下北沢通信

中西理の下北沢通信

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「現代日本演劇・ダンスの系譜vol.7 演劇編・五反田団」セミネールin東心斎橋     

VOL.7[前田司郎と妄想の演劇] Web版講義録

 東心斎橋のBAR&ギャラリーを会場に作品・作家への独断も交えたレクチャー(解説)とミニシアター級の大画面のDVD映像で演劇とダンスを楽しんでもらおうというセミネール「現代日本演劇・ダンスの系譜」の第7回で取り上げるのは五反田団(=前田司郎)です。
 前田の演劇は描かれる世界にある種の妄想や白昼夢のような異世界が侵入してきて、それが現実と区別されずに渾然一体のものとして表現されることで、そのためその作品は一種の「妄想劇」として表現されます。「妄想劇」は唐十郎をはじめ前の世代にもありましたが、平田オリザの方法論に「妄想」を重ね合わせ、現代の若者の心象風景をリアルに描いたのが前田の特徴といえそうです。そして、前田は小説も書いていてそちらもほぼ同じ主題を扱っているのですが、そちらの方でも小説トリッパー春季号[「ゼロ年代」の作家たち](週刊朝日別冊)などで取り上げられ、その作品が芥川賞三島由紀夫賞の候補作となるなど、この世代を代表する作家のひとりとして注目を集めています。

(スタートからテレビドラマ「お買いもの」の一部を流す)
http://www.nhk.or.jp/drama/dramalist/okaimono.html
 最近は小説以外にもテレビドラマの脚本なども手掛け、その活動領域を広げています。ここで流れているのはNHKの単発ドラマ「お買いもの」*1ですが、4月からは脚本を手掛ける漫画原作の連続ドラマ「漂流ネットカフェ」*2の放映も決まっています。このドラマは伊藤淳史が主演なんで始まる前から別のことで話題になってしまったりしてますが、4月10日からMBSで始まりますので深夜帯ではあるのですが、そうなったらいろいろ話題になるかも知れません。

漂流ネットカフェ 1 (アクションコミックス)

漂流ネットカフェ 1 (アクションコミックス)

前田 司郎(まえだ しろう、1977年 - )は、日本の劇作家、演出家、俳優、小説家。五反田団主宰。

東京都品川区五反田出身。日本大学豊山高等学校和光大学人文学部文学科卒業。1997年、劇団「五反田団」を旗揚げする。2004年、「家が遠い」で京都芸術センター舞台芸術賞受賞。

2005年、「愛でもない青春でもない旅立たない」で小説家デビュー。同作品は第26回野間文芸新人賞候補にもなる。2007年、小説「グレート生活アドベンチャー」で第137回芥川龍之介賞候補。2008年、戯曲「生きてるものはいないのか」で第52回岸田國士戯曲賞受賞。
フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』から引用

2002/05 動物大集合 こまばアゴラ劇場
2003/02 ながく吐息 こまばアゴラ劇場
2003/05 家が遠い こまばアゴラ劇場
2003/06 逃げろおんなの人 こまばアゴラ劇場
2004/04 びんぼう君 21世紀版 パルテノン多摩・小ホール
2004/05 おやすまなさい B こまばアゴラ劇場
2004/10 いやむしろわすれて草 こまばアゴラ劇場
2005/03 キャベツの類 こまばアゴラ劇場
2006/03 ふたりいる景色 こまばアゴラ劇場
2006/11 さようなら僕の小さな名声 こまばアゴラ劇場
2007/11 演劇計画2007「生きている者はいないのか」 こまばアゴラ劇場
2008/03 偉大なる生活の冒険 こまばアゴラ劇場
2008/11 すてるたび アトリエヘリコプター◎
2008/12 五反田団といわきから来た女子高生「あらわれる、飛んでみる、いなくなる。」 アトリエヘリコプター
2009/01 新年工場見学会09 アトリエヘリコプター
2009/02 僕の宇宙船、 三鷹市芸術文化センター 星のホール◎

 前田は1977年生まれですから、現在32歳ですね。チェルフィッチュ岡田利規(おかだ・としき)は1973年生まれですから少し上の年代になりますが、ポツドール三浦大輔は1975年生まれでちょうどその間の年代。岡田まで含めて同世代と言っていいのかどうかっていうのは少し微妙なところですが、平田 オリザが1962年生まれですから、平田らと彼ら後続の世代との間には年長の岡田で考えても10年以上の差があって、事実、平田の「ソウル市民」が1989年初演ですから、岡田が16歳の時、前田にいたっては12歳だからまだ小学生でした。つまり、彼らの世代にとっては演劇を意識したときには自明の前提として、平田らの「関係性の演劇」があったということなわけです。

 もっとも、青年団をはじめとする「関係性の演劇」の存在感が日本現代演劇において顕著なものとなってきたのは、90年代半ば以降で五反田団は1997年に「くりいり」という作品で旗揚げしていますから、その意味でもちょうどポスト「平田オリザ」世代(平田チルドレン)というのにふさわしい世代だと考えることができるかも知れません。
 このセミネールの演劇編では第1回に現代を代表する作家としてチェルフィッチュ岡田利規)を取り上げた後、青年団平田オリザ)、弘前劇場長谷川孝治)と2回連続で関係性の演劇の作家を見てきましたが、そういう順番で論を進めてきたのは実は今回取り上げる五反田団、さらに次に取り上げる予定のポツドール、さらには今後取り上げようと考えているポかリン記憶舎など「存在の演劇」という風に私が名付けている作家群の分析をするのにどうしてもその前提となる「関係性の演劇」という概念になじんでおいてもらう必要があると考えたからです。
ポツドール「恋の渦」の映像を流す)
 次の文章は演劇批評サイトwonderlandに掲載した「偉大なる生活の冒険」のレビューですが、これが前田司郎小論にもなっていますので、ここで少し長くなりますが全文を引用しておきます。

 岸田国士戯曲賞を受賞したばかりの前田司郎(五反田団)の新作である。受賞後第1作となるが、相変わらず「ダメ男」を描かせたら日本一という前田らしさを存分に発揮した舞台に仕上がっていて、思わずニヤリとさせられる。
 芥川賞候補となった自作の小説「グレート生活アドベンチャー」の舞台版なのだが、小説と舞台を比較すると主人公の男(前田司郎)の「ダメ」ぶりは一層グレードアップした感がある。

 小説ではまだ男は外出もしてるし、最初の方ではカメラの修理をしてそれをネットで販売することなどでそれなりの収入をえているのに、この舞台版ではテレビゲームをしているだけで一切活動らしい活動をしていない。ころがりこんでるのも小説では一応、彼女の部屋なのだが、舞台版では元彼女(内田慈)という設定にはなってはいるけれど、もはや単なる居候であったりする。ただ、「出ていけ」と面と向かって言ったりはしているが、この女性が男を本気で追い出しにかからないで、猫でも飼っているような状態にしているのはどうもおかしい、不自然とは思うのだけれど、見ているうちにそういうことも次第に気にならなくなるのは主演の前田の憎めない「ダメ」キャラゆえであろうか。

 部屋の中に万年床が敷いてあって、そこに男がひとり寝転がっているという風景はどこかで見たことがあると思う。デジャヴじゃないか、というぐらい「ふたりいる景色」とそっくりである。「ニート」「セカイ系」「引きこもり」「エヴァ症候群」といった現代の病症とこの物語に登場する男は明らかに問題群を共有している。そこにこの舞台の現代性がある。−こういう風に「ふたりいる景色」のレビュー*3で書いたのだが、こうした点においてもこの2つの作品はモチーフを同じくしている。

 もっとも、「ふたりいる景色」が自分の部屋のなかに引きこもったまま、外に出ずにゴマと自分の尿だけを摂取して即身仏になることを目指す男の物語。それに対して、「偉大なる生活の冒険」は元カノの部屋に引きこもったまま、外に出ずにRPGのゲームで魔王を倒すことだけに注力しながら、のんべんだらりとただ生き続けている男の物語。そう言いきることに若干の躊躇はあるのだが、即身仏=死ねること、と一応考えると、このふたつの物語は片方は死への憧憬、片方は生への執着とまったく正反対の志向を扱っていながらも、どちらが生き方として前向きかというと一見、生>死のように思われながらも、前者はまだ積極的に死に向かってすすんでいく意志が感じられるのに対して、今回の生き続ける男は逆に積極的にはなにもしない後ろ向きさがあって、この2本を続けて見る時に死ぬことも、生きることもどちらがどうとは言い切れない。だから、ただ、生きるだけということも「偉大な生活=グレートアドベンチャー」なのだというが今回の作品に託した思いなのだろう。

 一緒に暮らす男女の価値観の対立を描いた物語であり、夢想家であり働きに行かない「ダメ男」で現実主義者の女性とくれば目新しいというよりはむしろ古典的なモチーフといってもいいぐらい陳腐なものだが、その2人のほとんど何が起こるわけでもない日常を適度の笑いや諧謔も交えて、きっちり見世物として成立させてしまうところにこの作家の並々ならぬ技量が感じられる。

 平田オリザ岩松了松田正隆らが90年代半ばから開始した一群の群像会話劇のスタイルを呼ぶのに人口に膾炙した「静かな演劇」ではなく、「関係性の演劇」の呼称を使用したのはそれらの舞台の多くが複数の登場人物の会話のなかから、人物間の背後に隠された隠れた関係性のようなものを浮かび上がらせるという共通の特徴を持っていたからであった。

 ところが、一見それに似た会話劇のスタイルを継承するかに見えた若手の劇作家のなかで実は似て非なる方向性、アプローチで作品に取り組む作家が増え出したということに気がついたのは2000年前後のことであった。彼らの特徴はまず彼らの描き出す作品の登場人物には平田オリザらが好んで書き込んだような「社会的な関係性のなかで存在している人間」という視点が希薄だということであった。

 そうした性向を持つ若手劇団、劇作家として当時出会ったのが初期のKAKUTA、ポかリン記憶舎(=明神慈)、ポツドール(=三浦大輔)といったところだが、なかでも目立った存在として当時この目に映ったのが五反田団の前田司郎であった。

 もっとも私が最初に出会った当時の前田の作品(「動物大集合」「家が遠い」「ながく吐息」)では自分の方法論が関係性の演劇とは明確に違うということに対してそれほど自覚的ではなかったと思われる。見る側としても同様であったため、「動物大集合」では学生時代からの友達だった女の子たち、「家が遠い」では中学生が主人公、と社会的な関係性のしがらみにそれほど縛られていない世代の人物を取り上げたがゆえの違いであろうと解釈し、より広い事象に向かって作品によって描かれていくなかで「関係性の演劇」へと解消していく過渡期のものと解釈していた。

 しかし、それは前田がその後、発表した作品や彼が書く小説などを読んでいくにつれて次第にこれが決して過渡期のものではなく、確信があっての方向性だということが分かってきた。

 さらに興味深いのは彼の世代と相前後して活動を活発化した一群の劇作家たちが皆それぞれ作品の方向性は違っても、同種の傾向を持っているということに気がついたことで、それは演劇の手法としては「舞台上に起きている状況が引き起こすそこはかとない空気のようなものを観客と共有する」ので「存在の演劇」と名づけた。「存在の演劇」は実は太田省吾が自らの沈黙劇に対して名づけた名称なのだが、太田省吾の演劇こそ「空気を共有する」という特徴に合致したもので、この特徴をもうひとりの劇作家、遊園地再生事業団宮沢章夫も共有していて、宮沢の具象から太田の抽象へ矢印を延ばしたこの線上に当時登場してきた若手作家らを置くことができるのではないかと考え、これをひとくくりのものと考えたのである。

 なかでも前田の演劇は典型的。彼らの世代の演劇にはそのほかにもいくつかの共通点があり、そのひとつが描かれる世界にある種の幻想や白昼夢のような異世界が侵入してきて、それが区別されずに渾然一体のものとして表現されることで、そのためその作品は一種の「幻想劇」として表現される。この特徴がもっとも顕著なのはポかリン記憶舎の明神慈なのだが、「動物大集合」などのころの平田流の会話劇から明らかに幻想劇の方向に舵取りを進めてきたのが分かったのが、「逃げろおんなの人」で、それは「キャベツの類」「ふたりいる景色」「さようなら 僕の小さな名声」では一層明確になってきている。「偉大なる生活の冒険」もそうした方向性の延長線上にある作品といっていい。

 これらの作品では「生」と「死」というのが大きなテーマになってきている。舞台上で次々と十数名の登場人物が死んでいくというのが岸田戯曲賞を受賞した「生きてるものはいないのか」だったのだが、この作品が「死を描く」というアプローチから「生と死」に迫ろうと試みていたのに対してこの「偉大なる生活の冒険」は逆にすでに死んだ妹といつのまにか交歓している死者との世界(あるいは回想)、魔王を倒そうと試みているRPGのゲームと同居人の女性や隣の部屋の男と話す現実世界は主人公にとって区別のないものとして描き出す。部屋の外に世界があっても男にとってそれは次第に存在の意味を失っていき、同居女性ともコミュニケーションもすれ違い、男の世界は自分だけの内部に閉じていく。そういう状況はこれまでの多くの文学や演劇では否定的に捉えられるのが普通だが、前田は大胆に肯定してしまう。この躊躇のなさが凄いと思う。

 最初の方で「セカイ系」と書いたのはここで表現された世界が「セカイ系」と言われている物語群と構造を共有しているところがあるからだ。「セカイ系」については論者によって多少ニュアンスの違いもあるようで、例えばネット上のフリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』の定義では「世界」(セカイ)には一人称の主人公」である「ボク」と二人称となるヒロインあるいはパートナーの「キミ」を中心とした主人公周辺しか存在しないという設定の元、救世主である主人公周辺の登場人物の個人的行為や精神的資質・対人関係・内面的葛藤等がそのまま「世界」の命運を左右していくという形で物語が進行していく作品スタイルを指す。

 主人公が救世主であるという設定上の前提条件に社会的裏付けが存在せず、個人的事象に由来する小状況がハルマゲドン(世界の破滅)や世界を救う行為等の大状況に対し、社会や世間・国家等といった中状況を一切介さずに直接アクセスするという展開が物語の基本を成す。つまり「想像界」(経験を経ない感情やイメージ・観念に属する領域)が「現実界」(結果として起こる目の前のリアリティ)と直結され、媒介すべき「象徴界」(社会的組織・秩序・身分や具体的行動等の領域)は省略されると言うことであり、「ボク」と「キミ」と「世界」の外部にある存在、すなわち三人称に相当するものは、全て排除すべき敵あるいはなかったこととして扱われる。役者や舞台装置が最低限で済むメリットから、演劇や自主制作映画等では定番だが、それら低予算実写手法をヒーローアニメに取り入れた『新世紀エヴァンゲリオン』の爆発的ブーム以降、メジャーを含む諸種の創作物にも導入されることになったため、「エヴァ系」・「エヴァ症候群」等とも称される、と知らされている。

 実は小説版の「グレート生活アドベンチャー」の方では物語の最初、主人公の状況は隠され、「僕は東京に生まれた。ちょうど魔王のいる洞窟に入ろうとしているところ」となんの説明もなく一人称描写で主人公がプレイしているファミコンのゲームの世界のなかの話が形式的に現実生活の話から区別されることなく語られる。それゆえ、「セカイ系の心象風景って実はこういうことじゃなかったのか」というのが了解されるように思われるほど、「セカイ系」と近親関係にある。芝居の方はもう少し現実寄りに描かれる。というのは小説と違って演劇は心象のようなものをそのまま描くことがないためだが、それでも男のなかでは死んだ妹も彼女も、読んでいた少女漫画もゲームのなかの世界もすべて同値なのではないかというのが例えば隣の男との会話などから思われてくるからで、この現実感の希薄さが前田ワールドの特徴なのだ。

 全文は帰られた後、時間のある時にでもよんでみてほしいのですが、まずここでは太字の部分に注目してください。五反田団を私が初めて見たのは2002年5月の「動物大集会」という作品でした。動物が沢山飼われている部屋*4で、女の人が4人集まり、沢山お菓子を食べてねっころがりながら話をする芝居です。この当時と現在では少し作風が異なっているところがありますが、以下は上記の文章のうち「動物大集合」に触れたところです。

 (前略)「動物大集合」では学生時代からの友達だった女の子たち、「家が遠い」では中学生が主人公、と社会的な関係性のしがらみにそれほど縛られていない世代の人物を取り上げたがゆえの違いであろうと解釈し、より広い事象に向かって作品によって描かれていくなかで「関係性の演劇」へと解消していく過渡期のものと解釈していた。しかし、それは前田がその後、発表した作品や彼が書く小説などを読んでいくにつれて次第にこれが決して過渡期のものではなく、確信があっての方向性だということが分かってきた。さらに興味深いのは彼の世代と相前後して活動を活発化した一群の劇作家たちが皆それぞれ作品の方向性は違っても、同種の傾向を持っているということに気がついたことで、それは演劇の手法としては「舞台上に起きている状況が引き起こすそこはかとない空気のようなものを観客と共有する」ので「存在の演劇」と名づけた。「存在の演劇」は実は太田省吾が自らの沈黙劇に対して名づけた名称なのだが、太田省吾の演劇こそ「空気を共有する」という特徴に合致したもので、この特徴をもうひとりの劇作家、遊園地再生事業団宮沢章夫も共有していて、宮沢の具象から太田の抽象へ矢印を延ばしたこの線上に当時登場してきた若手作家らを置くことができるのではないかと考え、これをひとくくりのものと考えたのである。(後略)

 このころの五反田団が私の目にどのように映っていたのかを考えると、ひとつは平田オリザのフォロワーというものでしたが、ただ、青年団自体が初期のラジカルなところもあり、遊びなども多かった作品から群像会話劇の規範のような作品に変わりつつあったので、初期のころにあった「舞台本来の物語と関係なくリアリズムにはハマりきらないような変なことが舞台上で起こる」とか「だらしない身体」などの特徴がよりデフォルメされたような形で拡大されて展開されるというもので、青年団のパロディーのようなところがありながら、平田オリザが洗練への道程で捨ててきたものを拾いなおすようなところもありました。
 その次の「ながく吐息」「家が遠い」は街角シリーズと呼ばれていたもので、平田は当時群像劇が成立するための条件として、旅館やホテルのロビーなどのように人が自由に出入りでしてもおかしくないような半開放空間が舞台には適しているという風に論じていて、その同じ著書に例えば路上のようなそこに人が立ち止まり続けることが不自然な場所は演劇の舞台には向いていないなどと書いていたのですが、「ながく吐息」「家が遠い」では前田はあえて平田が芝居にはなりにくいという路上を舞台に設定しています。つまり、それを成立させるためには登場人物がその場に踏みとどまらざるえない合理的な理由があればいいわけなのですが、それがなんなのか。それでは「ながい吐息」を見てもらいたいと思います。
(「ながく吐息」の映像を流す)
 「ながく吐息」でした。この当時は「脱力系」などといわれていましたが、バカバカしいですよね(笑)。この芝居では青年団のもうひとつの特徴とされていた客席に背中を向けて演技をするに対してそうせざるをえない必然性も与えてくるわけですが……。「ながい吐息」は私も選考委員として参加していた2002年日本インターネット演劇大賞*5を受賞しています。
 次に見ていただくのはもう少し最近の作品で、2006年に初演された「さようなら僕の小さな名声」です。前田司郎自身が劇作家、前田司郎の役で登場していまして、そういう意味では自伝的な作品と言うこともできますが、描かれる世界にある種の妄想や白昼夢のような異世界が侵入してきて、それが現実と区別されずに渾然一体のものとして表現されることで、そのためその作品は一種の「妄想劇」として表現されると冒頭に書いた特徴がもっとも典型的に当てはまる作品といえると思います。
(「さようなら僕の小さな名声」の映像を流す)
 最後にもう一度前に引用した「偉大なる生活の冒険」wonderlandレビューに戻りたいと思いますが、現実と内的世界の境界があいまいな「妄想劇」あるいは、「舞台上に起きている状況が引き起こすそこはかとない空気のようなものを観客と共有する」「存在の演劇」は前田だけに当てはまるのではなくて、その世代の劇作家全般に当てはまるのではないかと気がついたのは2000年はじめぐらいのことでした。
 そして、「妄想劇」についてはやはり『新世紀エヴァンゲリオン』との関連性を指摘しておかなければならないと思います。もっとも、「セカイ系」ということから言えば前田には主人公がゲームの中で魔王と戦っていたりすること*6はあっても、ヒーロー幻想はほとんどありません。
新世紀エヴァンゲリオン』最終話ラスト

エヴァ 感動の最終話!

 そこがいわゆる「セカイ系」と呼ばれている物語と大きく異なるところですが、「想像界」(経験を経ない感情やイメージ・観念に属する領域)が「現実界」(結果として起こる目の前のリアリティ)と直結され、媒介すべき「象徴界」(社会的組織・秩序・身分や具体的行動等の領域)は省略されるという構造自体は前田の世界は「セカイ系」と共通な部分があり、それが大きな特徴です。『新世紀エヴァンゲリオン』の場合はここで描かれてきた物語の枠組み自体が主人公シンジの内的世界のメタファーのようなものであるという構造を持っていて、そういうことはそれまでの物語でも匂わせてあるということはあってもこの最終話にいたってそのことが初めて露わになるというような作られ方をしているわけです。
 前田の物語も類似の構造を持っていて、例えば「さようなら僕の小さな名声」の場合だと一応、彼女と二人で暮らしている日常に対して、彼女を呑み込もうとしている巨大な蛇とか、岸田戯曲賞2つ受賞(笑)とか、それを恵まれない人にあげるために新宿駅から深夜バスで行けるマダーンという国への旅行とかの非日常が主人公の妄想として「入れ子」のような構造になっているという風にもとれますが、それではどこまでが現実でどこからが妄想かというとここで描かれてる世界は若干の現実を反映しながら、すべてが非現実のようでもあり、その境界線ははっきりしません。
次回はポツドールを取り上げる予定です。
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000501  

五反田団
五反田団「偉大なる生活の冒険」wonderlandレビュー(前田司郎小論)
http://www.wonderlands.jp/index.php?itemid=816&catid=3&subcatid=4
五反田団「偉大なる生活の冒険」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20080309
五反田団+演劇計画2007「生きてるものはいないのか」
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20071021
五反田団「ふたりいる景色」
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060311 
旬の10人をいま選べば 
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20050511  
2004年の演劇ベストアクト − 私が選ぶ10の舞台 
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20050126
五反田団「いやむしろわすれて草」
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20041016 
五反田団「家が遠い」(ウイングフィールド)
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20040711
五反田団「さようなら僕の小さな名声」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20061103
五反田団「ふたりいる景色」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060311

*1:http://www.nhk.or.jp/drama/dramalist/okaimono.html

*2:http://natalie.mu/comic/news/show/id/13942

*3:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060311

*4:方形の舞台空間の周囲に段ボール箱がたくさん置いてあり、そこにはひとつに一匹づつ動物がはいっているという設定になっている

*5:http://dx.sakura.ne.jp/~nnn/play/epa03/kekka.html

*6:小説「グレート生活アドベンチャー」と演劇「偉大なる生活の冒険」