下北沢通信

中西理の下北沢通信

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矢内原美邦プロジェクト「3年2組」

MIKUNI YANAIHARA project「3年2組」吉祥寺シアター)を観劇。
 ニブロール矢内原美邦によるプロデュース公演。確かに台詞はあるけれど普通の意味での演劇公演でもないし、ダンス公演ともいえない。そういう意味ではあえていえば「パフォーマンス」なのだろうけれど、矢内原本人が「演劇だ」と言い張っているようなので、一応ここではそう分類しておく(笑い)。
 ニブロールのメンバーからは矢内原美邦と映像の高橋啓治が参加。今回はニブロールの本公演ではなく、それ以外は衣装(広野裕子)、音楽(スカンク)と外部のスタッフが入ったので全体としてどういうテイストになるんだろうと見る前は若干の危ぐを覚えての観劇だったのだが、まさに矢内原美邦ワールド。ニブロールの公演以上にニブロールの匂いがする公演だったかもしれない。
 台詞のある演劇のある意味、宿命的ともいえる欠点は俳優が言葉を発してしまうとその瞬間に舞台上の時間が停滞してしまい、ある種のダンスパフォーマンスが持つドライブ感が殺がれてしまうことにある。ニブロールの魅力は特に音楽に乗せて、加速していくようなドライブ感のある舞台が進行していくところなのだが、例えば以前にニブロールがやはり演劇公演だとして上演したガーディアンガーデン演劇祭での「ノート」ではどうしてもそうしたよさが、台詞によって分断されてしまうというようなところがあった。
 これを回避するためには例えば維新派のように言語テキスト自体を単語のような短いフレーズに分解して、ボイスパフォーマンス的なものに分解していくというような手法はあって、ある種のダンスでもそうした方法論が取られることはあるのだが、矢内原の選択は違った。
 矢内原は「3年2組」では、会話体としての台詞を温存しながら、その台詞を速射砲のように俳優が発話できる限界に近い速さ、あるいは場合によっては限界を超えた速さでしゃべらせることによって、言語テキストにまるでダンスのようなドライブ感を持たせることに成功し、それが音楽や映像とシンクロしていくことで、高揚感が持続する舞台を作りあげた。
 ここで興味深いのは矢内原の振付において特徴的なことのひとつにパフォーマー、ダンサーの動きをダンサーがその身体能力でキャッチアップできる限界ぎりぎり、あるいは限界を超えた速さで動かし、そうすることで既存のダンステクニックではコントロールできないエッジのようなものを意図的に作り出すというのがあるが、この作品ではその方法論を身体の動きだけでなくて、台詞のフレージングにも応用しようと試みていることで、そういう意味で言えばここでの台詞の発話に対する演出においてダンスの振付と同じことを目指しているように思われたことだ。
 ダンスの振付と一応、書いたけれども、これは通常「振付」と考えられているある特定の振り(ムーブメント)をダンサーの身体を通じて具現化していくというのとは逆のベクトルを持っているのが矢内原の方法の面白さでもちろん彼女の場合にも最初の段階としてはある振りをダンサーに指示して、それを具現化する段階はあるのだけれど、普通の振付ではイメージ通りの振りを踊るために訓練によってメソッドのようなものが習得されていく*1のに対して、ここではその「振り」を加速していくことで、実際のダンサーの身体によってトレース可能な動きと仮想上のこう動くという動きの間に身体的な負荷を極限化することによって、ある種の乖離(ぶれのようなもの)が生まれ、それが制御不能なノイズ的な身体を生み出すわけだが、こういう迂回的な回路を通じて生まれたノイズを舞台上で示現させることに狙いがあるのじゃないかと思う。
 ここで思い起こされるのはチェルフィッチュ岡田利規が言葉と身体の関係性のなかから生まれてくるある種の乖離(ずれ)の重要性というのをやはり強調していたことで、それに至るアプローチの方法論としてはまったく異なるというか、逆のベクトルを持っているようにも思われるこの2人のアーティストが結果的に同じようなものを求めているのじゃないかと考えさせられたことだ。このことについては今述べたのはあまりにも雑駁な論理であるし、もう少し精密に考えてみなければならないと思ってはいるが、おそらくこれは偶然ではないという気がしてならないし、ノイズ的身体という考え方があるとするとこれは「現代の身体」ということを考えていくうえでひとつのキーワードになりうる問題群かもしれない。
 もうひとつここで思い出したのはCRUSTACEAの濱谷由美子が横浜ソロ&デュオで上演した「スピン」という作品。これはきわめて強度な負荷のかかる激しい動きを連続して行うことで、本来はこうであるはずという仮想を「振り」に身体がついていけず、そこで「振付」と「実際の動き」に乖離が起こるという現象をやはり作品化したものであった。濱谷の場合には岡田や矢内原ほど方法論的に突き詰めたところから出てきたものではなかったかもしれないが、作品を見た時点ではそれがなぜ面白く思われたのかという理由をクリアーには説明することはできなかったが、矢内原の作品を見て改めて考え直してみた時、あれが実際に面白かったのはそこにノイズ的身体が確かに具現化していた瞬間があったからかもしれないと思われてきた。これも「スピン」を元にした新作「GARDEN」でもう一度確認してみなければならないだろう。 

*1:典型的にはW・フォーサイス。彼は彼の常識はずれの身体的負荷を持つ振付を具現化するためにサイボーグとさえ称される超絶技巧を身体化できるフォーサイス・ダンサーを育成した