまな切り口から迫るのがベトナムの特徴だ。最近では短編を並べたオムニバス形式の公演が続いているのだが、それはひとつにはこの形式がいろんなテイストの笑いをほどよくミックスして提供するのに向いているということがあるのであろう。
「モグラパンチ」はあえて分類すればシュール系の笑いということができるだろうか。田舎のゲームセンターのようなテーマパークのようないかにもしょぼい施設に迷い込んだカップル(黒川猛、山方由美)がルールも分からず、どうしたらいいのかが分からない変なゲームを次々と強要されて、途方にくれていくという話なのだが、こういうわけの分からなさが増幅して次から次へとエスカレーションしていくという笑いは脚本の黒川猛が得意とするところだ。最近は長編がないのは残念だが、最初にこの集団を知った「ザ・サウナスターズ」や遊気舎が上演した「ドッグ・オア・ジャック-改訂版-」なども当時はシチュエーションコメディなどと言われていてそうじゃないんじゃないかとどうも違和感があったのだが、大きく分けるとこの「エスカレーションの笑い」に入るのじゃないかと思う。
普通の人が突然、理解不能な状況(異界)に巻き込まれて、困りに困るという状況から生み出される笑いというのはガバメント・オブ・ドッグスの故林広志なども得意としていた笑いの構造ではあるが、故林が日常/異界の対立軸をはっきりと構造化して、途中で関係の逆転などが入ることはあっても、構造自体にはゆるぎがないことが多かったのに対して、黒川の場合には最初に設定されたシチュエーション自体がその先の展開へのあくまでもトバ口に過ぎなくて、舞台が進行していくうちに異常な状況(というか、それをもたらすほうの異常性、あるいは異常なキャラ)がひとり歩きして、最初の設定さえどうでもいいものとなっていくところにその特徴がある。この「モグラパンチ」でも最初の2つのゲームまでは日常/異界的な対立軸にしたがって、筋立てが進行するが、結局、これは表題にもなっている最後の本当に訳の分からないところに持っていくための手段に過ぎずだから終わった後では最後の場面の印象しか残らない。
「ザ・演劇ドラフト会議」は演劇にも野球のようにドラフト会議があったらどうなるんだろうという発想から生まれたもので、分類すれば演劇と野球の両方に対する2重のパロディといっていいのだろう。ただ、ここでもパロディ(=批評性の笑い)ではない要素が大きく入り込んできていて、それがこのネタをなんともいうに言いがたきものに変質させていっている。
一方、「クローンズ」の笑いはあえて分類すればブラック(黒い笑い)であるのだが、これも実際にはネタとしてのブラックなテイストをクローン人間が閉じ込められているビニールシートで作られた容器のようなものとそれに裸体に近い男たちが入って熱演するというビジュアル的な情けなさのインパクトが上回っていて、本来からすればこれは脚本だけを読めばブラックではあっても笑える話ではないのにそれを役者の体当たりの演技で笑えるものに強引に仕立て上げた力技が馬鹿馬鹿しくもおかしいのだった。
この集団のもうひとつの武器は役者でもある宮崎宏康の製作した特殊美術にあるが、「匠・からくり人形師」はそれを最大限に生かした作品。宮崎の作ったあやつり人形の造形には目を見張らせるものがあり、おおいに笑わせてもらったが、惜しむらくは今回の人形はこのために作ったものではなくて、以前に使ったことがあったものを使いまわししていたことで、観客というのはわがままなものだから、せっかくならば新作の特殊美術が見たかったという不満が残った。
実は今回の舞台は予告段階ではひさびさの1本ものの長編だということで、ここでも書いた「エスカレーションの笑い」の特徴として、まさに抱腹絶倒なんども椅子からころげ落ちそうになった最高傑作「ハヤシスタイル」のように長編でより生きるものではないかと思っているので、そこのところは残念であった。次回公演こそ期待したいのだが、どうなるだろうか。