下北沢通信

中西理の下北沢通信

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MIKUNI YANAIHARA PROJECT vol.2「青ノ鳥」

MIKUNI YANAIHARA PROJECT vol.2「青ノ鳥」(STスポット)を観劇。
 ニブロール矢内原美邦による演劇プロデュース公演の第2弾である。第1弾となった昨年7月の「3年2組」*1は2005年ベストアクト*2に選んだほど刺激的な舞台であった。今回の舞台でも「3年2組」で見られたような既存の演劇形式への挑発性はやはり継続していて、そういう刺激は感じ取ることができた。ただ、テキストが基本的に会話劇のフェーズを持っている部分の演出に関しては今回は今年末予定されているこの舞台の本公演に向けての準備公演の色合いが濃かったためもあってか、いまだ試行錯誤の最中というところもあった。演劇的なテキスト性を身体表現の手法により解体していくというこのプロデュースの方向性から考えると、今回の舞台は前回の「3年2組」と比べると若干、普通の演劇寄りに感じられるところもあり、そこにやや物足りなさも残った*3
 今回はそこには絶滅したはずの生き物たちが今も住むという森の近くにある生物研究所の群像劇と演劇で「マッチ売りの少女」を上演しようとしている高校生たちの物語が交互に同時進行していく構成。いずれの場面も演技・演出の面ではある種の実験的手法が試されているが、どちらかというと生物研究所の場面は台詞劇的、高校生たちの場面はダンス的な動きを多用してのこれまでのニブロール的な手法により構成されている。
 見ていて感じたのはこの構成が「3年2組」の時と比べると、全体としてスタティックな印象を与える結果になったのではないかということで、「3年2組」の場合にはかつてのクラスメートが昔皆で埋めたタイムカプセルを掘り起こしにいくことになるという筋立ては一応あったのだが、昔こういうことがあったという記憶がそれぞれのなかで異なる記憶として捏造されていくという現実・記憶の重層性という主題が一方にあって、それが舞台の進行につれて演劇的な物語がカオス的に解体されていくという構造がダンス・映像と同時進行する速射砲のような台詞とあいまって、既存の演劇にはなかったような疾走感を生み出していくところにその魅力があった。
 ところが、今回の「青ノ鳥」ではそういう要素は高校生たちを描き出した場面には確かにあって、例えば音楽に合わせてそれぞれの役者たちが激しく動きながら台詞を発しているのだが、そこではダンス的な激しい動きに大音量の音楽がかぶさってくるので、台詞自体はほとんど聞こえず、その代わりにそれを言語テクスト的に補完するように壁にそこでの台詞が文字情報として映像的にかぶせられるなどの新しい試み、あるいは役者が全員で歌を歌いだすような音楽劇的要素もここでは試みられた。
 ただ、問題はこの舞台ではどうしてもそうした場面は従の存在で、舞台全体の基調を決定づけているのは研究所の場面で、ここでも確かにところどころに矢内原だから普通のダンスとは違う動きだが、役者が動きながら台詞を発するところや逆にマイクを使って質感を消したささやくように台詞を語るところや、そこから急に叫ぶような声に急転換するところなど、リアリズム志向とは明らかに違う異化効果的な演技手法をとりいれているところなどもあるわけだけれど、全体としては台詞が聞き取れることを意識したためか、「3年2組」で引き起こされたような疾走する感覚はここにはなくて、相当変則的な演技スタイルをとっているのにもかかわらず、どうしても群像会話劇を思わせる静的な印象を与えるものとなっている。
 そして、この静的フェーズが高校生場面が引き起こした動的フェーズを分断するような構造に舞台がなっているために大きなうねりのようなものが感じられなくて、せっかくの動的フェーズが80年代演劇によくあったような芝居と芝居の間の場面転換をつなぐダンスシーンのようなものに感じられてしまった。
 今ダンスシーンと書いたことにはもうひとつ理由があって、それは「研究所」と「高校生たち」は本来互いに表裏一体の関係にあるような対等なモチーフだったのだと思うのだが、言語テキストとして意味性がはっきりした(つまり、よくも悪くも分かりやすい)「研究所」の場面に対して、「高校生たち」の場面がこの日の上演ではややとりとめがなくて、そのためこの2つの場面の関係性がはっきりとは浮かび上がってこない嫌いがあったことだ。
 そのために全体としての印象はより演劇的な要素の強い「研究所」の方に引っ張られて、スタティックなものに感じられたのではないか。
 矢内原の場合、これまでの作品を見ての印象では例えば手法の実験性といってもチュルフィッチュの岡田利規ポツドール三浦大輔がそうであるように方法論的な突き詰めをある程度は自らが提示しようとするモチーフと手法のすりあわせを考え抜いた上で実際の作品化の場において検証していくというよりも、試行錯誤を通じて「走りながら考える」というところがある。
 そのために過程においては「どうなんだろう」と思わせるところがあっても最終的に仕上げてくるものが基本ラインにおいては過たないのはその舞台に対する感覚の鋭さ、センスのよさがあるからだと思う。その意味ではたたき台としての要素としてはいろんな面白さの種が綺羅星のように入っていて、ここから本公演に向けてどんな取捨選択をしていくのかが、楽しみな公演ではあった。 
 個人的には今回はやや演劇という枠組みにとらわれすぎたような気がして、演劇ファンからは「3年2組」は台詞が聞こえないなどと評判がよくなかったようなのだが、そんなことは無視してもっと滅茶苦茶でカオス的なもの。「意味は分からないけれど面白い」というようなラジカルさにその本領はあると思っているのだが、果たしてどうなるだろうか。   

*1:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20050717

*2:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060123

*3:本人が演劇作品だと位置づけている作品に対して、それが演劇だから物足りないなどと書くのはそのそも矛盾していると思いながらも、つい書いてしまうのは矢内原に演劇の枠組み自体を破壊してしまうアウトサイダーの暴力を期待しているからなのだが、言われた本人は迷惑だろうと思いながらつい期待してしまう。もっとも、矢内原と演劇との距離感への期待には矢内原(ニブロール)と既存のダンスとの距離感からの連想もあって、それはそういうボーダレスな領域から何かこれまでの舞台芸術とはまったく違うとんでもないものが生まれてこないかという期待であるのかもしれない