下北沢通信

中西理の下北沢通信

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「ダンスの時間12」

「ダンスの時間12」(ロクサドンタブラック)を観劇。

出演者
A(コンポジション
松本芽紅見/森川弘和「ブラックライン」
安川晶子「ラビアンローズ
島知子「ライモンダ プティパ版」
サイトウマコト「UNKOWNPEOPLE」

 「ダンスの時間」は上念省三、サイトウマコト、中立公平の3人がプロデュースしてのダンス企画で今回が12回目となる。この日はAプロ(昼)とBプロ(夜)が上演されたが、Aプロがコンポジション(振付作品の上演)でBプロがインプロヴィゼーション(即興)。
 Aプロでは最初に上演した松本芽紅見(アローダンスコミュニケーション)と森川弘和(モノクロームサーカス)の「ブラックライン」がよかった。普段はそれぞれ異なるカンパニーのメンバーとして活動している2人のよるデュオ作品であり、この2人が一緒にデュオを組んだのは初めてだと思うのだが、即席デュオを思わせない独自の世界を作っていて、この2人のデュオはもう少し継続して見てみたいと思わせるところがあった。
 舞台には左右に少しだけ離れた位置に椅子が2脚だけ無造作に見えるように置いてあって、ここに2人がそれぞれ位置どりしてはじまるのだが、この後、この椅子を椅子としてよりは舞台上に置かれているモノとして使いながら、ハイスピードでアクロバティックな掛け合いが連鎖していく。
 この2人では卓越した運動能力の高さを感じさせるという意味では関西では屈指の存在である。全国的に見てもハイレベルだと思うのだが、かなり近い間合いでそれぞれが素早く動き、しかもムーブが交差するような動きも続く、しかも彼らの動き回るアクティングエリアには互いの身体だけではなく、その間に障害物としての椅子もはさんでいるので、ちょっとタイミングがずれただけでも大怪我の恐れがありそう。その間合いでこの動きができるのはこの2人の組み合わせだからこそであろう。
 もちろん、ここでも個々の動きはもそれぞれのカンパニーにおいて、得意とする動きを要素としては含んでいるのだが、デュオを組むことでそれまで見たことのない関係性や間合いのとり方が見えてくるのが面白いところであった。
 冒頭からかなり長い間、音楽なしの無音で踊られるのだが、その間、森川の息遣いが音楽の代わりみたいになっていて、その独特のリズム感が伝わってくるのも狭い空間で上演されたダンスならではの醍醐味となった。
 作品には実は「水と油」を連想させるところがあった。ムーブメントにマイム的なところが色濃いわけでもない*1のになぜかとダンスを見ながら考えていたのだが、ハイスピードとそこからの急激なストップが多用されることで生ずる独特のリズム感、そしてモノとしての椅子の扱い方に共通点があるのではないかと思われた*2
 私は水と油のほかのマイムカンパニーと比べた時の最大の武器はあの独特のスピード感にあったと考えていて、それに近い印象を感じさせるカンパニーは日本だけでなく海外を含めてもあまり見た記憶がない。それだけにこの2人の間合い・リズムは貴重なものではないかと思った。
 最後の場面で舞台の上手で向かい合って身体を寄せ合うような場面を作り、ここでは初めて音楽も使い、ダンスの感触もそれまでとは変化した。今回はこのシーンは短いこともあってどちらかというとそれまではワントーンで終始する展開だったから、そこまでの雰囲気を一変させて、作品を終わらせるために挿入した場面かなとも思わせた。ただ、ここの部分に関してはここからもう少し展開して別のところに行くのも見てみたいと思わせた。
 この日の舞台を見ただけでも、上演の前にかなり根をつめて練習をしたなとは感じられるのだが、この日の上演を見ながら感じたのはこの作品はおそらく踊り込んでさらに練り上げればさらに凄い作品になるのではないかという予感がした。この日の上演ではまだ作品が本来持っているはずのポテンシャルを尽くしてない気もしたのだ。最初に「もう少し継続して見てみたい」と書いたのにはそういう意味もある。どこかのダンスコンペ(「踊りに行くぜ!!」とか横浜ソロ×デュオとか)に応募してみたらどうだろうか。
 島知子「ライモンダ プティパ版」は演目が間違ってるんじゃないかと思われる人もいるかもしれないが、まさしくクラシックバレエ「ライモンダ」のグランパドドゥからバリアシオンを踊った。島知子は初めて見るダンサーだが、関西在住のバレエダンサーで、ここで踊ったのももちろんバレエなのである。この「ダンスの時間」が通常のコンテンポラリーダンスのプログラムと少し違うのはプロデューサーのサイトウマコトがバレエのコンテンポラリー課題の指導者としても知られていて、若いバレエダンサーを指導して、ローザンヌやバルナなどのコンクールに送り込んでいることで、そのコネクションを活用してできるだけ参加ダンサーのうちの1人はバレエダンサーに踊ってもらって、踊る側からしても、見る側からしても敷居の高いバレエとコンテンポラリーダンスの間に画然としてある壁を少しでも壊そうと試みている。
 その意気やよし、とは思うのだが……。パンフにある島の経歴を見てみると、2002年バルナコンクールセミファイナりストとあるので、それなりに技術は高いダンサーだとは思うのだが……正直言ってこれだけだと下手じゃないということしか私には分からなかった。詳しいことは分からないが、この場所でこの狭い空間だからフェッテとかジュテを多用するような振付の作品は無理だろうし、サポート役の男性ダンサーをこれだけで呼ぶのは無理とは思うのだが、もう少し作品の選定に工夫ができなかったんだろうか。上念氏が解説で言った貴重な機会というのは分かるのだが、これだとバレエの観客(いるとして)にとってもコンテンポラリーダンスの観客にとっても中途半端な気がしてならなかった、というか私には中途半端に思えてしまったし、せっかく出演した島にとっても残念に思えた。おそらく、出演依頼した時になにが踊りたいと聞かれて「ライモンダ」と答えたんじゃないかとにらんでるのだが、バレエダンサーとしては他流試合(アウェー)になるんだから、もう少し配慮があってもいいのではと思ってしまった。
 安川晶子、サイトウマコトの2作品は今回は私には残念ながら、作品としてはいまひとつぴんと来なかった。2人ともいいダンサーで、Bプロのインピロビゼーションでは魅力的だったのに作品*3だとそれがストレートには繋がってこないのはなぜだろうか。特にサイトウマコトの作品はパンフによると最近続けて亡くなった友人への鎮魂の思いから作った作品らしいので、やや「心あまりて言葉足らず」のようになってしまったか、と思う。安川晶子も「ラビアンローズ」は踊り続けている連作だが、アートシアターdBで以前見た長尺バージョンと比べると今回のはややあらすじみたいになってしまっていて、作品全体の流れがもうひとつ浮かび上がってこない印象があった。
 

出演者
B(インプロヴィゼーション
安川晶子・森美香代・ヤザキタケシ・サイトウマコト・赤松正行(メディア作家)・一楽まどか(演奏)・荒木淳平(メディア丁稚)

 関西のコンテンポラリーダンスを代表するベテランダンサー4人による即興ダンス。1月に2度ほどにわたって「ダンスについて考えてみる(即興について)*4
*5」と題した文章を書いたのだが、その時に話題にでてきたノンイデオマティックな即興とは対極的な即興公演であった。この4人はいずれも関西コンテンポラリーダンスを黎明期から支え、40歳を超えても現役バリバリで作品づくりを続けているのだが、実は出会いはもっと古くていわばコンテンポラリーダンスという言葉さえ関西にはほとんど存在しなかった先史時代、ジャズダンスのスタジオにそれぞれ出入りしていた時代から互いによく知っていたという古い仲間でもある。こんな風に書くと「私たちはシーラカンスか」と怒られるかもしれないことを承知であえて書いているのは、この公演にはそういう関係の4人だからこそ醸し出されるきわめてインティメートな関係性、お互いの信頼関係がすごくよく見えてきた舞台であったからだ。
 そこにはダンサーや音楽家が火花を散らして、そこから化学反応としてとんでもない新しいものが生まれてくるというような刺激はいっさいないけれど、ダンスという共同言語でもって4人が思いっきり楽しんで遊んでいる。そしてそれが自然と観客の方にも伝わってくる。そういう楽しさがあった。
 もちろん、それには4人が4人とも技術的にも力のあるダンサーであって、ダンスという言語で遊ぶためのボキャブラリーを豊富に持っているということが前提としてある。即興の場合、ダンサーの力量に明らかな格差(技術だけでなく、存在感も含む)があると複数のダンサーが舞台上に登場していても気がつくとひとりだけを目で追うことになっているという優勝劣敗ともいえる残酷な側面があるのだが、この公演ではそういうことはなく、即興でありながら、よくできたエンターテインメントとして楽しむことができたのである。
 冒頭でノンイデオマティックでないと書いたのは即興とはいえ、途中で出てきた舞台上で4人がスクエアの位置取りをして、向きを変えながら、それぞれがその時に向いた向きの一番前方にいるダンサーが出してくる動きを模倣していくという場面とか、客席からカメラを持ち出してそれで舞台上で記念写真を撮り始めて、最後には観客に取らせたり、舞台上に引っ張りあげて、一緒に写ってしまったりとなんらかの事前の打ち合わせや仕込みがなければ無理だろう、というシーンがいくつかあるのが典型的。ただ、冒頭で「遊び」と書いたのはそういう明確な打ち合わせがないようなシーンでも、おそらくなにかのきっかけでそこに「遊び」のルールのようなものが生まれると阿吽の呼吸でその場で全員がそれを理解して一緒に遊びはじめたり、少しそれが続いてだれてきたなと思うと、そのルールを変更して違うことを始めたりということが次々と途切れることなく続いていくからだ。
 さらに「遊び」ということで言えば、もともとダンサーでありながら、俳優の経験もあり、その資質として芸人的なところも持つヤザキタケシ、サイトウマコトに引っ張られてか、普段はシリアス系のダンスの多い*6安川晶子、森美香代が嬉々としてけっこう馬鹿馬鹿しい動きとかにも楽しそうに付き合ってみせるのにはこれまで見たことのない新しい側面を発見したようで、面白かった。
 この日の公演には映像にリアルタイムオペレーションで自在に踊っているダンサーの映像を加工してみせた赤松正行、パーカッションや電子楽器による即興演奏で音楽を担当した一楽まどかと普通に考えればタイトで前衛色の強いテイストになるような尖ったアーティストが参加したのだが、そういう中で笑いも含めてこういう方向性に持っていくことができるのはダンサーとしての力量だけでなく、この4人の親密な関係性があれなこそだと思う。そういう意味では以前に「東野祥子×岩下徹」の即興を元に即興についての論考を書いた時とは180度も違う公演だが、「即興はきわめて関係的である」という点ではこの日も同じことを感じたのであった。 

*1:森川はダンスのほかにマイムの素養もあるダンサーで、水と油への客演経験もあるがそのことが決定的な要因ではない

*2:もっとも、この2人はムーブメントにおいては完全に純ダンス的でマイム的な仕草性を感じさせるところはほとんどない。そこのところに水と油とは本質的な大きな違いがあり、アウトプットされてきた作品が似ているわけではない。

*3:どの作品もそうだというわけではないので、少なくともこの日の上演ではという意味である

*4:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060125

*5:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060127

*6:というか最近では時折はコミカルな面も見せる安川晶子はまだしも、森美香代がこんな風に踊るのは初めて見た