高橋耕平展「emotional pictures」*1(shin-bi)を見る。
壁に9個のモニターが水平に架けられていて、そこにはそれぞれ写真が映し出せされている。それが最初の印象。すごくミニマルな展示だなと思って、ここにはダンスを見にいく途中で寄ってみたのでさっと見てから、通りすぎようと思ったら、写真のうちの1枚がすーと消えて、別の写真に差し換わっていく。もう少し見ていよう。そんな風に思って、今度はそれぞれのモニターによって、じっと凝視していると、その時に右手側にあった女の子の顔を大きく写し出した写真がまばたきした。あれ? そういえば以前見た木村友紀の作品にそんなのがあったぞ、と思った瞬間初めて気がつく。いままで写真だと思って見ていた画像はすべて、写真ではなくてデジタルビデオで映し出された動画で、その画面のなかでモデルとなっている人物がすべて、そこの時間が止まったかのようにじっと静止してポーズをとっているもの。写真に見せかけたフェイクだったのである。
「これって面白い」。地味な作品だと思い込んでいただけに作者の用意した仕掛けに気がついた時は相当、衝撃的であった。要するに写真に擬態した映像作品なのだが、これは果たして広い意味では写真作品と考えるべきなのか、
それとも素材がビデオなんだからやはり映像なのか。デジタルビデオだからもちろん一応動画ではあるのだけれど、画面のなかの人物は時折我慢できなくて、瞬きしたりする以外はスチル写真みたいに全然動かない。
仕掛けに気がついてから、もう一度注目して見ると、モデルが止まっているのがかなり大変そうなものもあって、しかもそれぞれの構図も野外であっても動いているものが画像のなかに映りこまないように相当工夫しているということも分かってくるのだが、そこでは逆にそんな風な苦労をしてそれでなんの意味があるのという疑問も浮かんできたりして、それがまた面白い。
現代美術作品としてはこういう風にして見てみると、なんの疑問もなくこれまであまり真剣に考えることもなかった写真とはなにか、映像とはなにかをいろいろ考えさせられることにもなって、そこのところが刺激的だった。しかも、この映像自体がいろんな映画の構図をサンプリングして、それを実際に再現したものらしく、そのためには相当無駄な労力が必要だったんだろうなと思うと、シベリア少女鉄道の「二十四の瞳」のことなども連想したのだけれど、あちらはそれでも最終的にそれをパフォーマンスとして見せることでちゃんと元をとっているのに対して、これだと見かけが地味すぎるためにミニマルなスライド的な写真展示と思ってちょっと見てすぐ帰ってしまう人がいるんじゃないかと心配して、ちょうどそこにいた作者に聞いてみたのだが、案の定そんな人も多いらしく、それを聞いて余計におかしかったのだ。