下北沢通信

中西理の下北沢通信

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連載)平成の舞台芸術回想録第二部(8)ミクニヤナイハラプロジェクト 「3年2組」(矢内原美邦)

平成の舞台芸術回想録第二部(8)ミクニヤナイハラプロジェクト 「3年2組」

矢内原美邦が率いるパフォーマンスグループNibrollニブロール)の舞台はそれ以前から見ていたが、矢内原が自ら演劇公演と名付けているミクニヤナイハラプロジェクトの初めての公演「3年2組」(2005年)を吉祥寺シアターで観劇した時の衝撃は今も記憶に鮮明に残っている。
その時に感想として書いた日記風レビューを以下に紹介してその時の興奮を思い起こす一助としていきたいとは思うが、実はその時点ではこの「3年2組」がどのような射程を持った表現であるのかというのはまだ判然とはしていなかったかもしれない。
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MIKUNI YANAIHARA project「3年2組」(吉祥寺シアター)を観劇。
 ニブロール矢内原美邦によるプロデュース公演。確かに台詞はあるけれど普通の意味での演劇公演でもないし、ダンス公演ともいえない。そういう意味ではあえていえば「パフォーマンス」なのだろうけれど、矢内原本人が「演劇だ」と言い張っているようなので、一応ここではそう分類しておく(笑い)。
 ニブロールのメンバーからは矢内原美邦と映像の高橋啓治が参加。今回はニブロールの本公演ではなく、それ以外は衣装(広野裕子)、音楽(スカンク)と外部のスタッフが入ったので全体としてどういうテイストになるんだろうと見る前は若干の危ぐを覚えての観劇だったのだが、まさに矢内原美邦ワールド。ニブロールの公演以上にニブロールの匂いがする公演だったかもしれない。
 台詞のある演劇のある意味、宿命的ともいえる欠点は俳優が言葉を発してしまうとその瞬間に舞台上の時間が停滞してしまい、ある種のダンスパフォーマンスが持つドライブ感が殺がれてしまうことにある。ニブロールの魅力は特に音楽に乗せて、加速していくようなドライブ感のある舞台が進行していくところなのだが、例えば以前にニブロールがやはり演劇公演だとして上演したガーディアンガーデン演劇祭での「ノート」ではどうしてもそうしたよさが、台詞によって分断されてしまうというようなところがあった。
 これを回避するためには例えば維新派のように言語テキスト自体を単語のような短いフレーズに分解して、ボイスパフォーマンス的なものに分解していくというような手法はあって、ある種のダンスでもそうした方法論が取られることはあるのだが、矢内原の選択は違った。
 矢内原は「3年2組」では、会話体としての台詞を温存しながら、その台詞を速射砲のように俳優が発話できる限界に近い速さ、あるいは場合によっては限界を超えた速さでしゃべらせることによって、言語テキストにまるでダンスのようなドライブ感を持たせることに成功し、それが音楽や映像とシンクロしていくことで、高揚感が持続する舞台を作りあげた。
 ここで興味深いのは矢内原の振付において特徴的なことのひとつにパフォーマー、ダンサーの動きをダンサーがその身体能力でキャッチアップできる限界ぎりぎり、あるいは限界を超えた速さで動かし、そうすることで既存のダンステクニックではコントロールできないエッジのようなものを意図的に作り出すというのがあるが、この作品ではその方法論を身体の動きだけでなくて、台詞のフレージングにも応用しようと試みていることで、そういう意味で言えばここでの台詞の発話に対する演出においてダンスの振付と同じことを目指しているように思われたことだ。
 ダンスの振付と一応、書いたけれども、これは通常「振付」と考えられているある特定の振り(ムーブメント)をダンサーの身体を通じて具現化していくというのとは逆のベクトルを持っているのが矢内原の方法の面白さでもちろん彼女の場合にも最初の段階としてはある振りをダンサーに指示して、それを具現化する段階はあるのだけれど、普通の振付ではイメージ通りの振りを踊るために訓練によってメソッドのようなものが習得されていく*1のに対して、ここではその「振り」を加速していくことで、実際のダンサーの身体によってトレース可能な動きと仮想上のこう動くという動きの間に身体的な負荷を極限化することによって、ある種の乖離(ぶれのようなもの)が生まれ、それが制御不能なノイズ的な身体を生み出すわけだが、こういう迂回的な回路を通じて生まれたノイズを舞台上で示現させることに狙いがあるのじゃないかと思う。
 ここで思い起こされるのはチェルフィッチュ岡田利規が言葉と身体の関係性のなかから生まれてくるある種の乖離(ずれ)の重要性というのをやはり強調していたことで、それに至るアプローチの方法論としてはまったく異なるというか、逆のベクトルを持っているようにも思われるこの2人のアーティストが結果的に同じようなものを求めているのじゃないかと考えさせられたことだ。このことについては今述べたのはあまりにも雑駁な論理であるし、もう少し精密に考えてみなければならないと思ってはいるが、おそらくこれは偶然ではないという気がしてならないし、ノイズ的身体という考え方があるとするとこれは「現代の身体」ということを考えていくうえでひとつのキーワードになりうる問題群かもしれない。
 もうひとつここで思い出したのはCRUSTACEAの濱谷由美子が横浜ソロ&デュオで上演した「スピン」という作品。これはきわめて強度な負荷のかかる激しい動きを連続して行うことで、本来はこうであるはずという仮想を「振り」に身体がついていけず、そこで「振付」と「実際の動き」に乖離が起こるという現象をやはり作品化したものであった。濱谷の場合には岡田や矢内原ほど方法論的に突き詰めたところから出てきたものではなかったかもしれないが、作品を見た時点ではそれがなぜ面白く思われたのかという理由をクリアーには説明することはできなかったが、矢内原の作品を見て改めて考え直してみた時、あれが実際に面白かったのはそこにノイズ的身体が確かに具現化していた瞬間があったからかもしれないと思われてきた。これも「スピン」を元にした新作「GARDEN」でもう一度確認してみなければならないだろう。 

注1:典型的にはW・フォーサイス。彼は彼の常識はずれの身体的負荷を持つ振付を具現化するためにサイボーグとさえ称される超絶技巧を身体化できるフォーサイス・ダンサーを育成した。

 この感想では比較対象としてチェルフィッチュとCRUSTACEAのみを取り上げているが、この翌年(2006年)に東京デスロックの多田淳之介が「再生」を上演。さらには柴幸男のままごと「わが星」も出てきて、東日本大震災を契機に平田オリザらによる現代口語演劇からポストゼロ年代演劇へと現代演劇の担い手の主軸は移っていく。
さらにその中核となるのが身体に負荷をかける表現であり、矢内原美邦はダンスの世界から演劇の世界に参入したという意味ではアウトサイダー的存在でありながらも2012年には「前向き!タイモン」で岸田國士戯曲賞を受賞するなど演劇界においても次第に確固たる地位を築いていくことになった。
 もっともこの「3年2組」のころにはその特異なスタイルは演劇ファンにはまだ抵抗が大きかったのか「セリフが聞こえない」などと結構不評が多かったのに当時コンテンポラリーダンスやマルチメディアパフォーマンスなどを頻繁に観劇していた私は逆に演劇の観客はここまで保守的なのかと驚かされもしたのである。
 矢内原美邦はその翌年には演劇作品としてはその延長線上にある「青ノ鳥」*1*2を上演。以下は山の手事情社のハイパーコラージュ期の作品と比較して「青ノ鳥」を分析した論考である。

さて、矢内原の作る舞台はどうだろう。ニブロールの舞台もパフォーマーに加え、映像や生演奏の音楽などが同時多発的に展開しコラージュされるという意味でハイパーコラージュといっていいだろう。問題はこれに言語テクストが加わったMIKUNI YANAIHARA PROJECTはどうなるのか、である。これはそんなに簡単ではない。「青ノ鳥」を見て思ったのは台詞が存在すればやはり観客はその意味を知りたくなる。単なる音のようなモノとしては聞き取りがたい。発話の「記号性」「意味性」でなく、「モノ性」「身体性」が矢内原の演出を通じて重要度を増しているとはいえ、「青ノ鳥」においても台詞の意味は作品の構造のなかで依然重要な要素である。むしろ、今回矢内原が試みた方法ならば観客は聞き取りにくい台詞をなんとか聞き取るために台詞への注意力をより強められる。平田オリザは観客の能動性を高める手段として、同時発話の会話のどちらかを選択的に聞きとらせることを試みたが、「青ノ鳥」の聞き取りにくい台詞も同様な効能を持つかもしれない。

台詞がある場合でもそれを断片化していくことで、コラージュ的な処理は可能で、舞台でそれを実現しているのが維新派であり、少年王者舘である。維新派は台詞を単語レベルに分断化、少年王者舘は単位時間あたりの言語情報の密度を人間の処理が可能なレベル以上に上げていくことで、その意味性を自壊させていく。それは冒頭にも書いたように言語テキストを用いても舞台のドライブ感を失わないための手段でもあるが、少なくと矢内原はテキストの断片化というこれらの方向性は選択していない。しかし、まだ「3年2組」「青ノ鳥」の2作品だけからではそれが今後どういう方向に進んでいくのかについてはまだ未知数の部分も多い。「青ノ鳥」も「3年2組」と比較すればそれぞれの場面で役者がどんな演技をするかについての手数(てかず)が大幅に増えたのは確かだが、ここでは決定的な方向性が提示されたとは言いがたい。試行錯誤の最中であろう。そういう中で彼女自身の関心はおそらくそこにはないとは思われるが、山の手事情社のハイパーコラージュの実験は興味深いものであっただけに90年代に安田がやり残したその可能性の中心に現在の矢内原の試行錯誤がどのように交差していくのかにも私の興味は膨らむのである。

 

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