下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ジエン社『物の所有を学ぶ庭』 @北千住BUoY

ジエン社『物の所有を学ぶ庭』 @北千住BUoY

2018年2月28日(水)~3月11日(日)at BUoY

脚本・演出 山本健介

出演
伊神忠聡
上村聡(遊園地再生事業団
蒲池柚番
鶴田理紗(白昼夢)
寺内淳志
中野あき
湯口光穂(20歳の国)
善積元

会場: BUoY
2018年 2月28日(水)~3月11日(日)
長いあらすじ 

私達は彼らを「妖精さん」と呼んでいるのだけれど、それは正式名称ではなくて。

妖精さんはある時から、一人、また一人と、この世界に、この国に出現し始めた。今、この庭に仮住まいしている妖精さんは二体で、男女で、二人は兄妹らしい。詳しい事はよくわからない。でも、このまま妖精さんがこの街に住むのは、きっと難しいのではないかなと思う。
妖精さんは我々とコミュニケーションは取れるし、頭だっていい。きっと私たちの言っている事は伝わっている。意味としても言葉としても。でもそれでも、妖精さんたちは「所有」という事が、やっぱりわからないみたいで、万引きだったり、無断で人の物を持ち帰ってしまったり、冷蔵庫の中のおやつをパクパク食べたりしてしまう。
だから私は高校教師だった時の事を思い出しながら一つ一つ、まずは「所有」について、妖精さんたちに教えている。
「名前が書いてあれば」と男の妖精さんは言った。

「分かります。物に、名前がついているという事は、触ってはいけないという事が。なぜ触ってはいけないのかまでは、実はわかりません。すみません。でも、そういう文化なのだといわれたら、それは、そうか、私たちにとっては、聖域にある石と同じような存在なのでしょう。名前が書いてある物に関しては、わかりました、私たちは触らないようにします」

私は、触ってもいいんじゃないか、とは思った。名前が書いてある他人の持ち物に、触ることそのものが悪いのではない。他人の所有物を、尊重しないというか、尊重? 所有とは、尊重のことだろうか? たとえば今私が彼の着ている服を、同意なく脱がせて、奪い取って、持ち帰るのはおかしなことだ。いけない事だ。でも、彼の服に、からだに、私の手が触れる事、それは、そんなにいけない事なのだろうか。

「ハリツメさんには、名前が書かれていない場合の、“物の所有”の見分け方を教えてほしいのです。距離の要素が大きい事は、わかりました。手にしている、身につけている、というものほど、それは“所有”されているのだ、と。でも、時に手を離れて、距離が遠くなっているものも、“所有”されている、ということが、分かりません。物が身体から遠くなったら、それは所有ではないものではないのですか?」

そして妖精さんの彼は、私の体を触る。私は、嫌だ、と言わなくてはいけない。妖精さんは悪気なく、敬愛を込めて私の顔や、肩や、胸を触る。

「あなたには名前が書かれていない。あなたは、触ってはいけない、と言う。名前が書かれていないのに、触ってはいけないのは、なぜですか。」

触られながら私は、なぜだろう、なぜかしら、と考える。どう、教えたらいいだろう。
私の体は、私の物だという事。社会的には、もうあの人の物だという事。お嫁にもらわれた、ということ。もらわれた、という私は、物なのか。人ではないのか。人は、物なのか。あの人の物になって、他の誰にも触られてはいけない私が、いまこうして髪を触られている事は、どうしてよくない事なのか。私はそんな事、教えてもらわなかった。学んでこなかった。教えてほしい。知りたい、学びたい。私は教師だったのに、何でこんなにわからないんだろう。

スタッフ
音楽:しずくだうみ
舞台美術:泉真
舞台監督:吉成生子
照明:みなみあかり(ACoRD)
音響:田中亮大
衣装:正金彩
宣伝美術:岡崎龍夫(合同会社elegirl)
総務:吉田麻美
WEB:岡崎龍夫
写真:刑部準也
演出助手: 大塚健太郎(劇団あはひ)
制作:ジエン社、有上麻衣(青年団
協力:ECHOES、合同会社elegirl、シバイエンジン、遊園地再生事業団青年団、20歳の国、白昼夢、ACoRD、劇団あはひ
助成:公益財団法人 セゾン文化財
芸術文化振興基金

ジエン社「物の所有を学ぶ庭」@北千住BUoY観劇。最初に思い出したのは映画じゃなくてスタニスワフ・レムの小説「ソラリスの陽のもとに」。この作品はいろんな見方が出来るけれどSFと考えると所有という概念を持たないエイリアン(作中で妖精さんと呼ばれている)とのファーストコンタクトを描いている。
イキウメ「散歩する侵略者」との類似が指摘されているが、「概念を奪う」宇宙人の侵略を描いた「散歩~」 とはかなり違う。レムの作品を挙げたのはレムがこの主題によくある侵略や敵対とは違うコンタクトを描いているからだ。何らかの意識を持つと推察される惑星ソラリスの海を研究し、これとコミュニケーションをとろうと試みる研究者たちの行為がある意味徒労に終わるように、この作品でも妖精さんたちに所有の概念を教えようという教師たちの奮闘は無駄になり、逆に彼ら自身が所有という概念が本当に意味のあるものなのかどうかに懐疑を抱き出す。
 森には人びとは死にに来ると評されているが「資本論」を持ってきた人がいるということは教師たちとは別に危機感を感じて妖精さんと接触し、「所有の概念」について情報を交換したが相互理解という目的は果たせずに亡くなった人もいたのかもしれない。
 「所有」という概念が首尾一貫性を持たないことが妖精さんと教師との一連の会話により次第に明らかになってきたが、これはそれぞれ出自の違う概念が「所有」という言語表現によって束ねられているからではないかと芝居を見ている最中に考えた。
 例えばうちの猫には寝転ぶ時に好きな場所が何カ所かあって、寝ている最中にそこを「私の場所」と考えているふしがあり、そこで寝ているのを邪魔するとすごく怒って、その場所への侵害を許すまいと抵抗するが、これは人間の「所有」とは違うかもしれないがある種の「所有」とも言えるのではないか。しかし、考えてみると人間の持つ「私のもの」(所有)の概念にも動物なども共通して持っているもの、サルの時代に集団生活を通じて獲得したもの、人間が言語を習得して以降獲得されたものなどいろいろあるのではないか。
 特に動物などと共有している所有概念はおそらく動物の生存本能と密接なつながりがあるはずだ。妖精さんたちの脅威は一義的には彼らが放出する胞子のようなものに感染すると人間が死んでしまうことだ。この庭に来ているのは教師(つまり教えるというコミュニケーションの専門家)だが、おそらく胞子とかの科学的、医学的調査については他の場所にも研究者がおりやっているはずだ。
それゆえ、時間はかかっても何らかの解決策がいずれは見つかりそうだが、むしろ気になるのは「所有の概念」であろう。いまのところは人間側から教えようとして伝わらないという段階にとどまっているが、マルクスの「資本論」ではないが個人の所有をある程度放擲する共産主義の政策がうまくいかなかったことをもってしても、「所有の概念」は人類の生存本能と密接にむすびついた根源的な概念であるかもしれず、妖精さんという異質の存在と接触することによって、その存在理由が揺らぐようなことがもしあるのならば、それはいずれは人類の存亡に関わるような重要な因子(ファクター)になっていきかねないのかもしれないとの危機感を感じたからだ。
 妖精さんたちと呼ばれる生物がそれなしに生きていけるとすると相当に特殊な生存形態をとっているのではないか。多分、他我がないということは一見人間同様の個体に見えるが、すべての個体は何かでつながっていて、1つの全体の一部なのかもしれない。とは言え、ひとりの妖精さんが他の妖精さんのことがすべてわかるというわけでもないようだ。
 優れたSFにはアズイフ(As,if もしそうだったら)というたったひとつの現実とは異なる仮定を導入してみるとそこから芋蔓式にいろんなことが起こってくる*1ということがあるが、この作品にはそういう味わいがある。舞台でも続編を見てみたいが、スピンアウトとしてこの設定を共有する短編小説の連作なども読んでみたいと思った。 

*1:ボブ・ショウというSF作家の書いたスローガラスについての連作がある。スローガラスはそこに入った光をそこを通過するのに時間がかかるというガラス状の物質。この概念を知らしめたSF短編「去りにし日々の光」(Light of Other Days, 1966年)がもっともよく知られている。ショウはこの短編を『アナログ』誌の編集者ジョン・W・キャンベルに売り込み、大変気に入ったキャンベルにより、ショウは続編「物証の重み」(Burden of Proof, 1967年)を書くこととなる。元のストーリーは、数年の構想の後に、わずか4時間で書き上げられたものであった。   最初はこの物質は窓にはめてそこにはない風景を窓の内側に映すことなどに使われるが、細かく砕いて後から映像を取り出すことでプライバシー概念をまったく変えてしまうなど社会に不可逆の変化をもたらすことになる。ショウはこのコンセプトを膨らませ、長編『去りにし日々、今ひとたびの幻』(Other Days, Other Eyes, 1972年)にまとめた。whikipediaからの引用などを基にまとめた。