下北沢通信

中西理の下北沢通信

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「踊りに行くぜ!!」in広島@広島市現代美術館

踊りに行くぜ!!in広島広島市現代美術館)を観劇。

空 律江「水に絵をかく」振付・出演 空 律江
国本文平「a Woman within a Man」振付・出演 国本文平
セレノグラフィカ「カケラ・改行・断章」振付:隅地茉歩出演:セレノグラフィカ+二口大学
KENTARO!!「井上君起きて、起きてってば!!」振付・出演 KENTARO!!
康本雅子「ナ花ハ調」振付・出演:康本雅子

 「踊りに行くぜ!!」in広島を見に来たのはこれが3回目。今年も昨年同様に山の上にある現代美術館「広島市現代美術館」を会場に公演は行われた。
 広島の「踊りに行くぜ!!」の特徴は毎年「なんなんだこれ」という変なものが登場してくることだ。身体表現サークルがその代表であるが、相当にキャリアのある現代美術作家・パフォーマーで昨年(2005年)なぜか突然「踊りに行くぜ!!」に登場した美音異星人*1の珍妙なパフォーマンスはそれ以上に「なんだこれ」*2で思わず目が点になってしまった。もっとも美音異星人の場合は作品そのものよりも終演後に話した本人の方がもっと変で思わず笑ってしまったのだが。確かにコンテンポラリーダンスはアートジャンルとしてはほとんどノンジャンル・フリーフォームといえなくもないのだが、そうはいっても「これはちょっと違うだろう」というものまでがなぜか出演してしまう、そんな奔放な無秩序さのエネルギーが広島の「踊りに行くぜ!!」からは感じられるのだ。
 今年の公演のなかでそうした「変てこパフォーマンス」の系譜を確かに受け継いでいたのが、国本文平「a Woman within a Man」であった。ダンスなのかどうかがかなり怪しい美音異星人とは違って、これはソロのダンス作品ではあるのだけれど、一見どうも奇妙に気持ち悪い。大野一雄をわざわざ持ち出すことをしなくても、最近の例でもトヨタコリオグラフィーアワードにノミネートされた山賀ざくろの「へルター・スケルター」とか伊波晋とか、男性のパフォーマーが女性のキャラクターを演じるというダンスはあるのだけれど、国本文平のはそういうのと微妙に違う。女装というか、国本は女性の黒のアンダーとワンピースを着て、踊るのだけれど、最初の床に寝た状態のような姿勢で手と足をくねらせて踊るところとか、きわどい開脚のポーズとか、動きが妙に女性的。それまであまり考えたことはなかったが、日舞阿波踊りに「男踊り」「女踊り」があるようにフリーフォームであるコンテンポラリーダンスのなかにも男踊りと女踊りのように性別によるムーブメントの差異というのはあって、この国本のダンスの動きはそのうちの「女踊り」の部分を意図的に取り出して踊る。国本の身体は筋骨隆々のマッチョな身体ではなく、男としては珍しいほど、すらっとした中性的な姿態といえなくもないのだが、それでもそれが女性のような動きで踊ると、どうにも気色が悪いのだ(笑い)。
 もちろん、そういう意味でいえば山賀ざくろの演じる女子高生も、伊波晋の演じる女性も気持ち悪いには違いないが、彼らが女性を演じる時には例えば歌舞伎の女形の型のようなこういう風に演じると、女性みたいに見えるという型が確かに入っていて、そこには「型」の持つ力ゆえの安定感が感じられるのだが、国本の踊りにはそれがなく、それゆえにいたたまれないような不安定感がそこには表出される。その微妙なゆらぎのなかから、通常は不可視であり、意識化されにくい男女の身振りの違いが男の身体=女の動きの二重性のなかに宙吊りにされるようなところがあって、そのことが国本のダンスを見ながら、ダンスにおけるジェンダーの問題をあらためて考えさせられることになった要因で、そのコンセプトには非常に刺激的なところがあった。
 「コンセプトには」と書いたことには理由がある。実際の舞台ではパフォーマーとしての国本の力量には現時点ではあきらかに技術的な問題がある。コンセプトに沿って意識的にきめ細かく動きが作られている部分と、そうじゃなくて男性である素の国本の身体が露わになってしまっている部分がこの作品中には混在している。そうなっているのが身体性の違いの表現として、意識化されたものならそこにも違う面白さは出てくるはずだが、舞台を見て判断する限りはそうじゃなくて、作りきれていないという風に思わざるをえない。
 国本は広島大学ジェンダー論を学んでいる20歳の学生であり、本人は「そういう(ジェンダー的な)主題がこの作品には盛り込まれている」と語り、その意味では先ほど書いたコンセプト的な部分はかなりの程度意図的なものなのだが、実際に作品を見ての印象では若い男性である国本が「女性の下着を着て踊ることの快楽」というどちらかというとジェンダーではなくてもう少しフェティッシュな部分がダンスのそこここから透けて見えてくることで、その微妙な混合具合がこの舞台の怪しげな魅力(気持ち悪さも含めて)になっていた。
 見るからに頼りなさげな風貌ながらも、入学時にはなかったダンスサークルを自分で大学に作り仲間を募って、作品を振りつける大学のダンスコンクールにも積極的に参加するなど意外とバイタリティーもあり、なんといってもまだ20歳という若さが魅力。15歳でバレエを習いはじめたきっかけが映画「リトル・ダンサー」を見て「これだ」と思ったからだったり、身体表現サークルを見てやはり「これだ」とコンテンポラリーダンスをはじめたりといういい意味での節操のなさも含め、今後ここからどんなものが出てくるか。楽しみな才能が出てきた*3
 一方、もう1人の地元選考会選出組の空 律江「水に絵をかく」ははるかに真摯に作品つくりに取り組んでいるのだが、国本のインパクトの前にやや影が薄くなってしまった(笑い)。もっとも彼女の場合も国本同様作品ということでいえば「まだこれから」と言わざるをえない。というのはどうやら彼女の場合にはダンスのほかにパントマイムの経験が少しだけあって、この作品はマイムとダンスのアマルガム(混合)といった趣きなのだが、
ダンスとマイムには表現の方向性に明確な違い*4があって、それをもし組み合わせるとすると、その違いを明確に意識したうえで、自分の立ち位置をどうするのかをはっきりさせる必要があるのにどうやらそうなっていないからだ。そのために結果としてはどっちつかず(つまりダンスにしてはイメージの飛躍に乏しく、マイムとしてはディティールや作品構造の意味性に欠ける)ものとなっていて、そこがもどかしくて「要するにどうしたいの」という気分になってしまったのだ。もっとも、私の場合、以前から上海太郎、水と油、沖埜楽子、いいむろなおきらマイム系のパフォーマーと付き合ってきて作品も数多く見てきた経験から、マイムの要素が強い作品についてはどうしても彼らのレベルを基準に考えてしまい点数が厳しくなってしまうきらいがあるのだけれど。
 何度も再演を繰り返す機会を提供することで作品が成熟していく過程を見られるのも「踊りに行くぜ!!」の魅力で、康本雅子「ナ花ハ調」は福岡、KENTARO!!「井上君起きて、起きてってば!!」は松山でそれぞれ一度見た作品であったが、いずれも作品を練り直していくことでの進化が感じられた。今回の広島公演全体のなかでも特筆すべき出来栄えと感心させられたのがKENTARO!!の作品である。松山の時には単純に面白い、楽しいっていう印象だったのだが、今回はそれに加えて、特に音がなかったりするようなヒップホップではあまりないような状況での演技に格段の深みを感じさせられて、思わずグッとくるような場面がいくつかあった。彼の場合は音楽に合わせてラフに自由に踊るようなところの表現に魅力があって、そこには例えば近藤良平伊藤キムに時折感じられるようなスター性、あるいは華があって技術的なことよりそういうところに引き付けられるのだけれど、この日はそれ以上に普通の意味では踊ってない音のないところの表現に魅力を感じた。
 康本雅子「ナ花ハ調」も福岡に続いての2回目の観劇となったが、ほとんど違う作品かと思うほどの進化をしていた。ムーブメントはこの人ならではというもので魅力的なのだが、パフォーマーとしての端倪すべからざる才能をこの日感じたのは実は当初の構想にはない場面であった。この作品の後半で康本は水の入ったコップを小道具として舞台上に持ち出し、最初にその水を口のなかに入れて吐き出したりした後で、そのコップを舞台の手前の観客のすぐ前に置いて、そこから少し離れた舞台奥で踊りはじめる。本来はこの後で踊りながら、舞台の手前の方にやっきて、その水の入ったコップにつま先を突っ込むのだが、この日は違った。どういうわけか、この日はいつの間にかコップが倒れていて、水が床にこぼれていたのだが、康本はその舞台にこぼれていた水に足を突っ込んで、つま先で水をかきあげ、舞台上に跳ね上げて飛ばしたのである。この部分はきわめて自然な流れであり、終演後も鮮やかにその飛び散る水のイメージが記憶に残るほど印象的な場面だったので、振付を変更したのかなと思ったのだが、実はそうじゃなかったことが後から確かめてみて判明した。コップは夢中で踊っている康本の足に一瞬触れて倒れたので要するにまったく予期していない事故だったのである。つまり、この日の康本は、コップに足を入れる代わりに、コップが倒れてこぼれている方の水の方に足をいれて、水と跳ね上げたわけなのだが、それは咄嗟の判断によるアドリブだったのである。おそらく、計算されたものというよりは本能的な選択だと思うのだが、だれにでもできるというようなことではないと思った。そういうことをさりげなくやってしまえるところにダンサー康本雅子のただものじゃなさを感じた。
 一方、セレノグラフィカ「カケラ・改行・断章」は二口大学が演じる落語「火炎太鼓」とセレノのダンスとのコラボレーションとでもいったらいいのだろうか。トヨタコレオグラフィーアワードの受賞公演として上演した作品を練り直したものだが、私はエジンバラに行っていたせいで、その時の公演は見ることができず、今回が初めての観劇となった。セレノの精緻に作りこんだデュオの世界とは雰囲気の異なるなかなか楽しい舞台であった。
 このデュオの本来の持ち味とは違うので、もう少しじっくりとダンスそのものを見てみたいという不満がないではなかったけれど、さすがに表現されているもののクオリティーの高さや安定感は抜群であり、「踊りにいくぜ!!」in広島全体のなかではいいアクセントになっていたのではないかと思った。
 実はこの日参加した打ち上げの2次会の席で、この日上演されたばかりの舞台のビデオ映像を見ながら、出演していたダンサー本人に「この時はこうだった」とか「ここで失敗した」「ここは踊っていて本当に苦しくて限界だった」というような感想を聞くことができたのだが、これまで終わった後で「あそこではどうだったの」などと聞くことはあっても、本人の解説つきでその公演の映像を見るなどという機会はあまりなかったので、それはある意味本番の公演以上に刺激的な経験であった。ただ、帰りの電車の関係でセレノと康本に関してはその時には話を聞くことができなかったのは残念だった。
 もちろん、リアルタイムにそれをやるためには映像とはいえ、幕間の部分などをスキップして飛ばすことはできても、本番と同じだけの時間が必要なわけで(笑い)、そんなに簡単にできることではないとは思うが、だれかそういうのを企画してくれる人がいるとけっこう面白いのではないかと思ったのだが、どうだろうか。もっとも、ビデオ映像で初めて見るので集中して見たいというような人がその中に混じっていると、その人にとっては本人への質問や突っ込み自由の映像観劇というのは集中して見ることの妨げにしかならないということもあるし、なかなか成立しうる状況の想定が難しくはあるのだけれども。  
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*1:http://www.geocities.jp/bion_esper/top.html

*2:これは別にすごく面白かったというわけではないから勘違いしないように(笑い)

*3:もっとも、実はこいつは実は阿呆なんじゃないかと思わせるところもあって、天才と阿呆は紙一重という危うい感じも彼からはぷんぷんと匂ってくるので、本当に期待していいのか今のところ半信半疑にならざるえないところもあるのだが(笑い)。それも含めて第二の身体表現サークルに化ける可能性はなくはない。

*4:簡単に言えばダンスは抽象性に向かって跳躍するが、マイムはその本質は具象(つまり模倣)であるということ