下北沢通信

中西理の下北沢通信

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弘前劇場「職員室 5:15P.M.」

弘前劇場「職員室 5:15P.M.」(1月12日、アイホール)は長谷川の代表作となっている「職員室の午後」同様に弘前を思わせる地方の高校の職員室が描かれた。舞台こそ変わらないが、学校現場の昨今の危機的状況を反映して今回の新作は「人間が分かりあえること(コミュニケーション)/分かりあえないこと(ディスコミュニケーション)」という深刻な主題に向かってよりシャープにフォーカスされたものとなった。
 この主題は芝居の最後に置かれた対照的な2つのシーン。7年間自室から出てこなかった引きこもりの青年が突然学校に現れて教師と対決する場面とタイから来た青年と引きこもり青年の妹である少女との訥々とした対話の場面に向けて収斂していく。しかし、ところどころに伏線を張りながらも、物語の構造はこの主題に向かって直線的に進んでいくのではないのが長谷川の作る劇世界の特徴である。
 そこで交わされる会話も知的な企みに満ちたもので、それが速射砲のように交差することで日常的な会話の体を装ってはいるが、リアルな日常会話などとはほど遠い。現代美術、70年代はじめの風俗、熊の生態、北海道、タイの食べ物について……。登場人物の会話は一見脈絡もなく変転していきながら、そこにそこはかとなく知的スノッブな香りを漂わせる。ところが一見とりとめがないようにみえて実はこうした会話が「コミュニケーション/ディスコミュニケーション」という主題の変奏曲として展開されていくのが長谷川の技巧である。
 例えばこの芝居のなかではモノを食べるシーンが多く、あるいは会話の中でも執拗
に食にまつわる主題が繰り返される。長谷川は「職員室というのはかならずいつもだれかがなにかしらモノを食べている不思議な空間」といい、これはそうしたことの再現でもあるわけだが、それだけではないのは教師同士の次の会話から暗示される。
 「鶴見先生の引き出しって、謎ですね、でも」「なんで」「必ず食べ物が入っているでしょ」「うちエンゲル係数八五%なんだよ。着るモノなんかはどうでもいいけど、食べ物は贅沢しているんだ。弁当箱入れる袋に誰かがなにか毎日入れてるの。いたずらなんだけど。特定は今のところあえてしてない訳。たぶん、四男が怪しいと睨んでるんだけどね」「それは、どういうことですか」「食べてれば死なないということでしょ」「ま、そうだね」
 食べることもひとつのコミュニケーションだというわけだ。芝居の後半に登場する演劇を教える精神科医、田丸が「何も言葉だけが対話の道具じゃないですからね」「暴力だって、言ってるんですよ、本当は」「あなたと話しあいたいって」とおそらくこの芝居の主題にかかわる非常に重要な台詞を発するのだが、この2つの会話をつないでみる時、途中の幕間に挿入されるバスケットボールのパスの場面や猫の喧嘩を巡るたわいのない話まで、出鱈目に配置されている会話は「コミュニケーションのあり方」という哲学的な主題へと収斂されていく。
 田丸の主張する「演劇は哲学である」「哲学は死なない」なぜなら「人間のことを考える学問だから」というのは長谷川の演劇論を代弁している台詞ともいえるが、
そういう意味で「人間が分かりあえること(コミュニケーション)/分かりあえないこと(ディスコミュニケーション)」とはなにかという主題を哲学する演劇の実践が「職員室 5:15P.M.」だといってもいいのもしれない。
 
 
  
 
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