下北沢通信

中西理の下北沢通信

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山田せつ子ダンスシリーズ「奇妙な孤独vol.2」

山田せつ子ダンスシリーズ「奇妙な孤独vol.2」(京都芸術センター)を観劇。
昨年12月に東京・スパイラルホールで上演された山田せつ子×天野由起子「奇妙な孤独」に続く第2弾として企画された公演。今回は山田せつ子の相手役としてダンサーではなく俳優の内田淳子が出演した。
 ダンサーではない内田を構成・演出・振付の山田がどんな風に使うのだろうというのが、この公演における私の主たる興味の対象だったのだが、正直言ってこれはあまり成功したとはいい難いのではないだろうか。少なくともこの公演に期待したのは東京で見た「奇妙な孤独」がかなり面白かったからなのだが、それはダンサー、天野のことを熟知してそのよさを山田が存分に引き出したからということはあったとしても、あれは作品として面白かったというよりは天野が面白かったのだ、ということが、この舞台を見てきて逆に自分のなかではっきりしてしまったからだ。
 もっとも大きな不満はこの舞台で山田が内田に結局なにをさせたかったのかが、見ていても結局はっきりしなかったことにある。内田はダンサーではないので、ダンサーのように踊ることはできないのは当然のことなのだが、踊らなくても舞台上で踊る山田と拮抗した存在として見せることのできるような枠組みがあれば印象は違ったのだろうが、この作品にはそういう作品外部のテクスト的な枠組みがほとんど存在しない。そういうなかで、身体表現者として内田が山田と拮抗しうるにはこの日見せたパフォーマンスでの舞台での存在の状態ではどうしても身体言語的な語彙の数が不足しているといわざるをえない。今回の舞台では山田が内田のこれまでの舞台では見ることができなかった新しい魅力を引き出すどころか、本来は持っているはずの俳優としてのスキルの部分も封じられて、途方にくれているようにさえ感じられた。
 後半部分では与えられたテキストのように思われるモノローグを内田が朗誦する場面もあるから、すべてが即興というわけではないのだろうが、あの部分も結局、舞台全体の構造のなかであのテキストがどういう意味を持つのかということははっきりしなかったし、この舞台にはダンス作品であるとしても、例えばピナ・バウシュのタンツテアトルが持つような演劇的な枠組みは存在しないから、どうしても舞台上でのパフォーマーの動きや身体のあり方だけに目がいくことになって、ダンサーである山田にとってはそれでよくても内田にはこの枠組みのなかでは本来の力の発揮しどろがなかったんじゃないかと思われた。要するにそこには演出というものがまったく不在なのである。
 もちろん、山田自身は優れたダンサーでもあるので、ソロのダンス場面などをとれば楽しめる場面もあったが、2人が同時に舞台に立つという意味や関係性が残念ながら、そこからは見えてこなかった。