エジンバラ演劇祭は本来、演劇(特にコメディーショー)を中心にしたフェスティバルでアビニョン演劇祭などと比較したときにはダンスのプログラムにはそれほど強くない。そういうなかでDANCEBASEとAURORA NOVA FESTIVALが開催されているSt.Stephenはレベルの高いダンスやフィジカルシアターを見ることができる貴重なプログラムを提供している。
今回はまずスコットランドのナショナルダンスセンターの役割を果たしているDANCEBASEについて紹介してみたい。DANCEBASEはエジンバラ城のすぐ下*1グラスマーケット通りにある施設である。複数のダンススタジオを備えていて、通常は各種のダンスクラス(コンテンポラリーからバレエ、ヒップホップまで幅広い)が常時開講されていて、稽古場的な施設として使われている。東京でいえばセゾン文化財団の森下スタジオ、関西で言えば京都芸術センターのような場所が常時ダンス専門として使われている、と考えてもらえばわかりやすい。このフェスティバルのシーズンだけはスタジオのうちのひとつが小劇場となり、そこで独自企画したプログラムが朝から晩まで上演されるのだ。
今回観劇することができたのはRosie Kay Dance Theatre「The Wild Party」と3つのガラ形式のプログラム(「SHOW1」「SHOW1」「SHOW1」)。
「The Wild Party」は女2人、男2人、生演奏のモダンジャズバンド(ドラム、ベース、キーボード奏者の3人)による構成。冒頭でいきなり派手な色合いの服装を着たエキセントリックな女性が登場。客席にむかってなにやら叫んでみせる。観客としては「困った人がでてきたな」という感じなのだが、引き続き2人の男性ダンサーが登場(1人はスキンヘッドでマッチョ系、もうひとりは背広でしっかりと決めた典型的な二枚目)。その後で舞台の上手奥でなにかが倒れるような大きな音とともに日本語には訳しにくいような猥褻語を叫んで、真打登場とばかりにきわどい衣装(白のオール・イン・ワンの下着の上にすけすけの布のピンクのシャツ)をはおった女性が出て来る。4人とも(特に女性2人は)実生活であったらやばそうで絶対に係わり合いになりたくないような人間に見えるのだが、これはもちろん演技で普段はそんな風体とは似ても似つかぬ女性なんだろう(と思う、というかそう信じたい)。
「The Wild Party」ではこの4人の登場人物が文字通りWild Party(乱痴気騒ぎ)を引き起こす一夜の出来事のことが描かれるのだが、4人のパフォーマーはのべつ幕なしにセリフをしゃべり続けているし、ダンスを誰かが踊っている横でその踊っている人物についての紹介をナレーション風にほかのパフォーマーが入れたりと、演劇的な要素が非常に強い作品なのである。
ダンスの要素も各所に挿入はされていて、そこでのムーブメント自体は暴力的でアクロバティックなリフトとか、様々な形態でのコンタクトなどコンテンポラリーダンスの生み出した動きが取り入れられてはいるのだが、舞台はあくまでも演劇的なナラティブ(物語)によって支配されている。例えばセックスを連想させるような動きが男女ペアによるコンタクトによって表現されるなど、身体言語は強い意味性をはらんで、物語に奉仕するような構造となっている。
ダンスムーブメントの独自性はあまり感じられない。その分、分かりやすいし、大衆性を持っているともいえるが、それでいてきわどいセックス描写など扱う対象は過激。ブロードウェーミュージカルとははっきり異なる主題に対する構え方が感じられ、そのあたりが面白い。
少なくともこの作品はドイツ、フランス、ベルギーなど欧州大陸系のコンテンポラリーダンスとははっきり違うし、アメリカのモダンダンスとも違う。もっとも、当日配られたパンフやウェブでの紹介文を読んでもダンスという表現はあっても、コンテンポラリーダンスとはいっさい書いてないのでこのような作品が英国においてコンテンポラリーダンスと見なされるのかどうかというのはよく分からない。エジンバラ演劇フェスティバルで見た作品にはけっこうこれと同種に思われる表現があって、そのことが英国のダンスの方向性をうかがせる意味で興味深かった。
3つのガラ(ミックス)プログラムのなかでは「SHOW3」が充実した内容だった。Jem Treaysによるソロ「Walkie Talkie」。これは文句なく面白かった。これまで何年間かFESTIVAL Fringeで見たダンス作品のなかでもToni Mira(NATS NUS DANSA)の最初に見た作品や「Pandra88」に迫るアイデアかもしれない。リアルタイムに音響も加工して操る音響デザイナーとのコラボレーションで、詳しいやりかたは分からないのだが、舞台上に配置された金属板やダンサーの身体に据え付けられたマイクから音を拾い、そこで拾った音をリアルタイムに加工して作った擬音のような音に合わせてダンスが踊られる。
それだけじゃ分からないと思うので、具体的な説明をするとダンサーのJem Treaysはラフな格好をした陽気なにーちゃんのような雰囲気で舞台に登場して、踊りながら手拍子をして、観客にもそれをするように強要してしばらく元気に踊るのだが、なにか急に疲れたようになってきて、観客も当惑して手拍子もやみ、ダンスも止まる。そして、しばらくすると咳き込みはじめるのだが、そうするとこの咳がどこかに仕込まれたマイクで拾われ、増幅されてでてきて、その音に舞台上のダンサーも反応する。
このJem Treaysというダンサーはダンサーである以前にエンターティナーとして卓越していて、こうした仕掛けられた音との掛け合いや場合によっては観客にも働きかけて、その反応を自分のダンスにフィードバックさせてみせるように舞台の雰囲気を自由自在に操る能力を持っている。日本のダンサーでいえばショーマンシップにおいては近藤良平や関西のヤザキタケシを彷彿とさせるところがあり、見ているうちに近藤やヤザキをここに送り込んで対決させてみたくなった(笑い)。
2番目に見たJanis Claxton「Blue」にはJem Treaysとは違う意味で驚かされた。実はこの人にはこの日の公演の合間に短い時間ではあったけれど少し会話を交わして、その時の印象では普通のおとなしいおねーさんという印象だったのだが、舞台で見ると最初に登場した時から表情といい、雰囲気といい先ほどロビーで見た人とはまったくの別人に見えた。説明が難しいけれど、すごい存在感なのだ。このギャップにまずおどろかされた。ダンスもただ踊るというだけではなくて、ちょっとした表情の変化などで舞台の雰囲気を一変させてしまう。そういうダンスアクトレスとしての稀有な能力を持ったパフォーマーなのである。この人は振付家というよりはダンサーあるいは演技者であって、言葉は悪いけれど、この作品の構成・振付そのものは同じ振付でほかのダンサーが踊ったとしてもたぶん面白いとはいえないだろうと思われる類のものなのだが、それでも彼女がそれを踊ると「ドキッ」とさせられるスリリングな瞬間が何度もあり、陳腐な表現になるが、女性のオソロシさが痛感させられるようなコワイ作品でもあった
3番目の「To Have and To Hold}by Norman Douglas & Co Vier Starke Frauen (Four Strong Women)はちょっと不可思議な作品だった。ダンスとしては4人の女性のダンサーが登場して、いかにもコンテンポラリーダンス的なムーブメントで踊るシークエンスが挿入され、ここの部分はテイストとしてはなかなかお洒落なダンスなのだが、このシーンがなぜかこの作品では入れ子のように劇中ダンスの構造になっていて、その外側では怪しげな髭をはやして、ラテンなまりの英語をしゃべる南米の高級娼館の主人に扮したNorman Douglasが登場して、「うちにはいい子がいっぱいいいるよ」みたいな調子で客引きのようなことをやる場面から舞台ははじまる。
不可思議と書いたのはこの純ダンス部分のクオリティーはダンサー、振付ともに高く、これだけでも勝負できるものであるのにもかかわらず、どうしてかそういうお色気ショー的な枠組みが外側についていて、それゆえダンサーはダンスを踊るだけではなくて、それぞれがひとりづつ登場して、観客に対して「飾り窓の女」のように媚態を示したりする。つまり、ダンスの場面はそこでやられているショーめいたものの一部というような設定になっているのだ。性の商品化に対する批判とか、パロディとしてあえてそういうことをやるというのならまだ理解できぬこともないのだが、舞台を見た印象はそうではなかった。演劇的な趣向で行うお色気ショーにまるでアリバイのように「コンテンポラリーダンス」が入っているという印象さえある。だからこそ観光客中心のエジンバラの観客には受けていたし、私も十分に楽しみはしたが、作品全体のテイストにはフェミニズム論者が見たら真っ先に糾弾の対象になりそうな扇情的なショーの匂いもして、だからこそ「いったいこれはなんなんだろう。これでいいんだろうか」と考え込んでしまったのだ。
演劇的要素の強さは別のプログラムで上演された「Certain Shadows on the Wall」からも感じられた。男女2人によるデュオ。机を間にして2人の男女が向かい合って椅子にすわっていて、それがしだいに相手の領域を侵犯、後退ということを繰り返しながら激しくあい争う。デュオである種の関係性を見せていくダンスとして、CRUSTACEA(濱谷由美子)や最近のMonochrome Circus(坂本公成)の作品を想起させるようなところがあった。ただ、大きな違いは表現が非常に具象的なことで、パンフに「ヴァージニア・ウルフなんかこわくない」をモチーフにした、と書いてあるのを見ると男女の葛藤を主題としたこの作品はダンス本来の抽象性への飛翔というようなことがかけらもなく、なんと分かりやすい作品を作る人たちだという印象なのだ。
ダンサーとしての身体能力は2人ともきわめて高く、動き自体はヴィム・ヴァンケイビュス(ウルティマ・ヴェス)を彷彿とさせるような鋭い暴力的な動きではあるけれど、やってることといえばマイムではないけれどもまったくの具象なのだ。ちなみにこれもフェスティバルに来ていた観光客中心と思われる客層にはこの作品はものすごく受けていたけれど「これでいいのか」という疑問の念が拭いされないものがあった。
DANSEBASEの特徴はコンテンポラリーダンスの拠点というわけではなくて、ダンス全体の拠点だということにもある。もちろん、英国系の現代ダンス作品を紹介するというのがこの施設の大きな役割ではあるのだけれど、民族舞踊的な要素の強い海外のカンパニーの作品やヒップホップ、あるいは本来の英国ダンスの中心であるバレエなども一緒に紹介されているのが面白いところだ。
Iskandar Dance Coはエジプトのカンパニー。その作品「El Saqiyeh」はエジプト舞踊とコンテンポラリーダンスのアマルガムであった。エジプト舞踊は旋回する。それが第一印象。衣装のすそを翻して、3人のダンサーが「これでもか」というぐらいにクルクルと回った。パンフのこの作品についての文章を読んでみるとthe Water Mill(水車)をイメージしたものだと書いてあったので、ひょっとするとエジプト舞踊自体が主要な要素として旋回するのではないのかもしれないのだが、とにかく、この作品では特に後半部分ではくるくる回り続ける。見ながら少しKATHYや枇杷系のユン・ミョンヒのやはり旋回するダンスのことも思い浮かべたりしたのだが、この作品を見ていると「旋回するダンス」のルーツはあるんだろうか、あるとすればどこなんだろうかと考えさせられた。
そこで少しネット検索で調べてみたところ、トルコにスーフィーと呼ばれるイスラム神秘主義にかかわる旋回舞踊が存在するのは有名なのようだが、同種の旋回舞踊はどうやらエジプトにも存在する*2ようなのである。ユン・ミョンヒの例を出したが、韓国の伝統舞踊にも同じく旋回の動きがあるようだ。
一方、「The Sound of Silence (extract)」(SHOW2)はインドのコンテンポラリーダンスカンパニーSamudraによる作品である。インド舞踊というと女性のダンサーによる首や両手をくねくねとさせて踊るというイメージがあったのだが、これはいずれも男性ダンサーによるデュオ。男性と女性の差があるのか、それとも地域の差か明確ではないが、格闘技のような動きとコンテンポラリーダンスの動きをミクスチャーさせたような動きのダンスでこれは見ていてなかなか面白かった。「SHOW1」で見たエジプトのダンスとかこのインドのダンスなどが、非西洋の地域の人たちがコンテンポラリーダンスを創作する際の雛形のようになっていた。
そういうなかで日本のダンスのアプローチだけがよくも悪くも異なっているのが面白いと思っているのだが、逆に言えば例えば本来日本の伝統舞踊となんのつながりもない舞踏も西洋の目から見ると似たようなもの誤解して受け取られているふしさえあり、日本のダンスを海外に紹介することの難しさをあらためて感じた。おかしな話になるが、この人たちはインドの伝統的な衣装をアレンジしたものか、フンドシではないけれど似たような風に見える赤いパンツだけを衣装につけて踊っていて、身体表現サークルを思い出してしまったのだが、身体的なコントロールの技術というようなテクニック的なことをいいだせば民族舞踊出身でそれぞれなんらかの身体訓練によって鍛えられていることが明確に分かる。つまり、身体表現サークルが英国で公演するとすれば向こうの人たちからすればあのフンドシ姿は確実に伝統的なものとのつながりをイメージするので、例えば本来出自自体がまったく違うのに間違って同じ土俵で比べられれば「民族舞踊のようなものを踊るただの踊りの下手な人たち」と見えてしまっても仕方ないかもしれない、ということだ。
この人たちに話を戻すと彼らの動きはバレエやモダンダンスのような洗練された動きというよりは荒々しさを感じさせるものだ。それでもそこには相当以上の技量があり、独自のテクニックにより、その動きが体現されているということが一目瞭然で分かる。これは技術の存在があいまいであるコンテンポラリーダンスにおいて重要なことではないかと思った。コンテンポラリーダンスにおいてそれがクリシェに陥らないようにするためには既存のテクニックを周到に排除していくという戦略は有効ではあるが、その場合でも既存のテクニックでない独自の技術をその過程において同時に獲得、蓄積していくことも排除と同様に重要である、と考えた。
「Vinyl Lino」はFreshmessというHipHopグループによる作品であった。HipHopを取り入れたコンテンポラリーダンス(フランス流によるイポップ)ではなくて、これは明らかにHipHopのダンス作品だった。ただ、HipHopによくある超絶技巧を誇示して見せるというものではなくて、まず、最初に男女2人が登場して、床にダンスフロアとなるリノリウムの布(というか板というか)を張りはじめるのだが、ここの部分からもうすでにちゃんと演出が入った作品の一部になっているところなどでも分かるようにはっきりと作品志向であるところが面白いと思った。
振付も少し太めの女性が現れて、踊りそうに見えないのだけど、これが一度踊りだすと意外と敏捷に動けて激しく踊りまくるとか、たぶんそれほどダンス自体はうまくないのだけれどキュートな感じの女の子とか、それとは対照的な美人系ダンサーとか、それぞれのダンサーの個性を生かしてパフォーマーそれぞれの顔が見えてくるようなのが楽しい。
ただ、「超絶技巧を誇示して見せるというものではなくて」と書いたが、ここのところはもう少し正確に書けば「見せない」と「見せられない」の中間あたりかもしれない(笑い)。相対的に見ればこのカンパニーのダンサーは単純にHipHopダンサーとしての技量はそんなに高くないかもしれない。全員がとはいわないが、1人か2人、爆発的な技量を見せられるダンサーがいて、短い時間でもそれを見せられればもう少し上のレベルにいけるのにと惜しくもなった。
「Beyond Prejudice」はロイヤルバレエの気鋭の若手ダンサー(原文にはrising starとある)Jonathan Watkinsの振付デビュー作。DANSEBASEはコンテンポラリーダンスの拠点というだけでなく、スコットランドのダンス全体のセンター的役割を果たす施設なのでこういう作品も出てくる。踊るのはロイヤルのダンサーではないが、これはどう考えてもバレエだな、とまず思う。ポワントの技法こそつかわないが、大劇場のバレエ公演の1演目として舞台に載ってもまったく違和感のない作品で、バレエのショートピースとしてはそこそこよくできているといえなくもないが、まだ振付としてどうこういうレベルにもないとも同時に思う。DANSEBASEがそういう施設だということもあるのではあろうが、英国ではやはりダンスの中心はバレエでコンテンポラリーダンスもバレエとの距離が近い。個人的にはこういう小劇場で現代バレエの作品が上演されるのを見る機会は少ないので、こういう状況は面白いと思った。
そのほかの作品も落穂ひろい的に簡単に紹介すると「It’s about time」 by Karl Jay-Lewin & Coは女性ダンサー2人によるデュオ作品。前半がほぼ「走り・歩く」だけのミニマルな要素によって構成されていて、そこが結構面白く、途中でひょっとしたら全編それで通すのではと期待させる(笑い)のだが、やはりそこまでラジカルな作品というわけではなく、踊ってしまうのであった。ただ、踊るとはいってもいわゆる「踊り」というような感じの動きを見せるわけではないが、それでもゆるやかにひとつの「ポーズ」から別の「ポーズ」に移行していくような「踊り」で、バレエやモダンダンスのテクニックは見せない。と思って経歴を呼んでみるとHis work is influensed by going study of post-modern danceと書いてある。この作品を見て正直言ってそんなに面白いという風には思わなかったのだけれど、こういう作品を見てみると最近の日本(特に東京)の踊らないダンスが欧米の人の目には「post-modern danceの一変種」に見えるというのは分からないでもない気がした。主題はよくは分からないが後半に鳥の鳴き声のようなサウンドトラックが入って、それに合わせて恐竜のような仕草をしたり、それがしだいに鳥のような動きに変わっていくようなところは悠久の時間と進化がモチーフなのかもと思わせるところがあった。
「Unbounded」はMichael Popperという男性のソロダンス。女性のチェリストも舞台上に登場して、彼女の演奏するJodith Rimerという作曲家の「Unlocked」という曲に合わせてステージは進行する。Michael Popperは黒いショートパンツだけの裸体に近い格好で、その裸体を誇示するように踊るのだが、その身体というのが筋肉のつくる細かな線が身体中から浮き出してきていて、まるでギリシャ彫刻か人体標本みたい(上の写真の左下)。ダンスの動きもその肉体美を誇示するようなポーズ(静止)とポーズの間を動きで埋めていくというもの。太ったうえにまったく鍛えていない肉体を持つ身にはどう考えてもナルシスティックな匂いが鼻について「どうしたもんなんだろうな。これは」と困ったものを見せ付けられている感がぬぐえないのだが……もちろん、これも一種の肉体美には違いないので女性の目からみたらまた違うのかもしれないが私の目には正直気持ち悪いのであった(笑い)。
*1:写真上の巨大な崖のような岩山の上に聳え立っているのがエジンバラ城、その下がDANCEBASE
*2:http://www.geocities.jp/IraqNewsJapan/Japan-Arab/arab_night/03.html