下北沢通信

中西理の下北沢通信

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■松尾スズキ的主題を平田オリザ的手法で描くポツドール

 中西 理<演劇コラムニスト>

 今もっとも刺激的な演劇を見せてくれるのはチェルフィッチュポツドール、と昨年から飽きるほどいろんなところで言ってきたが、ポツドールの新作「愛の渦」(作演出・三浦大輔)もそうした期待にたがわぬ好舞台であった。
 「愛の渦」で取り上げられたのは見知らぬ男女がそこに集まってきて、乱交パーティーをする場所を会員制クラブとして提供する風俗店の一夜の出来事だ。ここでは風俗店を舞台にセックスを前提とした場を選択することで、それ以外の各自の背景が意図的に捨象され性の欲望に支配された性的動物としての人間を赤裸々に描きうる状況が提供される。
 これは本来は複雑な関係性をフラットなものに還元するという意味で安易とも見えかねない危険性も含んでいるが、三浦が巧妙なのはこういう状況においても人間が優れて関係的な生き物で性欲だけで生きているわけではないということをきわめて冷徹な筆致で提示していくところだ。平田オリザの演劇について「あたかも動物を観察するかのようにある空間で登場人物に起こる出来事を観察させるような演劇」と書いたことがあったがこの芝居も作演出の三浦と舞台の間の俯瞰的な距離感に同じような印象が感じられる。その意味で三浦は平田の正統的な後継者とみなすことが可能かもしれない。
 それが一番よく現れるのは途中で会話が途切れてきまずい雰囲気が漂いだした時に登場人物がそれぞれの職業とか出身地を聞き始める余計にきまずくなってしまう場面。もうひとつは後半の登場人物それぞれの本音が爆発して、一触即発になりそうなところで、そこではこういうフラットな関係にも登場人物にはそれぞれの思惑があって、この場がけっして、性のユートピアではありえないということが冷徹に明らかにされていく。
 こういう直視がはばかれるような人間性の嫌な部分をかなりの部分、舞台上で提示してしまうのが、三浦のひとつの持ち味で、これまでの舞台では舞台上で実際に男性が女性に暴力をふるうようなところもかなりリアルな演出でやってしまうところにある種の珍しさがあった。
 だが、いくら性を主題にしていても舞台上で実際のセックスを見せるわけにはいかないわけで、この舞台では階段の上の部屋が実際に事を行う部屋として設定されていて、そこからはかなりリアルなあえぎ声とかが聞こえてきたりするのだが、観客のだれひとりとして、そこで実際に事が行われていると考える人はないだろうし、リアル追求といってもそれは演劇である限りは嘘がいかにリアルに見えるのかが問題なのは言うまでもない。そこには明らかに平田と同じ問題意識が感じられる。
 90年代に登場して三浦と同様に性的欲望を自らの主題としてきた劇作家に大人計画松尾スズキがいる。哲学者ニーチェの語彙を引用して、アポロン的側面の強い関係性の演劇(平田オリザに代表される)に対し、松尾の劇世界はディオニッソス的と表現したこ
とが以前にあった。松尾はこの人間の欲望により支配された世界をある種の神話的な世界を構築することで描き出した。
 これまで便宜上、三浦を平田の後継者として描写してきたが、そういう見地からすれば三浦には松尾の後継者的部分もある。例えば「激情」という舞台には、その舞台設定や世界観から松尾スズキの「マシーン日記」などを彷彿とさせるところがあった。
 今回の「愛の渦」はそういう意味からすれば描かれている世界や描き出す手法は違うのだが、誤解をおそれずに言えば、ポツドール三浦大輔はディオニッソス(=松尾スズキ)的な主題(モチーフ)をアポロン(=平田オリザ)的な方法論で構築していく、
という言い方もできるかもしれない。
 松尾スズキ平田オリザも演劇において刺激的な実験を行ってきたという意味では好きな作家だが、最近の作品には舞台自体のクオリティーという意味ではなく、方法論的実験性という意味では物足りない思いがある。だからこそ、松尾や平田が90年代に行ってきた実験を踏まえて、三浦がある意味そうした前提を出発点として、今後どのような演劇的地平を開いていくのか。そこに今後も注目していきたいのである。


P.A.N.通信 Vol.57掲載