下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

「演劇の新潮流2 ポストゼロ年代へ向けて 第3回 ままごと=柴幸男」Web講義録

                               
主宰・中西理(演劇舞踊評論)=演目選定

 東心斎橋のBAR&ギャラリーを会場に作品・作家への独断も交えたレクチャー(解説)とミニシアター級の大画面のDVD映像で演劇を楽しんでもらおうという企画がセミネール「演劇の新潮流」です。今年は好評だった「ゼロ年代からテン年代へ」を引き継ぎ「ポストゼロ年代へ向けて」と題して現代の注目劇団・劇作家をレクチャーし舞台映像上映も楽しんでいただきたいと思います。
 新シリーズでは引き続きポストゼロ年代演劇の劇作家らを紹介していき、この世代に起きている新たな潮流の最新の動きを紹介していくとともに90年代半ば以降は平田オリザ*1に代表される「群像会話劇」「現代口語演劇」中心の現代演劇の流れの非主流となってきた「身体性の演劇」の系譜の流れも紹介していきたいと考えています。第1回の講義では先駆的事例としてクロムモリブデン、特別編の快快トークショーをはさんで、第2回の講義ではロロを取り上げましたが、今回は満を持して岸田戯曲賞を受賞しこの世代の旗手的な存在となっている柴幸男を取り上げます。
 柴幸男をはじめ、快快(篠田千明)、柿喰う客(中屋敷法仁)、悪い芝居(山崎彬)らポストゼロ年代の作家の台頭により、明らかに新しい傾向が現れるのが2010年以降のことですが、彼らには先行する世代にない共通する傾向がありました。

ポストゼロ年代演劇の特徴
1)その劇団に固有の決まった演技・演出様式がなく作品ごとに変わる
2)作品に物語のほかにメタレベルで提供される遊戯的なルール(のようなもの)が課され、その遂行と作品の進行が同時進行する
3)感動させることを厭わない

 そのことに最初に気づかせたのが代表作である「わが星」をはじめとする柴の作品群で、その意味でも単に最初に認められたということだけはなく、それ以前の世代の平田オリザ岡田利規*2がそれぞれの世代においてそうだったように演劇における新たな方向性の最前線を示し続けています。
 今回のレクチャーではアイホールでの関西公演の興奮がまだ冷めやらぬ「わが星」をはじめとした柴の作品はどういうものであるのかを映像を使いながら徹底解剖していく予定。 

【日時】6月11日(土) 7時半〜
【場所】〔FINNEGANS WAKE〕1+1 にて 【料金】¥1500[1ドリンク付]  
【演目】レクチャー担当 中西理
 「わが星」「あゆみ」ほか柴幸男作品
岸田戯曲賞授賞式 2010-04-12 ままごと×口ロロ

仮説=柴幸男は天才的な編集者・アレンジャーだ
「わが星の半分は『夢+夜』だと思ってます。残り半分が口(クチ)ロロで、残り半分がワイルダーですね」(柴幸男)
口ロロ(クチロロ)と「わが星」
口ロロ - AM00:00:00


「TONIGHT」

 口ロロと柴幸男の出会いでこの「わが星」は生まれた。「わが星」の前には後に「AM00:00:00」という曲になったデモ曲があって、「AM00:00:00」と「わが星」は双生児の兄弟のようなものだというのは柴も口ロロの三浦も話しているのだけれど、その前にこの「TONIGHT」という曲(およびPV)があって、柴はそれに強く触発されたのではないかと思う。というのはこの「TONIGHT」という曲が柴が口ロロのほかに挙げた2つの要素、つまり「夢+夜」と「わが町」は死者の世界から私たちの生きているこの世界を幻視することで一瞬一瞬の生きることの意味をうかびあがらせるという共通の構造を持っているからだ。


少年王者舘と「わが星」
少年王者舘「夢+夜」

http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20100218/p1

少年王者舘「夢+夜 ゆめたすよる」は昨年京都のアートコンプレックス1928で見ているのだが、その時には上演時間は1時間弱で未完成版だったらしい。この劇団にはよくあることとはいえ、東京で上演された完成版は2時間近い上演時間だったらしい。今回その完成版を名古屋の七ツ寺共同スタジオで上演されるというので観劇してきた。

 先日岸田戯曲賞を受賞した柴幸男がその受賞作「わが星」について、「わが星の半分は『夢+夜』だと思ってます。残り半分がクチロロで、残り半分がワイルダーですね」とソーントン・ワイルダーの「わが町」*1や口ロロ「00:00:00」と同様にこの「夢+夜」に大きな影響を受けて「わが星」を構想したことを明かしているのだが、「わが星」の映像を何度か見た*2ところ、柴が天野天街に大きな影響を受けていることは確認できたものの京都公演を見た印象でいえばなぜ「夢+夜」なのかということは納得しかねるところがあり、ぜひ完成版で確認したいと思ったからだ。

少年王者舘の舞台では通常の物語(ナラティブ)の構造ではなく音楽におけるサンプリングやカットアップのように同一の構造が何度も繰り返されたり、美術におけるコラージュのようにまったく違う位相にある時空が突然つながるようによりあわせられたりしてひとつの構造物として構築されているが、そういう特徴はこの「わが星」という作品も共有しているといえるかもしれない。あるいはこれは天野天街のそれと比べるとほんのちょっぴりという程度ではあるのだけれど言葉遊びもこの作品では重要な要素を占めており、特に「校則」「光速」の掛け言葉は遠くで地球(ちーちゃん)を見つめ続ける少年との最後の出会いにとってかなり決定的に重要な意味を持つものであった。

 以前このように「わが星」に対する少年王者舘天野天街)からの影響を書いたのだが、今回実際に「夢+夜 完成版」を見て思ったのはわが星ではないものの「わたしの星」という言葉が作品中に出てくるし、万華鏡を覗き込む場面は「わが星」のなかでちーちゃんが誕生日プレゼントを覗き込む場面を連想させるし、予想以上にそのまま引用している部分が多いのに気が付き驚いた。

 「『わが星』が、セカイ系フィクションの構造を踏襲している」ことについてはブログ「白鳥の眼鏡」で柳澤望が指摘していて、それはなかなか慧眼であるとは思うのだが、そういう風に考えるならば「夢+夜」だけでなく、天野天街作品は以前から「セカイ系」なのではないか、そして「わが星」はその構造を映し、同型だからこそ「セカイ系」的な構造を持つのではないかと考えたからだ。実は天野天街作品は単一な形態に還元できないような複雑な構造をもっているため、これまではその「セカイ系」的な構造に気がつかないでいたのだが、柴幸男の「わが星」はその複雑な構造を整理しある意味枝葉の部分を刈り取り、その本質的な部分のみを取り出すような単純化をしたせいで、隠されていた天野ワールドの構造がその眼鏡を通して見ると露わになったからだ。

 

少年王者舘「自由ノ人形」の感想の続きを書く。天野天街の芝居はほとんどの場合、死者の目から過去を回想し、死んでしまったことでこの世では実現しなかった未来を幻視するという構造となっている。この「自由ノ人形」も例外ではなく、過去の私/現在の私/未来の私の三位一体としての私が登場して、失われた過去、そして未来がある種の郷愁(ノスタルジー)に彩られた筆致で描かれていく。この芝居ではひとつの街自体が姿を消してしまった情景が幻視され、失われた夏休みのことが語られるのだが、劇中に登場する言葉の断片から予想するにそれはおそらく原爆投下によって一瞬にして失われた命への鎮魂ではないかと思われるふしが強く感じられる。もっとも、天野はこの芝居でこの芝居の隠された中心点であると考えられる「死の原因」についてはほとんど迂回に次ぐ迂回を続けてそれをはっきりと正面からは明示しない手法を取っていく。この芝居では言葉の氾濫とも思われるほどの言葉が提示しながらも「中心点」にあえて直接は触れないことで、その不在の中心に陰画として、「原爆による死」が浮かび上がってくるような手法を取っているのである。

 実はこの描かないで描くという手法(省筆といったらいいのか)は90年代演劇のひとつの特色ともいえ、松田正隆平田オリザといった90年代日本現代演劇を代表する作家が使ってきた手法でもある。それは現代人のリアルの感覚にも関係があることだと思われるが、本当のものをただ直接見せるのがリアルなのかに対いての拭いきれない懐疑がその根底にはあるからである。1例を挙げよう。これはテレビというメディアにも関係してくることなのだが、ニンテンドーウォーとも一部で言われた湾岸戦争のテレビ映像あれは日本に住む我々にとってリアルだっただろうか。阪神大震災の映像、オウムによるサリン事件の映像はどうだっただろうか。現実でさえ、テレビのブラウン管を通して見るとそこにはなにかリアルとはいえないものが張り付いてくるのだ。ましてや直接描かれるのがはばかられるような大問題をそのまま舞台に挙げて、それをそのまま演じるのは例えそれがリアルなものであっても、あるいはリアルなものであるからこそ現代人にとってはそこに張り付いた嘘臭さを見ないですませることは不可能なのである。

 もちろん、この種の表現というのは現代人の専売特許というわけではなく、古代人にとって人間の力を超えた「神」というものがそれでそれは寓話か隠喩の形を取ってしか語られ得ぬものであった。あるいは「死」というものもそういう側面を持っている。それは不在という形でしか語られ得ぬものである。その意味では天野の作品がこういう手法を取るのは「原爆による死」というものじゃなくても、それが「死」を中核に抱える演劇だからということがいえるかもしれない。 
 以上はこの「大阪日記」の2000年9月にある「日記風雑記帳」にある少年王者舘「自由ノ人形」の感想の再録であるがここで注目してほしいのは「天野天街の芝居はほとんどの場合、死者の目から過去を回想し、死んでしまったことでこの世では実現しなかった未来を幻視するという構造となっている」という部分で、ここでは死者の視点からの実現しなかった未来の幻視となっているが、実はこの未来というのは「過去」「現在」「未来」が混然一体となった無時間的なアマルガム(混合物)ともみなすことができる。つまり、村上春樹の「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」に擬えるならばここで天野が描き出すのは「世界の終り」であり、そこには時間がないゆえにそこでの時間は伸縮自在でもあって、ループのように繰り返されながららせん状にずれていく平行世界のような存在でもある。

 そして、「幻視」される世界のなかで不可視なのはその中心にある「死」であり、天野ワールドではそれは明示させることはほとんどないが、まるで空気のように「死」に対する隠喩がその作品世界全体を覆いつくしている。
1:http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%8C%E7%94%BA
2:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20100115

 興味深いのはともに「わが星」が影響を受けたと柴が自ら明らかにしている口ロロ少年王者舘「夢+夜」が共通点を持つことだ。正確にいえば先に挙げた口ロロ「TONIGHT」と「夢+夜」はどちらも死者あるいは死ぬ行くものがこの世の外からこの世を俯瞰してみるような構造を持っている。そして、より以上に興味深いのはやはり影響を受けたとしているソーントン・ワイルダー「わが町」もやはりこれと同じ構造(死者の視線による生者への幻視)を持っていることだ。

 実はもうひとつ興味深かったのは口ロロのこちらの曲のPV映像。曲のタッチや感触は正反対だけれど、この字の遊びで作られた映像を見たら、少年王者舘のファンであれば誰でも「これって王者舘」って思うのではないだろうか。「わが星」よりはこちらの方が新しいからこれはなにかの影響というより、偶然の産物だろうと思うのだけれど。

   
わが町=ソーントン・ワイルダー

ソーントン・ワイルダー〈1〉わが町 (ハヤカワ演劇文庫)

ソーントン・ワイルダー〈1〉わが町 (ハヤカワ演劇文庫)

『わが町』は、ソーントン・ワイルダーの三幕物の戯曲。ニューハンプシャー州グローバーズ・コーナーという架空の町での物語である。

進行役として登場する舞台監督が、「グローバーズ・コーナーでは何も特別なことは起こりません」というとおり、登場人物の死や結婚以外劇的なことは起こらないが(劇中ではそれすら日常的なものとして扱われている)、その「日常」の貴重さを観客に感じさせる内容となっている。劇中の舞台監督とエミリーのやり取り、「人生ってひどいものね。そのくせ素晴らしかったわ」というソームズ夫人の台詞が象徴的である。劇中に登場する市民の誰もがそれぞれに自分の生活をそのままに生きている、そのなかでのちょっとしたかかわりがこの劇の物語の流れであり、また細部になっている。

劇は3幕構成で、第1幕が舞台監督が地質学的、歴史的説明を含めた町の説明をし、「グローバーズ・コーナー」が特別なことはないありふれた町であることの説明がされる。医師のギブス家と新聞編集長ウェブ家を中心とした町の一日を描く「日常生活」。第2幕は、第1幕の3年後ギブス家長男ジョージとウェブ家長女エミリーの結婚式の1日を描く「恋愛と結婚」。第3幕は第2幕の6年後産褥で死亡したエミリーが、それ以前に死亡したギブス夫人ほか死んだ町の住民と墓場で会話する「死」。

進行役である舞台監督によって劇が展開されていく手法が取られている。舞台装置はきわめて簡素で、机や椅子などが置かれているだけで、小道具や書き割りなどはない。すべては役者の動作によって表現される。この手法には日本の能や中国の演劇の影響があるとされる。

1938年2月4日、ニューヨークのヘンリー・ミラー劇場で初演されている。1944年亡命先のアメリカでこの劇の上演を見たベルトルト・ブレヒトは日記に「進歩的な舞台」と記している。

1940年には映画化され、ウィリアム・ホールデン、マーサ・スコット、フェイ・ベインター、トーマス・ミッチェルらが出演した。監督はサム・ウッド。アカデミー賞最優秀映画賞にノミネートされた。スコットは、最優秀女優賞、アーロン・コップランドは、最優秀楽曲賞にノミネートされた。なお原作と異なり、ウェブ家長女エミリーは産褥熱で危篤に陥り、死者たちと会話するものの命は助かる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%8F%E3%81%8C%E7%94%BA


Episode devoted to Thornton Wilder's "Our Town," one of the most frequently performed plays in the world. Guests include Wilder nephew and expert, Tappan Wilder; writer Jeremy McCarter of "Newsweek" and David Cromer, director of the 2009 revival.

Theater Talk is a series devoted to the world of the stage. It began on New York television in 1993 and is co-hosted by Michael Riedel (Broadway columnist for the New York Post) and series producer Susan Haskins.
The program is one of the few independent productions on PBS and now airs weekly on Thirteen/WNET in New York and WGBH in Boston. Now, CUNY TV offers New York City viewers additional opportunities to catch each week's show. (Of course, Theater Talk is no stranger to CUNY TV, since the show is taped here each week before its first airing on Thirteen/WNET.)
The series is produced by Theater Talk Productions, a not-for-profit corporation and is funded by contributions from private foundations and individuals, as well as The New York State Council on the Arts.
Watch more at www.cuny.tv/series/theatertalk

 「わが町」については日本の上演映像を探したのだが見つからなかったため、アメリカでこの芝居をロングラン上演続けている劇場による「わが町」の解説を紹介したい。ここにも登場するようにこの芝居で最も特徴的なのは第3幕で「死」と呼ばれる場面で2人目の子供の出産の際に亡くなったエミリーが死後に再び亡霊として、グローバーズ・コーナーに現れ、もはや失われた生前の世界を訪問する場面でここでも死者がこの世の外からこの世を見る場面が「夢+夜」「TONIGHT」と同様に提示されている。

Our Town: Greatest Production EVER(ロングラン記録更新中の「Our Town」)

Paul Newman as Stage Manager in "Our Town"

Our Town「我等の町」

http://www.ivc-tokyo.co.jp/yodogawa/title/yodo0003.html
 実は柴幸男は「わが星」の後にもワイルダーに対する強い関心を継続しており、ワイルダーを複数劇団が上演、競演するフェスティバルを共同で企画したり、岐阜県可児市での市民演劇で「わが町可児」を上演している。

「わが町可児」は100人近くの市民が参加して上演された市民参加型音楽劇で、1年近くの期間をかけて準備したワークショップから「わが町」を岐阜の小都市・可児の町に置き換えて翻案した。私も観劇するつもりで用意していたのだが、上演されたのが2011年3月12・13日、つまり東日本大震災の翌日からだったため、無念ながら諦めざるをえなかったが、上演自体は無事終了したようだ。


 この「わが町」は日本でも昔から数多くの上演が重ねられてきたが、言及しなければいけないのはおそらく柴自身は未見であろうと想像されるが、柴の所属した劇団である青年団平田オリザもこの舞台を翻案した1995年に東京芸術劇場で上演されたMODE「窓からあなたが見える わが街・池袋」(作:平田オリザ、演出: 松本修)に新作として戯曲を書き下ろしており、この舞台はその後、演出の松本による「小樽版」や坂手洋二の「北九州版」などさまざまなご当地版の「わが町」を生み出すきっかけとなったのである。

 柴自身に話を戻せば柴は多摩川アートラインプロジェクト2008・パフォーマンスプログラム「多摩川劇場」というアートプロジェクトで「川のある町に住んでいた」という走っている電車の中で上演される芝居を作っているのだが、こちらの方が話の構造からいえばより「わが町」に近いかもしれない。
多摩川劇場「川のある町に住んでいた」

多摩川アートラインプロジェクト2008
パフォーマンスプログラム「多摩川劇場」上演作品

作・演出=柴幸男
出演=宇田川千珠子(青年団)/黒川深雪(InnocentSphere/toi)/鯉和鮎美/斎藤淳子/菅原直樹/武谷公雄/藤一平(五十音順)

引っ越し思案中のカップルが目をつけたのは、川沿いに電車が走る、ある街。下見がてら乗車すると、「おっとりと地元をPRする電車さん」「付近一帯の店すべてを営んでいる­という女性」「気さくに人の言葉をしゃべる猫」ら不思議な面々が声をかけてきて...

詳しくはこちら
シアターガイド ホームページ 特集ページ
http://www.theaterguide.co.jp/feature/tamagawa/

*1:セミネール「平田オリザと関係性の演劇」 Web版講義録→http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000227

*2:セミネールWEB講義録・岡田利規http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/00000226