下北沢通信

中西理の下北沢通信

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2000年12月下北沢通信日記風雑記帳

12月30日 2000年のインターネット演劇大賞の選考会が本日下北沢で開かれ、午後5時から10時近くまで、論議を重ねた結果、次のように決定しました。詳しい選考過程などについてはおってえんげきのページの方に掲載されると思いますがまずは結果の速報を。

2000年インターネット演劇大賞 珍しいキノコ舞踊団「フリル(ミニ)」
 
 最優秀公演・演劇部門
  ゴキブリコンビナート「腑痴屠魔屠沙羅唾記念日」

    最優秀公演・ダンス・パフォーマンス部門
 珍しいキノコ舞踊団「フリル(ミニ)」★

 最優秀新人公演
 ポツドール「騎士クラブ」

 最優秀個人賞
   Dr.エクアドルゴキブリコンビナート

 同団体賞
   ゴキブリコンビナート

 最優秀男優賞
 岩松了ウーマンリブ「グレープフルーツ〜」の演技)

 最優秀女優賞
 秋山菜津子(「キレイ」の演技)

 最優秀新人男優賞
   林真也(遊気舎)/ノゾエ征爾(はえぎわ)

 同女優賞
 斉藤舞(ポツドール)/種子(「The cherry Bonbers」出演)

 話題賞 トリのマーク12カ月連続公演 ★

 というわけで、今年のえんぺ大賞(インターネット演劇大賞)は珍しいキノコ舞踊団「フリル(ミニ)」に決まった。今回はゴキコン旋風が吹きまくった選考会でしたが、取りあえず候補で出した作品のうち珍しいキノコ舞踊団「フリル(ミニ)」が大賞受賞でそこそこ満足というところか。

 前回公演を見られなかったので私は推せなかったポツドールだが、公演を見た人の支持を幅広く集め、最優秀新人公演、最優秀新人女優賞の2部門で受賞。来年2月の本公演は見逃せない要注目舞台となりそうだ。これまで大倉孝治、岸潤一郎、渡辺祐介、スピロ平太と異色俳優が占めてきた最優秀新人男優賞で2人同時受賞ながらも初めて2枚目系(?)の林真也が受賞したのはちょっと意外か。新人という認識もなかったので候補には入れなかったけど私も投票した。

  竹中直人の会「隠れる女」(2時〜)観劇。えんぺの一行レビューの評判があまりよくないのでどうなんだろうと思って見たのだが、面白いじゃないかというのが第一印象である。岸田今日子は相変わらず岸田今日子でしかない演技だが、エキセントリックな存在感はさすがというしかない。小泉今日子も舞台女優としてもなかなか魅力的だというところを見せてくれているし、これがなぜ評判悪いのかちょっと理解に苦しむところがあるのだが……。

 12月29日 シベリア少女鉄道「もすこしだけこうしていたいの」(2時半〜)、青年団「さよならだけが人生か」(7時〜)を観劇。青年団「さよならだけが人生か」は正月(1月1日)にもう一度見る予定なので詳しい感想はその後で書くことにしたい。 

 12月28日 やっと今日で年内の仕事が終わりである。なんか今日はすっかり疲れてしまい本当は年末回顧についての文章を書こうと思ったのだが、早めに寝ることにする。 

 12月27日 年末・年始の観劇その他の予定。29日、シベリア少女鉄道「もすこしだけこうしていたいの」(2時半〜)、青年団「さよならだけが人生だ」(7時〜)、30日、竹中直人の会「隠れる女」(2時〜)、えんぺ大賞選考会(5時半〜)、31日、サモアリナンズ「マクガフィン」(8時〜)。1月1日青年団「さよならだけが〜」、2日「ニューイヤー華麗なるバレエ・ワルツの祭典」(3時半〜)、3日、レニングラード国立バレエ「眠りの森の美女」(2時半〜)。 

 12月26日 25日深夜に綾辻行人、有栖川アリス原案による懸賞犯人当てドラマの解答編を見た。実は問題編は見ることはできなかったので推理はできなかったのだけど内容と登場した俳優に小劇場関係者勢ぞろいというのを見て思わず笑ってしまった。内容についていえば犯人を絞り込む論理が基本的にオーソドックスな消去法だけで、それ以上のひねりがないのが、「ちょっと安易じゃないの」というのが正直な感想なのだが、推理作家が原案を書いてる以上、それ以上に凄い思い付きがあったらっテレビなんかに提供しないでそれで作品を書いてるだろうというのがあるのでこの程度でも仕方ないのかもしれない。でもせっかくの企画なんだから、もう少しちゃんとしたものを書いてほしいと思ってしまうのは「犯人当て」というものに対して個人的なこだわりがありすぎるせいだろうか。ただ、気になったのはメールの遺言状(に見せかけた犯人の偽装工作)で「っ」を「つ」と打ち間違えていることを根拠に犯人をワープロ(ないしパソコン)でローマ字カナ入力でなく、カナ入力で入力したと断言している推理は間違っているんじゃないだろうか。解答の推理ではカナ入力ではシフトキーと「つ」を同時に打つのでシフトキーを打ちそこなった時に上記の間違いがあるが、ローマ字入力ではないとしてるのだけど私の場合、小文字の「っ」を「XTU」で打ち込んでいることも多いので、これだと「X」を打ちこそ損なって「つ」になることがあるので、仕事で間違ってそう打って打ち直しをしているのけど、それってひょっとして私だけのことなんだろうか。  

 12月25日 きょうは平日だが、珍しく休みだったので映画「ゴジラ×メガギラス」を見る。ゴジラの映画シリーズはものごころがついてから今まで、全ての作品を映画館で見ている。新シリーズである平成ゴジラシリーズになってからよかったのは最初の「ゴジラ」と「ゴジラVSビオランテ」ぐらいで、特に最近のは映画としてはどうにもならないほどひどいのが続いているのだが、それでも見にいってしまうのはこれはもう病気というしかないだろう(笑い)。そういうわけで、今回も内容には全然期待しないで見にいったのだが、これはけっこう最近のゴジラ映画としてはいい出来栄えだったのではないだろうか。もっとも、そうはいってもこの映画もけっこうきちんと作ってあるようでいて、よく考えると不自然なところがいっぱいあって、見ながらつっこみを入れる場所にはことかかないのであるが(笑い)、そうしたちゃちなところがまた魅力だったりして。それにしても一番笑ってしまうのはこの映画ではゴジラをやっつけるための最終兵器としてマイクロブラックホールを打ち込むディメンジョンタイドというのがでてきて、その実験でできた時空のゆがみから古代の巨大トンボであるメガニューラが大量出現して、これが渋谷を水没させたり、ゴジラと戦ったり、人間を襲って食べたり随分むちゃくちゃなことをしているのに(考えてみればゴジラの出現は天災のようなものだが、これは完全に人災である)、そのことの責任が全然追及されているように思えないことである。主人たちもこれが自分たちのせいであることを知っているはずなのに敵はゴジラのみという感じで、巨大トンボの方は宇宙からゴジラを狙う時の照準を邪魔する単なる障害物程度にしか考えていないようなのだ。ストーリー的にはゴジラがメガニューラの親玉のメガギラスと戦って勝つからことなきをえているのだが、「ガメラ」シリーズなどと違って本当に戦略的思考ということができない人たちだ(笑い)。

 ジャブジャブサーキット「サワ氏の仕業III」(7時〜)を観劇。今回は短編集という触れ込みだったのだが、ミステリ劇なのでここではひとまず詳しい話は避けておくが、単なるオムニバスの短編ではなくて、相互に関連のある3つのストーリーからなる連作短編集の形式を取っている。ミステリ劇としては過去のはせひろいちの作品と比べるとかなり分かりやすい構成になっていて、そこに逆に説明しすぎじゃないかと不満も持ったりしたのだが、その分、ミステリに慣れていない人でも楽しめるということはいえるのかもしれない。謎として隠された部分のうちどこまでをさらして見せどこまでを暗示にとどめて、観客の想像に託したり、真相を直接提示することはしないで論理的な推論をすれば分かるという範囲にとどめておくべきなのかというさじ加減はこの手のミステリ劇では永遠の課題といえなくもないのだが、実際のところどうなんだろうか。もちろん、分かりやすすぎと私が感じたこの舞台でもおそらく全部見終わってもテレビの2時間ドラマのように犯罪と真犯人が全て明かされるというわけではないので、ちんぷんかんぷんで分かりにくいという観客がある程度というか相当数いるだろうということは否定できないのだけど、実際のところどうなんだろうか。

 この芝居ではジャブジャブの劇団以外の俳優も何人か出演していて、それぞれいい味を出しているのだが、中でも目立つ存在だったのが、少年王者館の黒宮万理である。しかも彼女の場合、どうも王者館では見たことがないと思っていたら、王者館に所属はしているがまだ公演には出演した経験がなくこれが初舞台だと聞き、ちょっと驚かされた。王者館の舞台での彼女をまだ見てないのでなんともいえないのだが、この舞台を見る限りは王者館よりジャブジャブに向いているのじゃないかと思ってしまったのだが(笑い)。とにかく、またひとり、期待の女優を見つけたという感じである。

 12月24日 非常に迷ったのだが、今回はやはりトリのマークの観劇はあきらめて予定通りにガーディアンガーデン演劇祭の特別企画(1時〜6時)に出席することにする。

 

 12月23日 仕事が長引き、トリのマークの観劇は今回は断念せざるをえなかった。非常に残念。

 「エントロピー入門」(杉本大一郎著、中公新書)、「邪馬台国と近代日本」(千田稔著)を読了。

 上海太郎舞踏公司「マックスウェルの悪魔」についての感想が途中で中断した形になっていて非常に心苦しいのだが、それは書いているうちにちょっと疑問を感じてしまったことがあったからだ。とりあえず、その疑問をここでは「理科系演劇のジレンマ」とでも呼んでおくことにしたい。実は上に書いた「エントロピー入門」という本を買ってきて読んでみたのは熱力学第2法則=エントロピー増大の法則というのはそんなに一般の人(特に理科系以外の人)に常識として定着しているような周知の事実なのだろうかという疑問が沸々と湧き上がってきたからなのだ。というのは私は一応、大学は理科系(工学部で高分子化学の専攻)の出身なので、いくら高校、大学で物理に落ちこぼれていたとはいえ、昔取った杵柄で、熱力学の第2法則についてもアバウトなイメージは持っていたのだが(ちなみにこの芝居の作者である上海太郎も大学は理科系(農学部)だった)、そういう共通体験を持たない人がこの芝居から物理現象についてのメタファーを読み取るのはひょっとしたら難しいのかもしれないと考えてしまったからである。というのは私自身の記憶では熱力学の第1法則=エネルギー保存の法則、第2法則=エントロピー増大の法則というのは高校時代の物理で習ったという記憶があるのだけれど、この本に「エントロピーという概念は、大学の初年クラスで、物理学や化学の熱力学で学ぶものである」という件があり、高校のカリキュラムというのは朝令暮改を繰り返しているので、もし、それが事実で高校では全く習わないとしたら、観客の大部分にとってエントロピー概念というのは全くなじみのない言葉なのじゃないかと気が付きがく然とさせられたのである。

 もっとも、エントロピー概念自体は最近は地球環境の保全の問題などとかかわって経済学など社会科学の分野にも登場するし、情報工学の分野でも重要な概念であるので、どこかで言葉くらいは耳にする機会はあるとは思うのだが、この芝居の中で基調低音のようにそのイメージが援用されている限りはそれを熟知しているかどうかで、同じ情報に対しての読み取りのレベルが違ってきてしまうだろうというのは考えられることであるからである。

 しかも同じ熱力学の法則でもエネルギー保存側というのは比較的イメージが湧きやすい。というのはエネルギーというのは位置エネルギー(高い位置にあるものほど位置エネルギーが大きい)、運動エネルギー(速い速度のものほど運動エネルギーは大きい)はイメージを抱きやすい。もう少し分かりにくい熱エネルギーにしても熱というのは分子の運動だと考えれば分子の運動が激しいものほど熱エネルギーが大きいというのはやはりイメージを抱きやすい。

 それに対してエントロピーという概念はそうした直感的なイメージが抱きにくい概念だからだ。上海太郎は「ダーウィンの見た悪夢」という作品ではダーウィンの進化論という主題のすでに取り組んでおり、そこでも物理学の法則性などをイメージさせたシーンがいくつか散見される。これはこうした科学上の諸事実が国境を超えても理解可能な普遍的な事実と通底しており、言葉を使わないでこうしたことを主題にすることで海外においても日本での理解と同等の理解が得られるような舞台を作りたいという戦略があったためで、「マックスウェル」もそうした方法論の延長線上に作られた舞台である。しかし、それが熱力学などという領域に到ると日本国内でも逆に理系音痴の人たちに対しては作品理解のための一種の障壁となってしまうのかもしれないという危ぐを感じなくもないのだ。こんなことを書いたのはこの作品についての感想で「主題が整理されてなくて分かりにくい」という感想を述べていた人があったためで、私がこの作品の初演をすでに見ているということはあっても、これほど精緻に作られている舞台に対してその種の感想がでてくるというのはどういうことなんだろうと考えた時にこの芝居のフレーム(大枠)を形成しているエントロピー概念への理解がないと重要な鍵が提示されてないクロスワードパズルを解かされているような気分になるかもしれず、「理科系演劇のジレンマ」ということを考えさせられてしまったからである。

 もちろん、これは単なる仮説に過ぎないので、だれか文科系の人でエントロピーなんてのは常識だよと思う人がいれば伝言板にコメントしてもらいたいところなのだけど本当のところどうなんだろう。

 12月22日 私も参加しているえんげきのページのお薦め芝居担当者が集まって選考するインターネット演劇大賞の選考会が12月30日に行なわれる予定なのだが、今年1年を振り返って私なりにそれぞれの賞にどんな候補を推薦するかを考えてみた。

 まだ今年の公演が全て終わったわけではないので、あくまで現在時点での判断であり、しかもいまだに決めかねている部門もあるのだが年末回顧の時期も来ていることもあり、ここで一応書き込んでおくことにしたい。演劇/ダンス部門のベストアクトについては年始に改めて掲載することにしたいので、その前触れも含めて。念のために書くと今回推せん作品に選ぶつもりの候補は「えんぺ大賞」という賞の傾向も踏まえての選考となっているので、私の純然たる個人的評価とは若干の戦略的なずれがあることも断っておきたい。

 まず新人部門だが毎年、演劇において「なにが新人の条件なのか」というのは問題になるのだが、最優秀新人公演においては私にとっては「今年最大の発見」であった水と油「見えない男」を選びたい。ジャンルとしてはダンス・パントマイムを要素に使った無言劇というものなのだが、こういう種類の表現は世界でも上海太郎舞踏公司と水と油の2集団しか見当たらないので(笑い)、この集団の登場ではじめて、集団によるダンスパントマイムは初めて世界の演劇史においてジャンルを構成したといえる。

 なにより、この集団の作品を見て感心させられたのは構成・演出のレベルの高さとセンスのよさである。マイムを見せますという感じではなく、マイムをひとつのテクニックとして活用して、短いシーンをつなぎながら自分たちの共有しているイメージを提示していく。随所に見られるだまし絵的な構図が演劇的に立ち上がっていくのがとても魅力的なのである。

 最優秀新人女優賞にはきわめて印象的だったという意味で、CAB DRIVER「明日は天気になる」で下宿のマドンナ役を演じた青年団の福士史麻といるかHotelの「花火みたい」で婚約者と一緒に故郷に帰る女性の役を演じた園田知子を選びたい。後、維新派でひとりすごく気になった女優がいたのだけど、残念ながらキャスト表を見ても名前が分からない。役柄もほとんどのシーンが集団による群舞のような今回のような形式ではちょっといいようがないから困ったものだ。

 実は最優秀新人男優賞はちょっと困ってしまっている。新人劇団を沢山見てればその中から選べばいいわけなのだが、世間では新人に近い扱いに決まっているむっちりみえっぱりさえ昨年新人賞を与えてしまっているのでもう新人とはいえない世界(笑い)ではだれが新人なのかちょっと見当がつかないからである。いっそ小劇場演劇デビューということで市川染五郎を挙げようかとも思ったがいくらなんでもなあ(笑い)。その時にはいいと思ってもエアポケットに入って忘れてしまってることというのはあるんでもしこれはと思う人がいたら推薦して。といっても女優の方は挙げているじゃないかとつっこみを入れられればちょっと女優を選ぶほどモチベーションが湧かないということに対して明確な反論はしにくいところなのだが。

 最優秀女優/パフォーマー賞としてはどうやら退団してしまったらしいのがすごく残念なのだがポかリン記憶舎「オン・シツ」の演技に対して坂井珠真、「マックウェルの悪魔」でひさびさに古巣に復帰した磯子青年団での今年の演技が光った辻美奈子、珍しいキノコ舞踊団でついつい目が行ってしまった飯田佳代子、そして、ク・ナウカの美加理を選びたい。

 最優秀男優部門もかなり選択に困ってしまったのだけど、いまさらこんな大物を選んでもということがあってもさすがの存在感の巨大さがあまりに圧倒的だったこともあり、「熱帯樹」の麿赤兒をまず選ぶことにする。さらに意外なキャスティングと思ったのが本当にこの人の存在のために芝居がすごく生き生きとしたものになり、俳優としての可能性を感じさせられたハイレグ・ジーザスの岸潤一郎を「明日は天気になる」の演技で選びたい。

 さて、えんぺ大賞でメインとなる最優秀演劇公演とパフォーマンス公演なのだがパフォーマンスの方は今年はいろいろ舞台があったのだが、2年連続での推薦になるのが心苦しいのだがダンスの領域で新世紀の日本のダンスに向けて新たな可能性を感じさせてくれたという意味で珍しいキノコ舞踊団「フリル(ミニ)}を選ばざるをえばいであろう。ピナ・バウシュが行ったのとは全く異なるアプローチで、それぞれのパフォーマー人間性そのものを感じさせてくれたという意味でこの公演はやはりきわだっていた。

 一方、最優秀演劇公演の方は今年は全般的に私が以前から評価している集団の公演についてその集団が過去に上演してきた最高レベルの舞台に対して正直言って物足りない舞台が多かったのだ。もっとも、そうした集団はそれでも相対的に見た場合には今年のベストアクトに相応しい舞台を上演してはいるのだけれど、特に過去にこの賞を受賞した集団については2回以上受賞するのが別にタブーというわけじゃないけれどもちょっと推しにくいということもあって、困ってしまったのだ。そうした理由で年間ベスト級の作品だったと評価しているにもかかわらずロリータ男爵「犬ストーン」や猫ニャー「ファーブルミニ」といった作品を推すことは断念した。そこで、今年はこの集団の持つポテンシャルの大きさを感じさせてくれたという意味もあって、ポかリン記憶舎「オン・シツ」を私の候補作として選ぶことにしたい。

 最優秀団体としては12カ月連続公演を敢行中のトリのマーク、最優秀個人としては「犬ストーン」やむっちりみえっぱりの合同公演企画など活躍が目立った田辺茂範(ロリータ男爵)にそれぞれ1票を入れたい。そういうわけで、今年の私のえんぺ大賞の候補は以下の通りである。

 昨年は推せんしたロリータ男爵「信長の素」、むっちりみえっぱりなどがそのまま選考会で決まったこともあって個人的には満足だったのだけど、今年は昨年以上に混線模様で他の人がなにを推薦してくるのか見当もつかないということもあり、全滅の可能性も否定できないのだけどとりあえず以下に挙げたのが私の候補である。 

 
<部門> 
●最優秀演劇公演 ポかリン記憶舎「オン・シツ」
●最優秀パフォーマンス公演 珍しいキノコ舞踊団「フリル(ミニ)」
●最優秀新人公演 水と油「見えない男」
●最優秀男優/パフォーマー 麿赤兒(「熱帯樹」の演技により)/岸潤一郎(「明日は天気になる」の演技より)
●最優秀女優/パフォーマー 坂井珠真(ポかリン記憶舎「オン・シツ」の演技)/磯子(上海太郎舞踏公司「マックスウェルの悪魔」の演技)/美加理(ク・ナウカ「熱帯樹」「オイディプス王」「/辻美奈子(青年団「ソウル市民1919」の演技)/
飯田佳代子(珍しいキノコ舞踊団「フリル(ミニ)」の演技)
●最優秀新人男優/パフォーマー 未定 
●最優秀新人女優/パフォーマー 福士史麻(青年団/CAB DRIVER「明日は天気になる}の演技)/維新派のだれか/園田知子(いるかHotel「花火みたい」の演技)/少年王者館の黒宮万理
●最優秀団体 トリのマーク
●最優秀個人 田辺茂範(ロリータ男爵)
●話題賞  未定

     

 12月21日 ニワトリが先かタマゴが先かということになるだろうが、今週になつてアクセス数がまたがた落ちで、1日 60〜70程度を彷徨っている。特にこれまでけっこう多かった23時〜1時の深夜時間帯のアクセスが激減している。これは来年に向けてなんとかてこ入れをしていかなければならないかもしれない。 

 12月20日 仕事が忙しくてろくにコンテンツを更新できない。 

 12月19日 上海太郎舞踏公司「マックスウェルの悪魔」の感想の続きである。もっとも、伝言板にだれか見た人は感想を聞かせてと書いたのだけど、関係者の三好さんが別件で書き込みしてくれたぐらいで後はなしのつぶて。どうやら関西の人でこのページ見ている人はあまりいないのだろうか。(では続きを)

 2つ目のシーンとしてこの集団のテーマ曲的なダンスシーンである「上海太郎舞踏公司的題目」が演じられた後、初めて背広姿の上海太郎が登場。パントマイムにより、ビリヤードを演じる「ブレイク」がはじまる。これはマイムらしく多少デフォルメされてはいるもののストレートにビリヤードで玉をひとつづつ落としていく様を演技するのだが、このビリヤードのテーマがそのまま次の「ゲーム」のシーンにつながっていく。「ゲーム」は単独のシーンとしてガラ公演である「ジャックは箱の中」でも上演されたシーンなので東京の人もそれを見て覚えている人はいるかもしれない。最初にタキシード風の衣装を着たパフォーマーが登場すると息もつかせぬ勢いで軽快な音楽に乗せながらカードゲーム(ブラック・ジャック)、ルーレット、ビリヤードをショーダンス風に表現していく。いくつかの衣装を重ね着して、それを次々に脱いでいくとダンサーそのものがトランプカード、ルーレットの番号、ビリヤードの玉に変わっていく。上海太郎の着想も素晴らしいが、舞台上で早変わり可能なカラフルな衣装を考案した三大寺志保美のアイデアはまさに天才の技である。(続く)

 

 12月18日 ポかリン記憶舎の明神慈さんからメールでガーディアンガーデン演劇祭向けの推薦文を頼まれたのだが、メールボックスを開けようとしても故障したのかつながらない。仕方がないので、書き残していたポかリン記憶舎「砂・眠る」の感想をここで書いておく。

 「砂・眠る」という芝居についてなにか書くということはけっこう難しい。というのはこの芝居はなにやら奇妙な魅力を持っているのだが、その魅力というのがはなはだ微妙なさじ加減で成り立っているもので、明確に概念化してすくい取ろうとした瞬間に手のひらからこぼれ落ちていくようなもろい砂細工のようだからだ。

 この芝居には3人の人物が登場する。そのうちひとりは舞台の始りとともに姿を消してしまうから、一応、2人芝居といっていいだろう。2人芝居は通常、2 人の人物の関係の揺れによって、ストーリーが展開されていくことが多いが、この芝居に登場する男女の間にはそういう関係はない。舞台はどうやら病院で、物語の冒頭に椅子とソファーで眠っていた2人の女のうち1人がソファーに置き忘れたハンカチを取りに戻ったところを男につかまり、そこから2人の会話がはじまる。女は自らの存在を椅子とかソファーをあらかじめ暖めて置く「あたため女」だと名乗る。同種のものとしてどうやら「添い寝女」というのもいるらしい。

  バレエの「ラ・シルフィード」「白鳥の湖」、能にも同様に異界のものとの交流を描いた作品がある。この芝居に登場する「あたため女」は日常描写のレベルではそういうサービス業もあるかもというように描かれながらも、作者はそこに天女と羽衣の伝説を重ね合わせることで、「シルフィード」の妖精のごとき異界のものの匂いも暗示させていく。その日常/非日常のすき間のような空間を創造していく巧さが明神慈の面目躍如たるところなのである。

 少し不謹慎な表現ながら、そこには夢現つの間で見る淫夢のような心地よさがある。ここには直接に性的なるものが描写されるわけではないが、なにか悩ましい、そんな魅力に満ちているのだ。   

 12月17日 CRUSTACEA「ISH vol.5〜スナッキー〜」(5時〜)を観劇。これは本当に面白かった。キッチュでコケティッシュな魅力は相変わらずだが、メンバーそれぞれの個性が発揮され、パフォーマンスの完成度はこれまでの作品と比べ格段に進歩の跡が見られた。 

 12月16日 新国立劇場勅使川原三郎「Raj Pachet  ―everithing but Ravi」(7時〜)を観劇。この舞台で勅使川原三郎は動物を沢山、舞台上に上げているのだけど、そうするとどうしても純粋にダンスを楽しむというより、動物が気になってしまうのである(笑い)。それは実に困ったもので、第1幕を見た時には舞台前方に仕切られたエリアに入れられたウサギが可哀相で、舞台になかなか集中できなかった。ウサギってあれだけ耳が大きくて、遠くのかすかな音を聞き分けられるのだから、絶対に大きな音に弱いと思う。前半は舞台奥の方でライブバンドが演奏するのだけど、そうすると最初はそのエリアにバラバラにいたウサギたちが、騒音から逃げようとして、そのエリアの片隅の方に寄り集まってきて、ウサギの立場に立てばあれって完全に虐待だと思う。なんか、本当に脅えていた感じがしたものなあ。

 別に私は動物愛護家でもなんでもないのだけど第1幕を見終わった時にはそれまでして動物を舞台に上げることになんの意味があるのかと思ってしまった。それが微妙に変わってきたのは第2幕。これは「勅使川原さん、子ヤギと一緒に踊るの巻」とでも名付けたらいいだろうか。1幕目には舞台に登場しなかった勅使川原三郎が2幕目に登場して後半のほとんどの時間、モーツァルトの音楽に合わせてソロを踊るのだけど、この時に舞台には柱に繋がれた2匹のヤギともう一匹子ヤギがいて、これが最初はいろいろ音や照明などの変化に脅えたような感じで母ヤギにまとわりついていたのが、割と明るい照明になって舞台上で勅使川原ひとりが静かに踊るようになると、しだいにリラックスしてきたのかまるで勅使川原の動きに合わせるかのように舞台上でぴょんぴょん跳ね回りはじめたのだ。勅使川原の方は一応、振付通りに踊ってるのだと思うが、子ヤギの方は明らかに自分の近くで動いているモノに好奇心を持った感じで、少し近づいたり、またびっくりしてお母さんの方に逃げ帰ったり、それが勅使川原がここで見せたリラックスした動きとシンクロしていて、ソロなのにある意味でデュオを見ているような奇妙な感覚に襲われたのである。

 これは第1幕の本当に脅えてる感じだったウサギとは本当に対照的で、もちろん、勅使川原三郎といえども子ヤギに振付するわけにはいかないので(笑い)、これがどこまで計算されたものなのか、この日だけのハプニングだったのかは分からないのだけど、この日舞台の上で嬉しそうにぴょんぴょん跳びはねていた子ヤギを見ていて、ある種ダンスの持つ快楽の根源的な本質といようなものを感じてしまったのである。

 それは簡単にいえば子ヤギはなんか嬉しいので跳ね回っているのだけど、それが舞台という形で観客に提示されるとその好奇心とか嬉しそうな感じというのは観客に伝わってきて、子ヤギに感情移入した新奇な目でなんかしらないけど動き回ってる変なものとして勅使川原を見たりしている。そして、その時、劇場で見ている私たちの心もぴょんぴょん跳ねているわけなのだ。その意味でこの日の舞台には勅使川原以外にもいいダンサーが出ていたのだけど、主演は勅使川原だとしても最優秀助演(女優か男優は分からない)賞はこの子ヤギくんにあげたい気持ちになったのである。それにしても動物をこれだけリラックスさせる効能があるなんて、恐るべしモーツァルトである。 

 12月15日 本当は「マックスウェルの悪魔」の続きを書かなければいけないところだが、時間がないので、それは来週回しにして、ダムタイプ「メモランダム」についてもう少し書く。この舞台には「ジャックと豆の木」とかいろいろな言語テキストが引用されているのだが、冒頭に英語のテキストとして出てくる話はいったいなんだったのか分かる人がいたら教えてほしい。主人公は主が留守にしている部屋に入って、そこにスープが置いてあったので飲んでしまい、ベッドがあったのでそこで寝てしまうという話(だったと記憶しているのだけど違うかも)なのだが、最初、「不思議の国のアリス」かと思ったのだが、どうも違うみたいで、その次に白雪姫にそんなシーンがあったような気もしたのだけどそれもどうやら記憶違い。ただ、実はこの原文、英語のテキストかなんか(教科書かもしれない)で大昔に読んだような気がするのだ。その話にはどうも熊が出てきたような気がして、「メモランダム」という舞台にはクマも登場するので、そこはなにか符号するのだけど、それ以上どうも思い出せなくてもどかしいのだ。クマということで「クマのプーさん」というのも思いだしたのだが、どうもこれも違うみたいだ。だれか分かる人がいたら伝言板への書き込みで教えてほしいところなのだけど、最近、アクセス減ってるから難しいかなあ。  

 12月14日 今週末は土曜日は仕事が早めに終われば新国立劇場勅使川原三郎「Raj Pachet」(7時〜)、日曜日は2週間連続で大阪に行ってCRUSTACEA「ISH vol.5〜スナッキー〜」(2時〜、5時〜)を見る予定である。大阪行きを決めたためベターポーヅ動物電気もちかまつ創造芸術劇場(松田正隆作品)は残念ながら見られそうにない。これまで毎年、見にいっていた劇作家協会新人戯曲賞の公開最終選考会(17日6時半〜、紀伊国屋ホール)にも行けないから、結果が分かったらだれか伝言板に書き込みでもして知らせてほしい。さらに来週はトリのマーク「迷路を抜けて果樹園へ」、ガーディアンガーデン演劇祭特別企画、ジャブジャブサーキット「サワ氏の仕業III」、ゴキブリコンビナート「デス・ミュージカル死期」など重なっていていったいどうスケジュール取りしたらいいのか悩むことしきりである。一応、土曜日夜のトリ、日曜日にガーディアンガーデンの後、ゴキコンかジャブジャブ、月曜日も休めそうなのでこの日にジャブジャブかゴキコンの予定なのだが、ガーディアン終わったら知りあいと飲みに行ってしまう気もするなあ(笑い)。


 上海太郎舞踏公司「マックスウェルの悪魔」について書こうと思う。この芝居はいつもの上海太郎の舞台同様にいくつかの短いシーンをつないでいく、一見オムニバス風の形式で作られている。しかし、ともするとバラバラにも見えるそれぞれの場面は芝居を全て見終わった後、俯瞰してみるとあたかもジグソーパズルのようにひとつの形を取って収束していく。それらは実は緻密な構想のもとに配置された壮大なイメージの一部であることが分かってくるからである。それらのシーンをつなぐ糊しろとして多用されるのは3つの相同、すなわち関係の相同(メタファー)と構図の相同、そして動きの相同である。この芝居ではあたかも交響楽において、ひとつの主題が変奏されながら繰り返されるように全く違うコンテクストに置かれたそれぞれのシーンが3つの相同が介在することで結び付けられる。

 関係の相同というのはいわゆるメタファーのことで、舞台上で提示されたひとつの関係性が同じ関係性にある他の出来事を想起されるという構造を取っている。私は一部の芝居について「関係性の演劇」と名付けているのだが、それは決して「静かな演劇」の別名なのではない。「マックスウェルの悪魔」という表題のとおり、この芝居のひとつの主題は物理学の世界における「熱力学の第2法則=エントロピー増大の法則」である。私たちの住むこの世界においてエントロピー(乱雑さ)は増え続け、決して減ることはない。100度のお湯と0度の水を混ぜると50度のお湯になるが、この現実世界では決して、50度のお湯が 100度のお湯と0度の水に分離するということはない。それは形あるものは必ず壊れるというこの世の習いである。もう少し科学的な言い方をするなら物理現象の不可逆性ということになるだろうか。

 そして、「マックスウェルの悪魔」というのはマックスウェルという人が考え出した思考実験に登場する想像上の悪魔のことで、ごたまぜになった物事を選り分けることでエントロピーを減らす力を持っている。

 さて、ここまで予習してきたところでこうした概念がこの芝居においてどのようにかかわってくるのか具体的に考えていきたい。最初のシーンは「恐竜の時代」と題され、シンプルな白のつなぎの衣装を着たパフォーマーによって、ティラノサウルス、プロントサウルス、プラテノドンといった恐竜たちが跋扈し、この世の春を謳歌した時代とその突然の滅びが描かれる。恐竜といえば初演の時には「ジュラシックパーク」がちょうど公開されていたし、今回もディズニーの「ダイナソー」が公開されているのだが、コンピューターグラフィックを駆使したリアルな映像にも負けずに人間の身体表現だけで、壮大な時間の流れを感じさせるのは夾雑物もなにもない白の衣装が観客に無限の想像力を喚起されるからであり、一方では計算された構図の美しさにもある。ここではなにもない舞台の上を音楽と呼応するように恐竜の動きをするパフィーマーが隊列をなして動きまわるのであるがそれは無秩序というわけではなく、舞台の下手奥から上手手前に向かって舞台を斜めに横切る動線があり、それは遠近法的に舞台に立体感を出し、構図を美しく見せるという一面もあるのだが、それだけではない。ここでは斜めの動線。そして、ここを何度も繰り返し横切る恐竜たちの動きは「誕生から滅亡」へと到る悠久の時間の流れを暗示しているのである。

 この場面は初演においてもこの芝居においてもっとも印象的なシーンであったのだが、特に音楽が途中で切り替わって以降の美しさはまさに滅びの美を叙事することで叙情するという奇跡的な舞台であり、ひさびさに客演として舞踏公司の舞台に戻ってきた磯子の演じる舞台下手の手前側でスローモーションのようにゆっくりと倒れていく草食恐竜の優雅さと気品はめったに見られないものであった。

 このシーンはあくまで恐竜を描いているのだが、コンピューターグラフィックならぬ人間がそれを演じることで、自然この「恐竜の運命」は「人間の運命」ということを連想させる。そして、このシーンはこの芝居の最後の「絶滅」というシーンでもう一度繰り返される。しかし、今度はパフォーマーは白のつなぎではなく、それまでの他のシーンに登場した人間の衣装のままでこれを繰り返すことで、最初のシーンでは暗示に過ぎなかった恐竜=人間の重ね合わせはもう少し明確な形で繰り返されることになる。

 実はこれが最初に挙げたこの芝居で駆使される3つの相同のうちの2番目と3番目の構図の相同、動きの相同にあたるのだが、この同じ動きを最初と最後に持ってくることでここでは主題としての「誕生と滅亡」=熱力学の第2法則をこの芝居を支配する基調低音として提示する狙いがあるわけだ。

 2つ目のシーンとしてこの集団のテーマ曲的なダンスシーンである「上海太郎舞踏公司的題目」が演じられた後、初めて背広姿の上海太郎が登場。パントマイムにより、ビリヤードを演じる「ブレイク」がはじまる。(続く)
 12月21日 ニワトリが先かタマゴが先かということになるだろうが、今週になつてアクセス数がまたがた落ちで、1日60〜70程度を彷徨っている。特にこれまでけっこう多かった23時〜1時の深夜時間帯のアクセスが激減している。これは来年に向けてなんとかてこ入れをしていかなければならないかもしれない。 

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 12月20日 仕事が忙しくてろくにコンテンツを更新できない。 

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 12月19日 上海太郎舞踏公司「マックスウェルの悪魔」の感想の続きである。もっとも、伝言板にだれか見た人は感想を聞かせてと書いたのだけど、関係者の三好さんが別件で書き込みしてくれたぐらいで後はなしのつぶて。どうやら関西の人でこのページ見ている人はあまりいないのだろうか。(では続きを)
 2つ目のシーンとしてこの集団のテーマ曲的なダンスシーンである「上海太郎舞踏公司的題目」が演じられた後、初めて背広姿の上海太郎が登場。パントマイムにより、ビリヤードを演じる「ブレイク」がはじまる。これはマイムらしく多少デフォルメされてはいるもののストレートにビリヤードで玉をひとつづつ落としていく様を演技するのだが、このビリヤードのテーマがそのまま次の「ゲーム」のシーンにつながっていく。「ゲーム」は単独のシーンとしてガラ公演である「ジャックは箱の中」でも上演されたシーンなので東京の人もそれを見て覚えている人はいるかもしれない。最初にタキシード風の衣装を着たパフォーマーが登場すると息もつかせぬ勢いで軽快な音楽に乗せながらカードゲーム(ブラック・ジャック)、ルーレット、ビリヤードをショーダンス風に表現していく。いくつかの衣装を重ね着して、それを次々に脱いでいくとダンサーそのものがトランプカード、ルーレットの番号、ビリヤードの玉に変わっていく。上海太郎の着想も素晴らしいが、舞台上で早変わり可能なカラフルな衣装を考案した三大寺志保美のアイデアはまさに天才の技である。(続く)

 


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 12月18日 ポかリン記憶舎の明神慈さんからメールでガーディアンガーデン演劇祭向けの推薦文を頼まれたのだが、メールボックスを開けようとしても故障したのかつながらない。仕方がないので、書き残していたポかリン記憶舎「砂・眠る」の感想をここで書いておく。
 「砂・眠る」という芝居についてなにか書くということはけっこう難しい。というのはこの芝居はなにやら奇妙な魅力を持っているのだが、その魅力というのがはなはだ微妙なさじ加減で成り立っているもので、明確に概念化してすくい取ろうとした瞬間に手のひらからこぼれ落ちていくようなもろい砂細工のようだからだ。

 この芝居には3人の人物が登場する。そのうちひとりは舞台の始りとともに姿を消してしまうから、一応、2人芝居といっていいだろう。2人芝居は通常、2人の人物の関係の揺れによって、ストーリーが展開されていくことが多いが、この芝居に登場する男女の間にはそういう関係はない。舞台はどうやら病院で、物語の冒頭に椅子とソファーで眠っていた2人の女のうち1人がソファーに置き忘れたハンカチを取りに戻ったところを男につかまり、そこから2人の会話がはじまる。女は自らの存在を椅子とかソファーをあらかじめ暖めて置く「あたため女」だと名乗る。同種のものとしてどうやら「添い寝女」というのもいるらしい。

  バレエの「ラ・シルフィード」「白鳥の湖」、能にも同様に異界のものとの交流を描いた作品がある。この芝居に登場する「あたため女」は日常描写のレベルではそういうサービス業もあるかもというように描かれながらも、作者はそこに天女と羽衣の伝説を重ね合わせることで、「シルフィード」の妖精のごとき異界のものの匂いも暗示させていく。その日常/非日常のすき間のような空間を創造していく巧さが明神慈の面目躍如たるところなのである。

 少し不謹慎な表現ながら、そこには夢現つの間で見る淫夢のような心地よさがある。ここには直接に性的なるものが描写されるわけではないが、なにか悩ましい、そんな魅力に満ちているのだ。   


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 12月17日 CRUSTACEA「ISH vol.5〜スナッキー〜 」(5時〜)を観劇。これは本当に面白かった。キッチュでコケティッシュな魅力は相変わらずだが、メンバーそれぞれの個性が発揮され、パフォーマンスの完成度はこれまでの作品と比べ格段に進歩の跡が見られた。 

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 12月16日 新国立劇場勅使川原三郎「Raj Pachet  ―everithing but Ravi」(7時〜)を観劇。この舞台で勅使川原三郎は動物を沢山、舞台上に上げているのだけど、そうするとどうしても純粋にダンスを楽しむというより、動物が気になってしまうのである(笑い)。それは実に困ったもので、第1幕を見た時には舞台前方に仕切られたエリアに入れられたウサギが可哀相で、舞台になかなか集中できなかった。ウサギってあれだけ耳が大きくて、遠くのかすかな音を聞き分けられるのだから、絶対に大きな音に弱いと思う。前半は舞台奥の方でライブバンドが演奏するのだけど、そうすると最初はそのエリアにバラバラにいたウサギたちが、騒音から逃げようとして、そのエリアの片隅の方に寄り集まってきて、ウサギの立場に立てばあれって完全に虐待だと思う。なんか、本当に脅えていた感じがしたものなあ。
 別に私は動物愛護家でもなんでもないのだけど第1幕を見終わった時にはそれまでして動物を舞台に上げることになんの意味があるのかと思ってしまった。それが微妙に変わってきたのは第2幕。これは「勅使川原さん、子ヤギと一緒に踊るの巻」とでも名付けたらいいだろうか。1幕目には舞台に登場しなかった勅使川原三郎が2幕目に登場して後半のほとんどの時間、モーツァルトの音楽に合わせてソロを踊るのだけど、この時に舞台には柱に繋がれた2匹のヤギともう一匹子ヤギがいて、これが最初はいろいろ音や照明などの変化に脅えたような感じで母ヤギにまとわりついていたのが、割と明るい照明になって舞台上で勅使川原ひとりが静かに踊るようになると、しだいにリラックスしてきたのかまるで勅使川原の動きに合わせるかのように舞台上でぴょんぴょん跳ね回りはじめたのだ。勅使川原の方は一応、振付通りに踊ってるのだと思うが、子ヤギの方は明らかに自分の近くで動いているモノに好奇心を持った感じで、少し近づいたり、またびっくりしてお母さんの方に逃げ帰ったり、それが勅使川原がここで見せたリラックスした動きとシンクロしていて、ソロなのにある意味でデュオを見ているような奇妙な感覚に襲われたのである。

 これは第1幕の本当に脅えてる感じだったウサギとは本当に対照的で、もちろん、勅使川原三郎といえども子ヤギに振付するわけにはいかないので(笑い)、これがどこまで計算されたものなのか、この日だけのハプニングだったのかは分からないのだけど、この日舞台の上で嬉しそうにぴょんぴょん跳びはねていた子ヤギを見ていて、ある種ダンスの持つ快楽の根源的な本質といようなものを感じてしまったのである。

 それは簡単にいえば子ヤギはなんか嬉しいので跳ね回っているのだけど、それが舞台という形で観客に提示されるとその好奇心とか嬉しそうな感じというのは観客に伝わってきて、子ヤギに感情移入した新奇な目でなんかしらないけど動き回ってる変なものとして勅使川原を見たりしている。そして、その時、劇場で見ている私たちの心もぴょんぴょん跳ねているわけなのだ。その意味でこの日の舞台には勅使川原以外にもいいダンサーが出ていたのだけど、主演は勅使川原だとしても最優秀助演(女優か男優は分からない)賞はこの子ヤギくんにあげたい気持ちになったのである。それにしても動物をこれだけリラックスさせる効能があるなんて、恐るべしモーツァルトである。 


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 12月15日 本当は「マックスウェルの悪魔」の続きを書かなければいけないところだが、時間がないので、それは来週回しにして、ダムタイプ「メモランダム」についてもう少し書く。この舞台には「ジャックと豆の木」とかいろいろな言語テキストが引用されているのだが、冒頭に英語のテキストとして出てくる話はいったいなんだったのか分かる人がいたら教えてほしい。主人公は主が留守にしている部屋に入って、そこにスープが置いてあったので飲んでしまい、ベッドがあったのでそこで寝てしまうという話(だったと記憶しているのだけど違うかも)なのだが、最初、「不思議の国のアリス」かと思ったのだが、どうも違うみたいで、その次に白雪姫にそんなシーンがあったような気もしたのだけどそれもどうやら記憶違い。ただ、実はこの原文、英語のテキストかなんか(教科書かもしれない)で大昔に読んだような気がするのだ。その話にはどうも熊が出てきたような気がして、「メモランダム」という舞台にはクマも登場するので、そこはなにか符号するのだけど、それ以上どうも思い出せなくてもどかしいのだ。クマということで「クマのプーさん」というのも思いだしたのだが、どうもこれも違うみたいだ。だれか分かる人がいたら伝言板への書き込みで教えてほしいところなのだけど、最近、アクセス減ってるから難しいかなあ。  

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 12月14日 今週末は土曜日は仕事が早めに終われば新国立劇場勅使川原三郎「Raj Pachet」(7時〜)、日曜日は2週間連続で大阪に行ってCRUSTACEA「ISH vol.5〜スナッキー〜 」(2時〜、5時〜)を見る予定である。大阪行きを決めたためベターポーヅ動物電気もちかまつ創造芸術劇場(松田正隆作品)は残念ながら見られそうにない。これまで毎年、見にいっていた劇作家協会新人戯曲賞の公開最終選考会(17日6時半〜、紀伊国屋ホール)にも行けないから、結果が分かったらだれか伝言板に書き込みでもして知らせてほしい。さらに来週はトリのマーク「迷路を抜けて果樹園へ」、ガーディアンガーデン演劇祭特別企画、ジャブジャブサーキット「サワ氏の仕業III」、ゴキブリコンビナート「デス・ミュージカル死期」など重なっていていったいどうスケジュール取りしたらいいのか悩むことしきりである。一応、土曜日夜のトリ、日曜日にガーディアンガーデンの後、ゴキコンかジャブジャブ、月曜日も休めそうなのでこの日にジャブジャブかゴキコンの予定なのだが、ガーディアン終わったら知りあいと飲みに行ってしまう気もするなあ(笑い)。

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 上海太郎舞踏公司「マックスウェルの悪魔」について書こうと思う。この芝居はいつもの上海太郎の舞台同様にいくつかの短いシーンをつないでいく、一見オムニバス風の形式で作られている。しかし、ともするとバラバラにも見えるそれぞれの場面は芝居を全て見終わった後、俯瞰してみるとあたかもジグソーパズルのようにひとつの形を取って収束していく。それらは実は緻密な構想のもとに配置された壮大なイメージの一部であることが分かってくるからである。それらのシーンをつなぐ糊しろとして多用されるのは3つの相同、すなわち関係の相同(メタファー)と構図の相同、そして動きの相同である。この芝居ではあたかも交響楽において、ひとつの主題が変奏されながら繰り返されるように全く違うコンテクストに置かれたそれぞれのシーンが3つの相同が介在することで結び付けられる。
 関係の相同というのはいわゆるメタファーのことで、舞台上で提示されたひとつの関係性が同じ関係性にある他の出来事を想起されるという構造を取っている。私は一部の芝居について「関係性の演劇」と名付けているのだが、それは決して「静かな演劇」の別名なのではない。「マックスウェルの悪魔」という表題のとおり、この芝居のひとつの主題は物理学の世界における「熱力学の第2法則=エントロピーの法則」である。私たちの住むこの世界においてエントロピー(乱雑さ)は増え続け、決して減ることはない。100度のお湯と0度の水を混ぜると50度のお湯になるが、この現実世界では決して、50度のお湯が100度のお湯と0度の水に分離するということはない。それは形あるものは必ず壊れるというこの世の習いである。もう少し科学的な言い方をするなら物理現象の不可逆性ということになるだろうか。

 そして、「マックスウェルの悪魔」というのはマックスウェルという人が考え出した思考実験に登場する想像上の悪魔のことで、ごたまぜになった物事を選り分けることでエントロピーを減らす力を持っている。

 さて、ここまで予習してきたところでこうした概念がこの芝居においてどのようにかかわってくるのか具体的に考えていきたい。最初のシーンは「恐竜の時代」と題され、シンプルな白のつなぎの衣装を着たパフォーマーによって、ティラノサウルス、プロントサウルス、プラテノドンといった恐竜たちが跋扈し、この世の春を謳歌した時代とその突然の滅びが描かれる。恐竜といえば初演の時には「ジュラシックパーク」がちょうど公開されていたし、今回もディズニーの「ダイナソー」が公開されているのだが、コンピューターグラフィックを駆使したリアルな映像にも負けずに人間の身体表現だけで、壮大な時間の流れを感じさせるのは夾雑物もなにもない白の衣装が観客に無限の想像力を喚起されるからであり、一方では計算された構図の美しさにもある。ここではなにもない舞台の上を音楽と呼応するように恐竜の動きをするパフィーマーが隊列をなして動きまわるのであるがそれは無秩序というわけではなく、舞台の下手奥から上手手前に向かって舞台を斜めに横切る動線があり、それは遠近法的に舞台に立体感を出し、構図を美しく見せるという一面もあるのだが、それだけではない。ここでは斜めの動線。そして、ここを何度も繰り返し横切る恐竜たちの動きは「誕生から滅亡」へと到る悠久の時間の流れを暗示しているのである。

 この場面は初演においてもこの芝居においてもっとも印象的なシーンであったのだが、特に音楽が途中で切り替わって以降の美しさはまさに滅びの美を叙事することで叙情するという奇跡的な舞台であり、ひさびさに客演として舞踏公司の舞台に戻ってきた磯子の演じる舞台下手の手前側でスローモーションのようにゆっくりと倒れていく草食恐竜の優雅さと気品はめったに見られないものであった。

 このシーンはあくまで恐竜を描いているのだが、コンピューターグラフィックならぬ人間がそれを演じることで、自然この「恐竜の運命」は「人間の運命」ということを連想させる。そして、このシーンはこの芝居の最後の「絶滅」というシーンでもう一度繰り返される。しかし、今度はパフォーマーは白のつなぎではなく、それまでの他のシーンに登場した人間の衣装のままでこれを繰り返すことで、最初のシーンでは暗示に過ぎなかった恐竜=人間の重ね合わせはもう少し明確な形で繰り返されることになる。

 実はこれが最初に挙げたこの芝居で駆使される3つの相同のうちの2番目と3番目の構図の相同、動きの相同にあたるのだが、この同じ動きを最初と最後に持ってくることでここでは主題としての「誕生と滅亡」=熱力学の第2法則をこの芝居を支配する基調低音として提示する狙いがあるわけだ。

 2つ目のシーンとしてこの集団のテーマ曲的なダンスシーンである「上海太郎舞踏公司的題目」が演じられた後、初めて背広姿の上海太郎が登場。パントマイムにより、ビリヤードを演じる「ブレイク」がはじまる。(続く)


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 12月13日 「ぼくの青春映画物語」(大林宣彦著)、「ロラン・バルト映画論集」を読了。
 ダムタイプ「メモランダム」を観劇。スタイルとしてはパフォーマーが登場するとはいえ映像に重点が置かれた前作「OR」と比較すると後半部分はダンス的な振付が多用されるし、映像、音響とダンスとのコラボレーションという形態に回帰している。古橋悌二を失った後、表現としてはダンス的な要素との間に距離を置くかに見えたのだが、ここにきてまた作品に置けるパフォーマーの占める比重が大きくなってきているのは意外ではあった。表現としては途中の熊の着ぐるみを着た登場人物など遊びの要素も散見されるものの日本人離れした洗練された表現は相変わらずで、その意味で全体の完成度はきわめて高い。パフォーマンスとシンクロした映像、照明(フラッシュライト)、音響(ノイズと重低音)はダムタイプの専売特許といってもいいものだが、そうしたものによる眩暈感がある種心地よいカタルシスを生みだしていく。その一方でそれはある種突き放したようなクールな感覚が前面に出てくるところで、感情移入のような形では作品に入り込みにくいもどかしさを感じたことも確かなのである。このあたりのことについてはもう少し考えてみないといけないと思っているのだが、日本でもっとも「カッコイイ」舞台を作る集団の魅力は十分に発揮されていたと思う。


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 12月12日 お薦め芝居12月分掲載した。
 上海太郎舞踏公司の打ち上げでひさびさに(以前にいつやったのか思いだせない)麻雀をやる。メンツは川下大洋氏、音響の三好嬢(もう一人は名前を失念)。といっても半荘1回だけだし、一度上がって、振り込みはないしのマイナス5の3着となんともしまらない結果。勝ったのは川下さんであった。そういえば上海太郎のそとばこまち時代からの僚友というイメージがあったのでてっきり先輩だと思っていたのだが、川下氏と私は京都大学でまったくの同級ということが話しているうちに判明した。川下氏がしきりに「なんか損したような気がする」といっていたのだが、詳しくは聞かなかったのだが、向こうも私の方が上だと思っていたということだろうか(笑い)。こういうのってなんか複雑な心境である(笑い)。上海太郎の「麻雀オペラ」の歌詞ではないが、周囲にメンツがいないので、東京に来てからはなかなか麻雀をやることができない。「麻雀やりたいぞ〜、だれかおらんか〜、だれもおらへんか〜、だけどやりたい、だれかでてこ〜」。

  ネクスト・ネクストの感想書こうと思ったのだけどチラシと当日パンフを紛失してしまって、細かいディティールが不明になってしまった。それぞれの作品の題名とか分からないので相当アバウトな感想になってしまうけど勘弁してほしい。出演したのは水と油、オガワユカ、CRUSTACEA、石川ふくろう、たかぎまゆの5組。個人的な目当ては水と油、CRUSTACEAの2組だったのだが、他の作品にも見るべきところがあり、わずか1ステなのが惜しまれる公演であった。

 水と油は男性3人、女性1人の4人構成のよるダンスパントマイム集団で、アビニョン演劇祭で初めて見たのだけれど、今年初めて見た集団のうちでは最大の収穫といっていい。現実からちょっとずれた不思議な世界をパントマイムと集団による群舞で描いていくのだが、ネクスト・ネクストで上演された小品でもそうした持ち味は十分に発揮されていた。パントマイムといっても単なる無対象演技というわけではなく、構成においてそれぞれパラレルワールドに住む複数の登場人物がモノを媒介にしてつながっていくという奇妙な構造がここの得意とする作り方で前作「見えない男」では本がその役割していたのが今回は舞台中央に置かれた机となにやら紙袋に入っている書類がその役目を果たしている。ただ、今回上演された小品は来春のグローブ座フェス向けに創作されている作品の一部を抜粋して15分程度にまとめたもので、ここの作品はビジュアルと構成のセンスのよさが最大のセールスポイント。ストーリーがあるわけではないが、ダンスというよりは演劇の要素が強く、前作を見ていないとこれだけではどういう方向性の作品であるのかが提示しきれていないきらいはある。ただ、印象に残るイメージの提示はされているという点ではこれが今後どのように転がってひとつの作品に結晶していくのか楽しみが膨らむ舞台であった。

 CRUSTACEA『「ISH vol.5〜スナッキー〜 」から抜粋』も今週末、大阪で上演される本公演からの抜粋で、全体で50分ぐらいの作品のうち15分程度が上演された。これも日曜日に大阪で見る予定なので作品としてはそれを見てから評価することにしたいが、フリルのついたピンクのシャツと黒のショートパンツという悪趣味と紙一重の衣装といい、いわゆる商品化された性を引用しながら、それを微妙にずらしていく手法といいハマタニらしい特徴がよく出た作品であった。ここで上演された部分には少し客いじりのような演出も含まれているとはいえ、振付もダンス的要素の強いところが抜粋されていて、CRUSTACEAとしてはおとなしめの作品になっていたためそこが若干もの足りなくはあったが、こちらもそれは本公演に期待である。

 一方、石川ふくろうの作品は機会仕掛けの自動人形とダンスのコラボレーションといった感じの作品で自動人形に代表される美術、ダンサーともにきめ細かく計算された演出の巧みさを感じさせられた。全体としてすきのない舞台で完成度は高いが、包帯で顔を巻いていくところとかどこかアングラっぽくて、水と油などと比較すると提示されるイメージがやや古めかしく感じられるのが気にかかる。しかし、これももう少し長い1本に構成された作品を見てみたいという気にはさせられる舞台だった。

 オガワユカ、たかぎまゆは振付作品というよりは稽古場で即興的に作られた自分の身体の動きを定着させて見せていくという趣きの強い典型的なソロダンスであった。この中では一見、ラフに作られた中にところどころ素朴さゆえの魅力を感じさせるオガワユカの作品はけっこう面白くはあった。それと比較すると突飛な選曲やBGMに個性はあってもたかぎまゆはダンスの動き自体はいまひとつピンとこなかった。ただ、オガワの作品にしてもところどころにムーブメントの面白さなどは感じられるものの、習作の感が色濃く、ダンス表現としての自分の独自性に無自覚なところが感じられてならなかった。もっとも、前記の3本は振付家本人がダンサーとして参加していても他のダンサーにも振付がされているという点でダンサーと作品が腑分けできるのに対してソロダンスの場合にはそれが難しいということもある。もう少し作品が長くてせめて30分ぐらいあれば例えば先月見たヤザキタケシの作品のように構成・振付とダンサーというのを多少分けて考えられるのかもしれないが、この場合はそうではないのでダンスのムーブメントに見た瞬間に分かるような強烈な個性がないとどうしてもインパクト不足という感じを受けてしまうのである。




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 12月11日 この日は前日、上海太郎舞踏公司の打ち上げに徹夜で参加した後、朝、新幹線で帰京。そのまま仕事をしたため、仕事を終え帰宅した後、これを書いていRのだがとにかくえらく眠い。本当は感想など書きたいところだが、論理的な思考ができないためそれは後ほど。内容は初演に劣らぬ出来栄えで、ということは今年見た芝居の中でも1、2位を争う好舞台だったということだけは取りあえず書いておく。

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 12月10日 大阪に行き上海太郎舞踏公司「マックスウェルの悪魔」(3時〜)を観劇。 

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 12月9日 花組芝居の当日券にでも並ぼうかと思っていたのだが、起きたら2時半を回ってた。そういうわけで、この日見たのはセゾン・森下スタジオでのダンス企画「ネクスト・ネクスト」(4時〜)の1本だけ。しかもそれも開演ぎりぎりになんとか間に合うという体たらく。でも、この公演自体は水と油、クルスタシアほか出場カンパニー(ダンサー)がレベル高く、十分に楽しめたので取りあえずよしとしよう。 

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 12月8日 ジョン・レノンの命日である。

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 12月7日 今週初めひさしぶりにアクセスが1日100を超えたのでこの調子で少しずつ増えるのかなと期待していたのだが、なんと土日でもめったにない1日60アクセス台に激減。最近はけっこう更新を頑張ってるつもりなのにちょっとショック。もし、このページのコンテンツを読んで面白かったという人がいたら、どこかの掲示板にそれとなく書き込むとかしてくれると有り難いのだけど。そういう他人だのみじゃだめか(笑い)。このページの最初にも書いたけど今月の表紙の壁紙どうでしょうか。反響が多少でもあると有り難いので、感想を伝言板で聞かせていただけるとありがたいです。後、猫ニャーとロリ男の感想も募集中。私は面白かったのだけど、この辺の公演については否定的な意見も多いと思うので、そういう感想もあれば聞いてみたいです。多少つっこみは入れるかもしれないけどここは別にファンクラブではないので。 
 とりあえず、12月のお薦め芝居、まずはダンスの分だけを掲載することにする。

 今週末は土曜日がCRUSTACEAと水と油が出演するダンス企画、ネキスト ネクスト(4時〜、森下スタジオ)、日曜日は大阪までひさびさに遠征して、上海太郎舞踏公司「マックスウェルの悪魔」(3時〜)。CRUSTACEAはその次の週に大阪で行なわれる本公演「スナッキー」の予告編的なものになりそうだが、果たしてどうか。「マックスウェルの悪魔」の方は私ともし同じ回に見る予定の人がいればぜひ名乗りでてほしい。また、明日から公演スタートなのでもし先に見た人がいたら感想聞かせてほしい。

 


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 12月6日 ロリータ男爵+むっちりみえっぱりの芝居の中にもそれをパロディした場面が出てきたが最近、連日夜中に「アイデア対決 高専ロボットコンテスト」の地方予選が放映されていて、一度見たらやみつきになってついつい連日見てしまっている。今年のルールはロボットを使って4つのポールの上にそれぞれ1つづつ造形物を置くという単純なものなのだが、これがなかなか面白いのである。高校野球ではないのだが、これがなかなか土地柄が発揮されるというか、中国地方のチームが完成度の高いマシンを作ってそれこそ秒殺に近い速さでパーフェクトパフォーマンスを披露して、高度な戦いをしているかと思えば、関西のチームなどはほとんどお笑いの一発芸に近い作戦で本当に勝つ気があるんかいなという珍妙なアイデアを出してきたり。
 かなり高いところに設定された4つのポールに造形物を置けるようにはしご状の階段とか鉄棒のようなものとかが置かれ、大部分のチームがポールに取りついて登る機構を持つロボットかそうした補助具を使うロボットを作っている中で勝つためには手段を選ばぬという意味で面白かったのが中部代表になった豊田高専チームのロボット(?)。これは本来は利用するために据え付けられたはしごとかを単なる障害物と考えてそれを避けるためにロボット自体がスタート時点から左右上下に大きくアームを伸ばしちょうど凱旋門のような形に広がりそのまま直進し、ポールのところに直接行ってそれぞれの造形物を落とすというだけのもので、無駄な機構がないので安定性が高く、しかも階段や柱を登るというようなことをしなくてもいいので操縦ミスも心配しなくていいように作ってあるのだが、よく考えるとこれってロボットじゃなくてただのクレーンじゃないか(笑い)。もちろん、ルールブックをよく見て検討した上での選択なのでこれでいいのだろうけど、他のチームがクランクやギア機構などに苦心して階段やポールを登る仕掛けに苦心惨憺している中、そうした苦労を全てすっとばして最小の機構(車輪とロボットが広がるだけの仕掛け)で最大の効果を狙っているのがいかにもトヨタお膝元の高専らしくて笑ってしまった。


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 「探偵映画」(我孫子武丸講談社文庫)を再読。この本が最初に出版されたのが90年12月、文庫になったのさえ94年7月とかなり前のことになる。作者は実は私の大学時代のサークルの後輩でもあるのだが、そういうこととはいっさい関係なく最初にノベルズ版で読んだ時に一読後、これは凄い傑作だと当時周囲ににた人間に吹聴して回ったのだが、今回、ひさしぶりに再読してみて、これはやはり大げさではなく、 90年代を代表するミステリ小説の傑作だとの感を強くした。表題の「探偵映画」というのは本書の表題であるとともに作中に登場する主人公たちが撮影に立ちあっている映画のタイトルでもある。これは作者もあとがきで書いているように『「探偵映画」という題名の探偵映画をめぐる小説』であり、普通の意味でのミステリではなくて、メタミステリだと言っているのだが、この小説のミステリとしての本質に触れることなくそのことを説明するのはかなり難しい。

 実はこの小説が面白いのは本格ではストーリー・テーラーということも含めてカーが好きだという風にカミングアウトしている作者がカーが「三つの棺」という作品で作中に「密室講義」を挿入したように「映画における叙述トリック論」を冒頭で展開してみせるところで、作品全体がそうである中でも特にここにカルトなまでにミステリフリークにして映画フリークでもある作者の面目躍如といったところが結晶されてでているからである。ここの部分を読み直していて、刺激的だったのは以前にこの日記にたびたび本格的なミステリ劇の登場を期待すると書いたことがあるのだが、演劇においても「演劇ならではの叙述トリック」が成立しうるような可能性が残されているのではないだろうかと思ったのである。

 ミステリの門外漢には叙述トリックなどという概念自体が関心ないだろうから説明するのはあまり、意味がないかもしれないけれど、簡単に説明しておくと通常のトリックは犯人が探偵を欺くために仕掛けるのに対して、作者が読者に仕掛けるトリックを叙述トリックという。さて、演劇においてもいくつかの作品でそういう仕掛けを見かけることはある。たとえば、これまで複数の作品で見たことがあるのが、舞台に生きている人のように登場している人物が実は幽霊か他の登場人物の心象風景にだけいる人物で、最初はそれが伏せられているので、普通に会話していて、その人物もそこにいるように見えるのだけど主人公以外にはその人物が見えてないことがしだいに分かってきて、その人物がそこにいないということが分かるというパターン。これなんかは見方によっては叙述トリックといっていいと思う。

 それとは少し違うけど同じようなパターンで人間のようにして登場してきて、振る舞っているのだけど、その行動が少し変で、じっくりと見ているうちにその正体が人間以外のものだというのが分かってくるというもの。ジャブジャブサーキットのはせひろいちが得意で「非常怪談」「バクスター氏の実験」など複数の作品でこのパターンを使っている。これに近いパターンはもう少し大きな構造で惑星ピスタチオ西田シャトナーも使っている。

 さらに「探偵小説」の中に映画の叙述トリックとして引用されている「しょっぱなに意外なシークエンスを持ってきておいて、実はその部分は映画の撮影だった、っていうのがよくありますけど、これなんかギャグとしても叙述トリックとしても見ることができます」というのがあるのだが、遊気舎時代の後藤ひろひとが「じゃばら」をはじめとするいくつかの芝居でこういうパターンを多用していたのが思いだされる。劇中劇ないし、その芝居の中における地の文的な部分でないところを最初のシーンに持ってきて「おや」と思わせる手法は桃唄309の長谷基弘などが得意としていてパターンを変えて何度か使っている。

 ピーター・シェーファーの「ブラックコメディー」という芝居では最初暗闇で芝居が始まった後、舞台上が照明に照らされて明るくなるのだが、実はこれは歌舞伎のだんまりと同じで真っ暗で舞台上の登場人物に取ってはなにも見えないという設定で、最初はそのことは伏せられているのだけど、途中、舞台上でマッチをすると一瞬、舞台が暗くなるというのがあって、この時に観客はこの舞台では約束ごととして、舞台上の明暗が逆転しているのだということに気が付く。これなども一種の叙述トリックといえなくもないかと思う。

 そういう例はごく一部を除いてトリックといってもミステリとはなんの関係もないじゃないかとつっこみを入れたくなっている人も多いとは思うのだが、そのとおりである。ただ、「探偵映画」で取り上げられている叙述トリックも小説自体の本質とかかわってくるもの以外は「マッドマックス2」「新サイコ」「ゾンゲリア」「悲愁」とほとんどがミステリとは関係ないものなのである。だとすれば、例えば「探偵演劇」というミステリ劇の中でオリジナル度の高い「演劇でこそ成立する叙述トリック」が産まれうる可能性は皆無とはいえないと思うのだ。

 そういえば「探偵映画」の中の叙述トリックをめぐる一連の会話の中で、アレハンドロ・ホドロフスキー監督の「ホーリー・マウンテン」という映画が紹介されている。この監督はこの映画で監督だけでなくて、脚本、音楽、主演を1人でこなしていて、内容は主人公を含む変な連中が聖なる山を目指すというものらしい。そして、その映画では最後の最後になって主人公兼監督が「これは映画だ!」と言って終わっちゃうというのだけど、よく考えたら「これって猫ニャーじゃないか」(笑い)。 


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 12月5日 猫ニャー「将来への不安Z2000/ファーブルミニ」について感想を書く。猫ニャーのスタイルは既存の演劇のスタイルとか決めごと(パターン)とかを踏まえながら、それを脱構築して全く意味のないものに変えていくことである。今回上演された2本の作品はそれぞれスタイルこそ違うがそういうこの集団(というか作演出のブルースカイ)の特色が色濃くではものでそこが私には面白かった。もっとも、最近のブルースカイの作品がひと筋縄ではいかないのはだれの目にもそれがはっきりと分かるようには展開されないことである。演劇のスタイル自体を解体していく手法というのは構造からいえば「メタ演劇」といっていいと思うのだが、メタ○○というのは当然、「演劇」というものがあって、その外側から「演劇」を批評するような形で表現が提示されるわけで、以前の猫ニャーの場合、特に後半部において前段に構築していた演劇的構造を次々と破壊していくような趣向が展開されたのに対して、「将来への不安Z2000」では作品の内部には「解体されるべき演劇」が存在しない。だから、ともすればこれ自体がある種の演劇表現だと単純に受け取られてしまう危険性を孕んでいるからだ。
 この場合、解体すべき対象となっているのはいわゆる一般に「元気がでる芝居」とか「ハートウオーミングな芝居」とかいわれているもので、この芝居が一見、そうした芝居によくあるような「友情を分かち合う仲間たちとそういう関係に憧れる少女」といういかにもステレオタイプな設定を借りているのはその手の芝居の持つある種の偽善性を悪意を持ってデフォルメすることで、そういう「不幸に負けず主人公は頑張ってるんだ。だから皆も大変なことがあっても頑張ろう」的なメッセージを発する芝居のうさんくささを笑いのめすのが目的なのだ。その目的のためにブルースカイは「元気が出る」系の芝居で多用されるような登場人物のやり取りや80年代小劇場で顕著だったその種の芝居でよく使われた演劇的手法をことさらに引用して芝居の中に散りばめてみせる。荘厳な音楽が流れ、色付きのきれいな照明があたり、その中で役者が群像でスローモーションのような動きを見せればそれだけで内容がなくても感動的に思えるとか、この芝居の後半部のように意味もなく登場人物が舞台上で、隊列を組んで汗を流して走り回るとか(笑い)である。これなんか、以前にこの同じ劇場でブルースカイがからかってる元になったと思われる(具体名はあえて挙げないけど)劇団の芝居を見たことがあっただけにそれだけでおかしくなって笑ってしまった。

 もっとも揶揄するといっても普通のパロディと猫ニャーが異なるのは通常パロディというのは表現の中に含まれた「なにかの原典を模倣した表現」と「これは冗談なんですよ」というメタレベルのメッセージを同時に発信しているため、予定調和的に安心して笑えるというのがあるのだが、猫ニャーの場合、これがない。だから、全体がマジで受け取られるという危険をあえて犯しながら、その中でダブルミーニング的な表現(例えば「表面的に感動的なシーン」その実、「安易に作られた感動的シーンを完全にバカにした悪意の極致」)で、観客に踏み絵を踏ませているということがあるのだ。

 その点でいえば「メタ演劇ぶり」は「ファーブルミニ」の方が分かりやすい構造を持っている。というのはこちらの方は昆虫学者アンリ・ファーブルの評伝劇という枠組みを「解体されるべき対象」として持ってきているのは割と明確だからだ。そして、この芝居においてはその枠組みは決して実現されることなく、いずれのシーンにおいてもファーブルは登場するものの、どうでもいいものとして、コント的な展開の中に解消していくばかりか最後には集団マイムによる戦闘シーンなど90年代エンターテンメント演劇において惑星ピスタチオや劇団★新感線などが生みだした空間処理、身体表現の手法などをそれこそ無意味に引用しての超能力者同士の戦い場面に横すべりしていき、やはり出鱈目な台詞を感情を高揚されるような音楽と照明の元で群読するという無内容かつ感動的(?)なクライマックスシーンで終わるのである。

 ここでおかしいのはこの集団での身体表現が今回の芝居ではかなり練習したためかけっこうレベルが高いことで、こういうのがうまくてのこの芝居ではあまり意味ないのにと思わずつっこみたくなるにだが、それでもうまくいった時にはそれに参加している役者らがけっこう満足げというか気持ちよさそうなので、例え芝居全体の流れと関係なくても俳優というのはシーンに感情移入ができてうまくいった時には気持ちいいのかもとかいろんなことを考えさせられて、それもなぜかおかしかったのである。


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 12月4日 「ねむりねずみ」(近藤史恵創元推理文庫)を読了。歌舞伎の世界(梨園)に舞台を取ったミステリ小説でこの人の作品はこれが初めてだったのだが、これを20代の女性が書いたというのにちょっとびっくりさせられた。歌舞伎ミステリといえば演劇評論家でもある戸板康二による中村雅楽ものが有名だが、舞台が歌舞伎界であるということの必然性と全体の趣向の鮮やかさからいえばこちらの方が一枚上ではないかと思われるほどなのである。
 演劇を題材に取ったミステリ(というか演劇が作品中にでてくるミステリ)というのは日本にもないではないのだが、大部分は多少演劇を知るようになると笑ってしまうほどリアリティーのないものが多い。それは結局、海外の作家がそうした舞台を材に取る場合はその世界にかなりの知識のある人(典型的なのは戯曲も書いているアガサ・クリスティ)なのに対して、日本の場合には一例を挙げれば綾辻行人の「霧越邸殺人事件」のように全くの想像で書いているものが大部分だからである。もちろん、作者の近藤史恵戸板康二のような専門家というわけではないから、玄人筋から見れば「こんなことはないよ」ということもあるのだろうとは思うが、この小説を読んだだけで作者が相当な歌舞伎フリークであることは伺われるし、私のような気が向いたらたまに見に行くことがある程度の観客からすると具体的な歌舞伎の演目(「鬼一法眼三略巻」「源平布引滝」「鏡山旧錦絵」「絵本太閤記」など)が作中にいくつも出てきて、ミステリの内容上それを分かりやすく説明することが必要な場合もあるため生半可な歌舞伎入門書を読むより勉強になったりする(笑い)。

 さらにミステリとしても、それがなになのかについてはネタバレになるのでここでは書けないが、いくつかの先行作品(その中にはミステリ以外の作品もある)の本歌取りを思わせるところがあり、それを見事に換骨奪胎しているという意味でも感心させられた。


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 12月3日 昼の回に予定していた猫ニャーが見られなくなり、考えた揚げ句、キーロフバレエを諦め、猫ニャー「将来への不安Z2000/ファーブルミニ」(6時〜)を観劇。今回は自業自得なので、自分を責めるしかないのだが、つくづくバレエとは縁がない。詳しい感想は後で書くつもりだけど、いわゆる「元気がでる芝居」に対する悪意がこれほど見事なまでに結晶化された舞台はこれまでなかったのではないだろうか(笑い)。特に「ファーブルミニ」での惑星ピスタチオや劇団★新感線の手法を見事なまでに換骨奪胎した無意味な対決シーンにはここまでやるかと笑ってしまった。猫ニャー健在なりである。

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 12月2日 前日遅くまでホームページ更新にかまけていたことなどもあり、早起きできずフォーサイスク・ナウカの映画は断念。珍しいキノコ舞踊団「フリル(ミニ)」(4時〜)、ロリータ男爵+むっちりみえっぱり「嫁ぶるえ」(7時〜)を見に行く。
 まずは珍しいキノコ舞踊団から。改めて思うにこれは年間ベスト級の秀作であると思う。ダンサーの個性が豊かなところがいい。昨日の日記で三浦雅士のダンサー偏重主義に文句をつけていたばかりなので、なんだ言うことが首尾一貫してないじゃないかと思われる人もいるかもしれないが、これはすなわち、それぞれのダンサーの個性の違いをうまく引きだしてそれを作品に生かしている伊藤千枝の構成・振付の勝利といえるのである。日本のダンスカンパニーの場合、カンパニーといってもコアのメンバーは一定していても個々の作品ごとにダンサーを集めて公演している例がほとんどなのだが、珍しいキノコ舞踊団の場合、最近の公演ではほとんどメンバーが固定しており、そういう集団と