下北沢通信

中西理の下北沢通信

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山下残(演劇計画2008)「It is written there」@京都芸術センター

山下残(演劇計画2008)「It is written there」(京都芸術センター)を観劇。

 出演
 荒木瑞穂  今貂子  西嶋明子  福留麻里  森下真樹
 構成・振付・演出/山下残
 ブックデザイン/納谷衣美
 舞台監督/浜村修司
 舞台美術/西田聖
 照明/三浦あさ子
 音響/宮田充規
 衣裳/山下莉枝
 宣伝美術/木村三晴
 制作/上田千尋

 来場者全員に100ページにおよぶ冊子が配布され、観客はそれを1枚1枚めくりながら作品が進行していく。2002年にアイホールで上演された「そこに書いてある」を新キャストによりリメイクしたのが、「It is written there」である。山下残は「言葉」で構成されるダンスのテクストを追求し、「言葉」と「ダンス」の新たな関係性を模索してきた。その実験の結果がいずれもアイホールの“Take a chance project”で上演された三部作(「そこに書いてある」「透明人間」「せき」)なのだが、なかでもそうした作風の原点とでもいえそうなのが「そこに書いてある」であった。
 この作品は冊子(書かれた言葉)から動き(=ダンス)が立ち上がっていく、それを過程も含めて見せてしまおうというもので、ダンサーは舞台上で冊子のなかに書かれていることを身体を使って表現していく。舞台上に登場した男(荒木瑞穂)の指示で私たちは分厚い冊子の表紙をめくるが最初のページは右上の隅に小さく「99」の数字が記されただけの白紙だ。もう一枚めくると次は同様に「98」の数字だけが記されている。同じ作業を繰り返し、「95」まで来ると今度は大きな文字で「まもなく開演 We will start soon.」の文字が日本語・英語対訳の形で記されており、「94」は再び白紙。しばらく、白紙が続いた後に「90」で「準備OK We are ready.」となり「89」の「開演 START」で舞台は始まる。最初、しばらく「トンネル tunnel」「橋 bridge」「揺れる shake」「倒れる fall down」「船 ship」「大洪水 ship」など単語の羅列が続き、それぞれの場面について例えば「トンネル tunnel」では大きく足を左右に広げたパフォーマーが正面を向いて立って、2本の足の股間によってトンネル状の形を作る、というようにそれぞれの提示された言葉と対応する動きないしポーズを舞台上で見せていく。
 最初に仮に「動き(=ダンス)」と書いたが、この作品におけるパフォーマーの身体運動ないし表現を「ダンス」と名づけるべきかどうかには若干の留保が必要かもしれない。というのはここに冊子の形式で我々の眼前に提示された「言語(=テクスト)」とパフォーマーの動きの関係は作品の冒頭からかなりの間、「一対一」対応が検証可能ないわゆる「あてぶり」の形をとることが多いからだ。
 この「It is written there」という作品のもくろみは今回これがダンスフェスティバルではなく「演劇計画2007」という演劇関連の企画の一部として上演されたことでいっそうその意味合いを増した気がする。というのは最初の「一対一」対応の部分を見てまず考えたのは「これは演劇ではないのか」ということだった。山下残は世間一般にコンテンポラリーダンスのダンサー・振付家と目されており、それゆえ、その創作物たる作品はダンス作品、しかも少し毛色の変わったダンス作品として受け入れられてきた。しかし、例えば今回の「It is written there」のように言語テクストすなわち脚本とそれを具現化する俳優の身体所作の交差する点において成立する表現こそ「演劇」と呼ばれるのではなかったか。このようにいままで自明のものと思われていた「演劇」「ダンス」「言語」「テキスト」の関係に再度の問い直し、問題提起を行うのが山下特有の戦略なのである。
 最初の単純な「一対一」対応はむしろこの作品内部の規則のようなものをまず提示することで、観客と作り手の間である種の共犯関係を成立させることの意味合いが強い。その後、テキストは「馬があばれる 魚がおぼれる 鳥が落ちる 牛が立てなくなる 足を喰う犬」「逃げろ 逃げろ こっちだ とっちだ ギター サックス ドラム ラグビー がんばる がんばる むちゃくちゃ がんばる」とシュールな詩のような短い文章になったり、「→」「←」のようなただの記号、再び今度はひとつのページに「キス」「エビさがり」「水泳」「片足で三拍子」「後ろ向いて三拍子」「床そうじ」と複数の単語、短文の羅列、「夏の夜、花火を見てる」という表題とそれにかかわる一連の会話……パターンを変化させながら様々な形態のテキストがサンプリング・コラージュのように提示されていく。
重要なのはこの公演に持ち込まれた分厚い冊子のページを自らの手でめくって「そこに書いている」ことを「読む」という仕掛けだ。言語テクストは読まれた後、読んだ人の脳裏にある「イメージ」を結ばせるが、その後、その「イメージ」を抱いたまま観客は再び舞台に目をやりそこで起こっていることを脳内の「イメージ」と照らしあわせて、鑑賞することになる。実はこのタイムラグと順序が重要なのである。通常のダンス作品と違うのは感情移入がしやすいムーブメントを切断、一種の異化効果をそこにもたらすことで「意味性」と「ビジュアル」の比較による批評性のようなものを絶えずして作品のなかに導入し続ける。
その結果、私たちはいくつかのことに気づきはじめる。絶えざる言語テキストとの参照において、「動き」と「言語テキスト」の距離はたえず揺らぎ続けるが、ひょっとしたらそのイメージからの一瞬の飛翔、あるいはその揺らぎそのものがダンスなのではないかということ。あるいは「単語」「短文」に当たるような短い動きのパッセージを元々の「一対一」対応の対応とは切り離された文脈で自由に切り離し、つなげるという作業を行うとそこからあたかもダンスといっておかしくないようなムーブメントが生成するということ。
 発条トの森下真樹とほうほう堂の福留麻里の2人がジョン・レノンの名曲「MOTHER」に合わせて踊るデュオがさりげなくこの作品のなかには挿入されている。それは山下のダンス作品「Family」(1995)からの引用であり、やはり、「うしろから走ってきてエビぞりジャンプでひっくり返る」「ひざ押す4回」「ええかげんにせい8回」「ひげダンス」「サッカー」「ボウリング」……と言語テクストのサンプルから創出される動きの連鎖からなっているが、音楽とのコラージュで思わずグッときてしまう力も生み出す。改めて「ダンスとはなにか」と考えさせられてしまうのだ。

[山下残 3月1日京都芸術センター]

(なかにし・おさむ/演劇・舞踊評論)