下北沢通信

中西理の下北沢通信

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岩下徹×東野祥子×斉藤徹「即興セッション」

岩下徹×東野祥子×斉藤徹「即興セッション」(アートシアターdB)を観劇。
 即興ダンスの求道者、岩下徹(山海塾舞踏手)とクラブシーンを中心にさまざまな音楽家と即興活動を行ってきた東野祥子(BABY−Q)、コントラバス奏者でやはり即興をベースに他分野のアーティストとのコラボレーションを実践する斉藤徹。
 即興の名人3人による模範試合(模範手合い)といった趣きの舞台であった。3人とも押さば引く、引かば押すとまるで飽きることなく、非常に面白く見られた。
 東野祥子のダンスはソロの即興ダンスをこういう小劇場で見るのは実は初めてだったのだけれど、BRDGEの「POOL」などで見せたのとは明らかに趣きの異なるダンスをこの日は見せてくれて、それが面白かったのとともに即興のダンスというのはきわめて、その時に置かれた関係性の産物なんだなというのが伺えて興味深かった。
 この日の即興ダンスは2部構成で、前半と後半が途中に15分間の休憩(インターバル)を含んで、それぞれ30分ずつ。最初の30分は始まりの部分では斉藤は右奥にただ立っていて、演奏はせず、ダンサーの2人は左右に分かれて立っていて、無音の静寂のなかで踊りはじめた。
 この3人の顔合わせは岩下と斉藤は以前に2人で一緒にパフォーマンスをやったことはあるが、東野と岩下、東野と斉藤は初顔合わせ。そのため最初はゆっくりとしたムーブのなかでお互いを探りあう状態といえようか。ただ、それでもそれぞれに相手の出方を空気としては意識して感じながらも、手探り状態であったとしても表向きはそういう風には見せずにかといって相手も見ずに自分ひとりで突っ走っていくということもなく、それぞれが自分のダンスの世界を作り上げているのはさすがであった。
 最初、離れてそれぞれが踊っていたのを岩下がしだいに東野に近づいていってまたすぐに離れたりしながら、互いの距離をはかろうとしかけたところで、面白かったのはフェスティバルゲートというこの場所にある「アートシアターdB」という劇場の宿命といってもいいのだけれど、階下にある「大阪プロレス」からレスラー登場のロックぽいビートの利いた音楽が微かにとはいいがたいほどの音量で聞こえてきた時のこと。その瞬間に東野、岩下の両者ともにその音に瞬時に反応して、あたかも以前からそうなることが予定されていたようにその動きのテイストを変えたのである。
 ここでは岩下はちょっとコミカルとも取れるような動きを一瞬して、それに東野も呼吸も置かずリアルタイムで反応したように見えた。この一瞬で劇場内を支配していた無音のなかで踊ることから起こる観客席の緊張がほんのひととき崩れ、客席から笑いも起こったのだが、かといってそれで2人ともにその雰囲気を引っ張って受けをとりにいこうとは一切せずにした。ここまでの自然な空気の流れにこの2人はだてに場数を踏んでるわけではないと思わず感心させられたのである。
 その後、音楽に斉藤が入り、斉藤のコントラバス演奏と2人のダンサーとのやりとりとなる。コントラバス演奏とはいっても、この前半部分のはコントラバスを叩いて打楽器的に扱ったり、不協和音というよりはかなりノイズに近い音を出したりというもの。この3人になった時に面白かったのは東野と岩下では斉藤の音楽との間でとる関係性に明らかにアプローチの違いがあったことだ。簡単に説明すればこの舞台では東野は斉藤の出す音を聴いて、その音だけに純粋に反応しているように見えたのに対し、岩下は演奏者である斉藤自身にもパフォーマーとしてからんでいっていた。特にその違いが顕著に表れていたのは舞台奥の壁際に斉藤と岩下がいて、打楽器風にコントラバスを叩く斉藤に合わせて合奏するように自分も壁を叩き出した場面で、その時、東野は客席方向を向いて(つまり、2人とは背中合わせの向きで)2人の出す音に反応してダンスを踊った。
 この日舞台を見ながらこれは東野と岩下が音楽家と対する時のアプローチの違いであるのか(つまり、東野は音に、岩下は人によりセンシティブに反応するのか)、それともこの日この状況に置けるそれぞれの関係性の違いが舞台に現れたのかが気になり、それでそれだけは聞いておきたいと思い、終演後ロビーで東野本人に確かめたのだが、今回に関しては後者である、との答えであった。
 第一部ではこの後しばらくして、岩下が下手壁際に座って、東野祥子のソロ、そして、東野が舞台そでにはけて、岩下のソロで踊った。ここまで濃密な時間で即興でありながら最近見たダンス公演のなかでも屈指の完成度の高さ(即興で完成度というのも変なのだが)を感じた。
 休憩の後、今度は最初、東野と斉藤だけが舞台にいて、斉藤の演奏(今度はコントラバスを弓で弾いている)に合わせて、東野が舞台中央の円形のスポットをぐるぐると回っているところに舞台そでから岩下が覗きこむ。前半と比べて後半はダンサー2人のからみが多かったのが違いだろうか。からみと書いたが、この2人はいっさいコンタクト(接触)しないので、どちらかがどちらかに近づいてまた離れることの繰り返し。面白いなと思ったのはこの時の2人がとる距離感がある意味、絶妙である。離れていてもどこかで相手のことを意識していて、もちろん、演奏家の斉藤の動きも含めて、今この時にここで起こっていることに対してセンシティブである。一方で、近づいても相手の領域は完全には侵犯しないで、ぎりぎりのところでスッと離れる。
 これは簡単そうに見えて実はそう簡単にできることではない。ある意味、相手が岩下だったことがあるにせよ、この日の東野には少し驚かされた。元々、身体が利き、ハードエッジな動きが出来るダンサーだけにもう少し攻撃的なところを見せるのかと思っていたのだが、この日はそうではなく、それもそうなったのはこの3人でパフォーマンスを始めた時からの必然的な流れで自然にそうなったので、初めての相手だったからというのは多少あったのかもしれないが、むしろ、岩下の動きに反応して、自然体で反応していたら、いつの間にかこうなっていたというのが正直なところじゃないのかと思うのだ。
 この日、ダンスにおける即興というものが、きわめて関係性の産物なんだなと伺えて、面白かったと冒頭に書いたのは岩下の即興も完全即興・無音・1時間の「放下」を始め、何度かは見たことがあるのだが、ダンサーとしてはソロの時が多かったので、ソロで音楽家とのコラボレーションという時とダンサーが同じ舞台にいる時では明らかに印象が違っていた。
 「放下」などの場合には「動きの求道者」として、自らの内面に聞きながら、訥弁に動きを探っている感じがしたのだが、この日の岩下は東野、斉藤の出方を感じながら、瞬間的に自分も生きて相手も生かせるような流れを作り出していく、文字通り、今回の表題でもあるセッション(例えばジャズの)におけるバンドマスターのような役割を果たしていたように思われた。
 セッション的な面白さを感じさせた場面としては途中で最初、岩下が仕掛けたにしても打ち合わせなど一切ないのに2人が交互に倒れて、そこから立ち上がるという動きをしばらくの間も何度もリフレインするかのように繰り返したところがあったのだが、この2人の場合、ややごつごつとしたぎごちない動きの岩下に対し、流れるようなムーブメントの東野と動きの質感が大きく違うこともいい方に作用して、しばらく同じ動きを両方が交互に繰り返すことでそれぞれの身体性や動きの特徴がソロの場合よりもより露わに浮かび上がってくる
ところがあって、それも見ていて面白いところであった。実は見る前にはこの2人の組み合わせというのは噛み合うのだろうかという危ぐを少し持っていたのだが、そんな心配はまったくの杞憂であった。
 この公演は即興なのでおそらく、22日の公演ではまったく異なる展開が起こることもおおいに考えられ、例えばこの日は残り2人のリードにより自然体で踊った(ように見えた)東野が初日に出来た関係性をあえて壊すためにもう少し挑発的な手管を繰り出してくる可能性もあるわけで興味は尽きないのだが、私は横浜で別の公演を見なければならず見られないのが後ろ髪を引かれる思いである。22日の公演を見た人がいたら、どうだったかをぜひ聞かせてもらいたいところである。
 実は昨年の5月にこの日記にダンスの即興について考えてみるという試論のようなもの*1を書き始めていたのが途中で放擲したような形になっていた。この公演を機会に時間を作ってもう一度挑戦してみたいと思った。
 ダンスについて最近いろいろ考えていることがあるのだが、「即興」と「ノイズ的身体」=「アンコントローラブル(制御不能)な身体の動き」というのが私にとってダンスとはなにかを考えていくうえでの2大テーマとなりそうな気が最近している。