下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンスなど様々な文化的事象を批評するサイト。

ホエイ「スマートコミュニティアンドメンタルヘルスケア」@こまばアゴラ劇場

ホエイ「スマートコミュニティアンドメンタルヘルスケア」@こまばアゴラ劇場

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プロデュース:河村竜也(ホエイ|青年団) 作・演出:山田百次(ホエイ|劇団野の上)
一人の妄想が引き起こした集団ヒステリー。戦慄の再演。

河の上中学校は複式学級。生徒が少なく、全学年が一つのクラス。少人数ならではの、ほのぼのスクールライフ。 担任の先生は新採用。いつも優しく、時には熱血指導。そんな中、学校間交流から帰ってきたアイツ。覚えてきたばかりの楽しい遊びを、学校のみんなに教えてあげる。
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ホエイ

ホエイとは、ヨーグルトの上澄みやチーズをつくる時に牛乳から分離される乳清のことです。
産業廃棄物として日々大量に捨てられています。でもほんとは飲めます。
うすい乳の味がしてちょっと酸っぱい。
乳清のような、何かを生み出すときに捨てられてしまったもの、のようなものをつくっていきたいと思っています。

出演

大竹 直(青年団) 斉藤祐一(文学座) 鈴木智香子(青年団) 武谷公雄 永宝千晶(文学座
赤刎千久子(ホエイ) 河村竜也(ホエイ|青年団)  山田百次(ホエイ|劇団野の上)
スタッフ

照明:黒太剛亮(黒猿) 演出助手:楠本楓心 当日運営:太田久美子(青年団
制作:赤刎千久子 プロデュース・宣伝美術:河村竜也

 中学生だけど中学生じゃない。学校だけど学校じゃない。ホエイ「スマートコミュニティアンドメンタルヘルスケア」の特徴は舞台上で俳優たちによって演じられているフェーズとそれが暗示というか表象している社会的な事象が二重かさね、三重かさねになって、異なるレイヤー(層)が同時に提示されていくことにある。それは演劇でないと表現できないことで、そういう表出の構造がきわめて刺激的なのだ。
 観劇後の感想で中学校の話なのに全然中学生っぽく見えないとか、表現にリアリティーが感じられないというようなものがあったが、山田百次の演出も出演する俳優の演技もこの舞台では意図的にそうした種類のリアルは目指していない。むしろ、物語も演技もどちらかというとデフォルメされた寓話的なもので、舞台を見た誰もが感じるのはここで演じられていることには何となく隠された裏の意味もあるようだけれどそれは何なのだろうという違和感である。
それではこの舞台ではどんなことが演じられるのか。描かれるのは複数の学年が同じ教室で学ぶ複式学級を採用する中学校の1日。どこか学校を舞台にしたモダンホラーのような冒頭の雰囲気だ。他校との交流事業に派遣されたこのクラスのリーダー的な存在である守康(大竹直)はクラスの友人に奇妙な遊びを伝える。皆の背後にはそれぞれ守護メンという神様のようなものが憑いていて、その人を助けているというのだ。
 このたわいのない「ごっこ遊び」のようなものは最初はたぶん始めた守康自身も単なる遊びとして始めたもので、誰もが本気で信じているわけではない。ところがそれはいつの間にか教室内に蔓延する同調圧力のような目に見えない力によって次第に皆への支配の度を強め、暴走していく。
ここまではよくある話でもある。閉ざされた集団の指導者の権力の暴走を描いた作品の前例としてゴールディングの「蝿の王」なども連想されるし、ある出演者はジョージ・オーウェルの「動物農場」を挙げていた。
 ただ、そうした物語よりホエイの「スマートコミュニティアンドメンタルヘルス」をより恐ろしく感じるのは憑依的な性格を持つ2人の女性(ナナ子、舞)が介在してくるところだ。最初に物語を始めた守康とその仲間たちの場合は遊びに自分も乗っかることで、クラス仲間の中での自分の立場を強化するといういわば功利的な動機もないではなかった。つまりこれはあくまでもクラスの仲間と一緒にやる「遊び」であり、教室の外にいて彼らを脅かすものとして守康が「あいつら」の存在を言い出した時も守康の取りまきだった祐一(斉藤祐一)やシンジ(河村竜也)は実際には見えていないのにリーダーの守康におもねって、「そういうことにしよう」ということにしていたのが、こうして生まれた異常な興奮状態になにか影響を受けたのか、女子2人が突然トランス状態になっておかしなことをつぶやきだすに至って、少年たちの「ふり」は次第に「ふり」ではなくなっていき、そこで実際に何か異常な現象が起こっているのか、皆がそうじゃないのにそうであるルールで動き続けているのか観客の目には区別がつかなくなる。
 守護メンなどのアイデアは日本の伝統的な呪術的な世界観というよりはゲームを思わせるものであり、そこに例えば遠野物語のような土俗的なものがあるわけではないがこういう非日常的な出来事が起こる場所として辺縁的な地方を舞台にしたのはけっこう意図的なものだと思う。実際、それぞれの人に守護神がおり、それを人形のようなものに移して宿らせることができるというゲームのようなものは山田百次自身の実体験だというし、もちろん、こんな陰惨な事件は実際に起こってはいないが、複式学級の雰囲気も山田の実体験に基づき創作されたようだ。
 さらに言えばこの物語で女生徒のひとり(赤刎千久子)が何か悪いものが憑いていると残りのメンバーにより、教卓の中に閉じ込められるといういじめを受けるのだが、山田の故郷の近くには熊本県芦北郡で起こった狸憑き殺人事件*1のきっかけとなったような民間伝承も残っているようだ。そういう民俗学的な伝承の匂いはこの作品からはすべて拭い去られているけれど、そうしたものが発想の根幹にあるということは十分に考えられることだ。
 ただ、こうした当初の設定から閉じ込められていた女性が逆に権力を握り、もうひとりの女性を落としいれ、彼女からラブレターをもらい通じ合っていたという秘密の暴露からリーダーの守康がその地位を失脚するのを境に物語の雰囲気は一転する。ここで引き起こされる集団的ヒステリーはオウム真理教事件連合赤軍事件のように閉ざされた集団が集団での無意識的な思い込みに突き動かされてカタストロフィに突き進む様子が語られていくのだ。これは現実に起こった事件だけではなく、ドストエフスキーの「悪霊」などかつて起きた事実に基づいて書かれた小説なども参考にしているかもしれない。
 現実の出来事として考えるとここに登場している女性教師は日教組などの左翼的な見解の持ち主としてもデフォルメされすぎていて、リアリティーがないなどの批判もあるようだが、彼女の行為自体は文化大革命の際の毛沢東の戯画として取ることも可能だ。「悪霊」に登場する破滅に向かい突き進んでいく革命家たちに準えることもできそうだ。
 そして、むしろここからがホエイ「スマートコミュニティアンドメンタルヘルスケア」のもっともビビッドな現代的な意味なのだが、閉ざされた集団が狂気にかられた指導者の下で破滅に向けて突き進むという構図はもっと身近ないろんな集団において毎日のように起こっていることの縮図でもあるのだ。それは破綻寸前のブラック企業であるかもしれず、最近話題の日本大学日本ボクシング協会も類似なことが起こっていたのではないかと思わせる。さらに卑近な例を考えると活動が破綻に窮している劇団の中にもそういうところがあるのかもしれない。そうした実例がそれぞれの層で重なりあって受容できるのがこの舞台の魅力だ。

蠅の王〔新訳版〕 (ハヤカワepi文庫)

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悪霊 (下巻) (新潮文庫)

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*1:<タヌキ憑き殺人事件>熊本県芦北郡で、3月中旬から精神状態がおかしくなった長男を母親が祈祷師に見せたところ、「タヌキが憑いている」と言われた。母は体調を崩し、姉2人が看病に来るようになった。1979年5月6日、長男が家を飛び出そうとしたため、父、姉2人、弟が話し合い、タヌキを追い払うために叩き出そうした。弟が長男の体を押さえ、父、姉二人が手や薪、パイプなどで約3時間、長男の首の後や肩を殴りつけ、長男は死亡した。同町ではタヌキや狐などが人に乗り移る“つきもの”の俗信が一部に残っていた