下北沢通信

中西理の下北沢通信

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関係性の演劇とはなにか 

 これまでの演劇批評の文脈では日本の現代演劇を分析的に取り上げるとき、演劇史のうえから新劇、アングラ劇、小劇場などその発生の系譜をたどって考える傾向が強かった。
 ところが、こと90年以降、あるいはもう少しさかのぼっても、80年代後半以降の日本現代演劇を俯瞰的にとらえようと考えた場合、こうした方法論が有効でなくなっているという現実があるのではないだろうか。ここ何年かのリアリズムの回帰を巡る一連の論争や最近の「静かな劇」を巡る議論などをみても、これまで、批評言語として使われてきたこれらの言説が今や無効なための混乱が、あちらこちらで顔をだし、それが一層議論の混迷を深めているような気がしてならない。多様な日本の現代演劇を捉えるには歴史的(通時的)に影響関係を捉えるのみでなく、歴史的な文脈を一度白紙にもどして、共時的に作品構造の分析そのものから、演劇の系譜をとらえなおさねばならないのではないかと考えている。これはそのための試論である。
まず今までの演劇の系譜論から離れて現代演劇を捉え直すために「関係性の演劇」という概念を提唱したい。「静かな演劇」の流行とか、演劇におけるリアリズムの復権とかいろいろな形で語られており、しかもその評価が分かれているある種の演劇のカテゴリーをこの「関係性」という概念で括れるのではないかと思うからである。
関係性の演劇とは演劇作品のなかで、主に登場人物、あるいは登場する人物の集団の間の関係を提示することで、関係の総体としてのこの世界を描いていこうという演劇の手法である。ここで「関係性」あるいは「関係」という言葉が含有する思想的な背景に触れなければならない。関係という概念は現代思想の重要なターム、実体に対する対立概念である。近代の思想は主体や自意識といったものをある種の実体と考え、重きを置いた。これに対して構造主義現象学といった現代思想の特色はものごとの関る関係に重点を置いて物事を考える。関係がすべてであり、他者との関係なくして孤立した実体などありえないという考え方である。この世の中のことはすべて、他のこととの関係において我々の前の立ち現れる。これが、関係性の演劇の認識論的前提である。
これだけで、この種の演劇が、いわゆる「内面を持つ個人」というものを前提にした新劇的な演劇観とは全く異なるものであることが、はっきりと理解できるであろう。19世紀のロシアに生まれたスタニスラフスキーのシステムは当然ながら、この「内面を持つ個人」という人間観を前提にしたものとならざるをえない。日本の新劇もいかに遠いその末裔であろうと、「内面を持つ個人」を描くという前提は動かせない。
では、関係性の演劇においてはなにが描かれるのか。ここで描かれるのは例えば登場人物の間の関係、登場人物とある種の共同体との関係である。関係の網の目ような描写から、直接、描かれることなくして、浮かび上がってくる結節点のようなもの、これが個人という風にして捉えられてきた人間というものの姿であり、これと離れた個人などというものは幻想にすぎない。これが、関係性の演劇の前提である。
 では具体的に「関係性の演劇」というのは、どんな作品があるのか。平田オリザ岩松了宮沢章夫と挙げていくと、そうか「静かな劇」のことをいっているのかととられかねないので、ここでは思い切ってまずベケットの「ゴドーを待ちながら」を取り上げて具体的に説明を始めることにしたい。
ベケットの書いたこの物語については、不条理劇の傑作として日本でも様々な形態で演出、上演されているし、この作品に啓発を受けた作品も枚挙にいとまがない。だが、これは実は「関係性の演劇」としての構造を持っているのだ。この物語の主要な登場人物はエストラゴンとウラジミールという二人の人物であり、この二人がゴドーというこの物語には登場しない人物を待ち続けている。ここで観客の前に与えられる構造はこれだけである。この物語の核心はこの三人の関係の中にあり、全てがそれだけに収れんする。
 エストラゴンとウラジミールがどういう人物なのかはこの物語のなかでは読み取れない。舞台の上では二人の対話が延々と繰り返されるが、それによって二人の素性が明らかになってくるということもない。むしろ、浮かび上がってくるのは鏡像のような関係の二人と二人が待ち続けて、そして舞台にはついに現れないゴドーという人物との関係の三角形なのである。だから、この芝居においてはエストラゴンにもウラジミールにも関係の三角形の一辺という以上の内実はない。これは独立した存在なのでなく、構造を浮かび上がらせるための仕掛けであるからだ。そういうわけで、エストラゴンにもウラジミールにも「個人としての内面」など存在しない。これが私が考える「関係性の演劇」の特質である。
 さて、現代の日本演劇に話をもどそう。まず、話を分かりやすくするために平田オリザを取り上げることにする。平田の演劇はゴドーなどに比べると具体的な描写をともなって形成されている。それゆえ、伝統的なリアリズム演劇と一見近い感じを受ける。

「現代日本演劇・ダンスの系譜vol.3 青年団http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000227