三浦大輔(ポツドール)作・演出「裏切りの街」@森ノ宮ピロティホール
ネット上での短評感想などでも評価が真っ二つに分かれているようなので、どういうことかなと思いながら観劇したが見終わってみて納得である。それだけに割り切るのは単純すぎるが、ポツドール作品を何度も見ているコアのファンはマイナス評価、通常の演劇ファンはプラス評価をつけていることが多いようで、つまり、舞台としては非常によくできていて面白く見られた。しかし、ポツドールの本公演が持っているような過激さというのはこの舞台にはあまりなくて、そういう意味ではパルコ劇場という中劇場の舞台として収まりのよいものとなっていた。
結婚して夫がいる女(秋山奈津子)とやはりこちらも恋人と同棲し、しかも失業中でひも状態の若い男(田中圭)によるなんともさえない不倫の顛末を描いた物語。この2人、特に男の情けなさの描写が抜群でいろんな意味で思わず笑ってしまう。
群像会話劇における同時多発の進行というのは平田オリザが多用し始めて知られるようになった手法ではあるが、三浦大輔はそれを方法論的により進化させた形で展開していく。この「裏切りの街」には舞台上に上手奥に若い男のアパートの部屋、下手の階上の2階の部分に主婦が住むマンションの部屋があるのだが、双方が回り舞台になって、舞台上に登場したり、見えなくなったりする。
どちらか片方だけが見える時には通常に物語が展開していくが、時折、2つの部屋は左右に同時に出現。ここで同時多発的に2つの会話劇ないし会話以外の劇(性行為など)が展開し、それが微妙にシンクロさせたり、離れた両方の部屋を結ぶ電話やメールといった通常の「会話体」以外のコミュニケーションを会話劇と共存させることで、三浦の物語は緻密かつ複雑な登場人物の関係性を描写していく。
このなかで田中圭が演じる引きこもり寸前となっているフリーターの描写力には迫真のリアルさがあって、そのリアルさはそれぞれ微妙にタイプの違う若者を登場させてはいるが、チェルフィッチュの岡田利規、五反田団の前田司郎と互いに相譲らぬものがあると感じた。しかし、今回この「裏切りの街」を見て感じたのはそういう若者の年齢層から外れた人物を登場させる時に岡田、前田は急速にそのリアル感を喪失するのに対して、三浦は案外そうではないということだ。
岡田、前田がその舞台において自分と同世代以下の若者の身体性を特権化するきらいがあるのに対して、三浦は中年のそれはそれ、若者のそれはそれとそれぞれの身体のあり方を特徴をデフォルメ・拡大して抽出しながら、それぞれ異なるものとして書き分け、相対化して同時に舞台に乗せている。つまり、ここでは秋山菜津子、松尾スズキの中年の身体ならびにそのだらしなさが田中圭の若者特有のだらしなさと対比されながらも書き分けられて同時に提示されている。このことが現代口語演劇における三浦の方法論の予想以上の広がりを示しており、それが興味深い。
三浦大輔インタビュー