下北沢通信

中西理の下北沢通信

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シベリア少女鉄道スピリッツ「もう一度、この手に」@王子小劇場

 作・演出:土屋亮一
 舞台監督:谷澤拓巳、上嶋倫子 音響:中村嘉宏 照明:伊藤孝
 創作補佐・映像:冨田中理 美術:泉真 衣裳:さかくらきょうこ
 演出助手:山本尚輝 制作:高田雅士、保坂綾子、柴貴子
 企画・製作:シベリア少女鉄道
 出演:
 石田剛太 [ヨーロッパ企画]
 大杉さほり [虚構の劇団]
 加藤雅人 [ラブリーヨーヨー]
 上福元沙織[無所属・新人]
 篠塚茜  [シベリア少女鉄道]
 高松泰治 [ゴキブリコンビナート]
 藤原幹雄 [シベリア少女鉄道]
 吉田友則 [漢の仕草]
 声の出演 町田マリー[毛皮族]


シベリア少女鉄道スピリッツ「もう一度、この手に」観劇。直接的な感想を書きにくいので例え話をすると途中まで切れのいい変化球を投げる好投手だと思っていたら、とてつもない魔球が飛んできたという感じでしょうか(笑い)。 公演終了後詳しい感想は書くつもり、といいながらその後ほかのことをやるのに忙しくなって結局放置されたことも何度もあるからなあ。
 具体的なネタには触れられない段階でなにか書くことはないだろうかと考えると今回の舞台にヨーロッパ企画の石田剛が出演していたのを見て「悲劇喜劇」2007年8月号の特集企画「気になる演劇人」に「ゲーム感覚で世界を構築 —シベリア少女鉄道ヨーロッパ企画—」*1という小論を執筆。その最後にこんな結語めいた文章を書いてその論を締めくくったのを思い出したからだ。

欧米のリアリズム演劇に起源を持つ現代演劇においてはアウトサイダーと見える彼らの発想だが、日本においてこうした発想は実は珍しくないのではないか。鶴屋南北らケレンを得意とした歌舞伎の座付き作者は似たような発想で劇作したんじゃないだろうかということだ。舞台のための仕掛けづくりも彼らがこだわり、もっとも得意としたところでもあった。その意味ではこの2人は異端に見えて意外と日本演劇の伝統には忠実なのかもしれない。

 実はその時の「悲劇喜劇」はいわゆる「ゼロ年代演劇」の特集であったわけなのだが、興味深いのはその時から3年あまりが経過して昨年あたりからポストゼロ年代の劇作家たちが本格的に台頭してきたのだが、そこではっきりしてきた事実がある。引用した部分でいえば「演劇における遊び・ケレン的要素の重視」というのが柿喰う客、ままごと、快快、東京デスロックといったポストゼロ年代劇団の特徴なのだが、いまから見ると当時孤立した突然変異のように見えてそうした要素を先駆的に体現してきたのが、この2劇団であるということが指摘できそうだからである。
実は「シベリア少女鉄道ヨーロッパ企画」でははっきりと把握できていなかったのだが、リアリズムに対するこうした若い作家たちの対峙の仕方を考えてみるときにどうしても連想させられる概念がある。それは東浩紀が「ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 」(講談社現代新書)で提出した「ゲーム的リアリズム」という概念である。
 もちろん、原著書における「ゲーム的リアリズム」の概念は主として美少女ゲームライトノベルを対象にして著述されているので、このタームをそのままシベリア少女鉄道やユーロッパ企画に適用するには意図的な誤読による概念の拡張が必要である。そこが躊躇されるのだが、作品内で語られる物語と並行して、その作品自体の構造を支配するメタ的なルールがあり、観客はそのルールと物語を二重重ねのように同時に体験するような仕掛け。これを広義での「ゲーム的リアリズム」と呼びたい。すなわち、作品(ゲーム)に観客(ないしプレイヤー)を没入させるためのドライビングフォース(推進力)をこの構造に求めていくような作品が「ゲーム的リアリズム」にもとずく作品なのだ。
 そして、ここで言うゲームのモデルには東浩紀はあくまでノベル系のアドベンチャーゲームのようなものを想定していたのに対して、ここではより広く、ゲーム理論にもとずく戦略ゲームや対戦ゲームなどゲーム全般に広げてみたい。
 それというのもここでまず取り上げたシベリア少女鉄道ヨーロッパ企画は作品にさまざまなゲーム的要素ないし構造を持ち込み、それをモデル化して作品化しているからだ。
 それは今回の「もう一度、この手に」でも例外ではない。(続く)