Noism06「sense-datum」(アートシアターdB)を観劇。
現在もっとも注目されている若手振付家・ダンサーである金森穣の率いるNoismの新作「sense-datum」(5月23日ソワレ)を見た。Noismは日本では唯一の公立のコンテンポラリーダンスカンパニーだ。新潟市立の新潟市民芸術文化会館(りゅーとぴあ)の座付きカンパニーとして本拠地のりゅーとぴあだけではなく、国内外の大・中劇場で活動を続けてきたが、今回は初めての小劇場空間の作品に挑戦。大阪では大阪・千日前フェスティバルゲートのアートシアターdBでの上演となった。
金森についてはここ1、2年の新作をフォローできてないので、若干の変化はあるかもしれないが、2004年にびわ湖ホールで見た「black ice」の印象は大空間における空間演出の力は若手の振付家のなかでも抜きん出たものを持っており、振付・構成・演出面で巧さがあることは確かだが、ムーブメントは基本的にはユーロクラッシュ系の動きとバレエのアマルガムで、「ムーブメントのボキャブラリー」「作品の今ここでの現代社会への切り込み方」のどちらにも本当の意味でのオリジナリティーはまだ感じられず、すでに一定以上の評価を国内では受けている人だけにそこには不満を感じざるをえないと書いた。
厳しい見方というのは承知の上だが、まだ完成された振付家とはいいがたく、この段階での一部の高すぎる評価はどうしたものだろうと思ったからだ。発展途上という評価は今でも変わらないのだが、今回の作品を見て振付家、金森に対する印象は変わった。本人もそれを自覚して、さまざまな方法論をいままさに試行錯誤を続けながら探っており、ひょっとしたらそこからとんでもないオリジナルなものが、飛び出してきそうな雰囲気が感じられたからだ。
刺激的に思われたのはこの作品の持つどこかアンバランスな印象。作者のコントロールのもとに完全に意図してこうなったのではなく、試行錯誤を繰り返すうちにこうなってしまった感覚。端的に言えば、作品としては荒削り、未完成で破綻しているのだが、だからこそ可能性において開かれている原石の煌きを感じたのである。
舞台上奥に9つの椅子が壁に沿って並べられている。その前がパフォーマーのアクティングエリアなのだが、3方向からそれを囲むように白い枝のようにも見える無数のオブジェが柵のように置かれ矩形を作っている。
入場するとすでに白衣のようにも見える上着をはおった男が椅子に座って、なにかモノローグのようなせりふを発している。しばらくすると、客電が消え、舞台下手からダンサーがひとり、またひとりと登場して、踊り出し、ダンス場面がはじまるのだが、白衣の男はすべてのダンス場面が終わった後にもひとり残って、再び自分の意識の状態についての自己分析めいた繰言を繰り返す。
言語テキストはサルトルの小説「嘔吐」の一部であることが、作者である金森自身に確認して分かったが、この作品は演劇的要素の強い場面に入れ子のようにダンス部分がすっぽりはまり込んだ構造になっているのだ。このせりふの部分は作品の基調を支配している。それゆえ、この舞台からは新しい動きの追求に特化した純粋抽象というよりはそこになんらかの物語が仮託されているという印象を強く受けた。
奇妙なのはその入れ子の中身のダンス部分はフォーサイスを思わせるような超絶技巧を含む抽象的で純ダンス的なムーブメントを主体としていること。それ以外に舞台上で様々に移ろう身体の状態を追求して作られたと思われるシークエンスもあり、そこから、明確な仕草やそれにともなう物語性などは意識的に排除されている。
ところがさらに言えば、そのダンスにはダンサーが頭まで覆われた性差をあえて隠蔽するような衣装で踊られたり、ダンサーが白いウィッグを着脱して踊るような外枠の言語テキストと呼応して、なんらかの意味の解釈を観客に誘発するような記号性の高い要素も含まれている。
モノローグの男からはどう見ても精神がどこか破綻している印象を受けるので、私は途中でこの作品は解離性同一性障害あるいは統合失調症のような病症に襲われた男の内的世界(インナーワールド)を表現したものであると解釈したい欲求にとらわれた。特に最初の部分で、舞台に上がったダンサーが次々とひとしきり踊ってみせた後、椅子に座っていき、最後に椅子が全部うまった後でダンサーが椅子よりひとり人数が多いので、取り残されたダンサーが舞台に残る。そして、その後は椅子取りゲームのように舞台上のダンサーが交代していくところ。これはダニエル・キイスの「24人のビリー・ミニガン」の描かれた人格交代を連想させるし、そういう風に考えると舞台の周囲に置かれた白い枝状のオブジェは神経シナプスのようにも見えてきたりする。
ところがしばらく舞台を見ているといろいろとそうした解釈にはおさまりがつかない過剰な要素が出てきて解釈が破綻する。どうやら、この作品は構造上、そうした意味に還元するような解釈をダンスが拒絶することで、観客を意味論的な自己撞着に陥らせるようなダブルバインド的構造が含まれていて、そのせめぎ合いがきわめて動的でスリリングだったのだ。
すでに初演となったりゅーとぴあとこの日の大阪の公演では作品にかなりの変化が出てきたらしいが、破綻しているとも思える構造的矛盾をその内部に抱え込みながら、収束・完成へのベクトルを持つことなく、上演する空間によっても時々刻々変化していく開かれた作品になっている。この日の上演ではまだそのポテンシャルは尽くされていないが、そこから今後どんなものが生まれてくるか楽しみな舞台であった。