下北沢通信

中西理の下北沢通信

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「演劇の新潮流2 ポストゼロ年代へ向けて 第1回 クロムモリブデン=青木秀樹」WEB講義録

主宰・中西理(演劇舞踊評論)=演目選定
 東心斎橋のBAR&ギャラリーを会場に作品・作家への独断も交えたレクチャー(解説)とミニシアター級の大画面のDVD映像で演劇を楽しんでもらおうという企画がセミネール「演劇の新潮流」です。今年は好評だった「ゼロ年代からテン年代へ」を引き継ぎ「ポストゼロ年代へ向けて」と題して現代の注目劇団・劇作家をレクチャーし舞台映像上映も楽しんでいただきたいと思います。
 「ゼロ年代からテン年代へ」では前田司郎*1三浦大輔*2岡田利規*3ゼロ年代の作家たち。「わが星」で岸田戯曲賞を受賞し話題の柴幸男をはじめ、快快(篠田千明)、柿喰う客(中屋敷法仁)、悪い芝居(山崎彬)らこれからの10年間の新しい潮流を作って行きそうな作家たちの舞台を取り上げてきました。
 新シリーズでは引き続きポストゼロ年代演劇の劇作家らを紹介していき、この世代に起きている新たな潮流の最新の動きを紹介していくとともに90年代半ば以降は平田オリザに代表される「群像会話劇」「現代口語演劇」中心の現代演劇の流れの非主流となってきた「身体性の演劇」の系譜の流れを紹介していきたいと考えています。
「演劇の新潮流2 ポストゼロ年代へ向けて」で最初に取り上げることにしたのはクロムモリブデン*4です(以下クロムと略す)。ゼロ年代において「直接Kiss」(2003年)、「なかよしShow」*5(2004年)、「ボーグを脱げ」(2005年)、「ボウリング犬エクレアアイスコーヒー」(同)、「マトリョーシカ地獄」*6(2006年)、「スチュワーデスデス」(2007年)など年間ベスト級の傑作を連発し「関西でもっとも注目すべき集団」といい続けてきたクロムですが、2006年秋にその拠点を東京に移しました。
 劇団旗揚げは1989年です。演出を担当する青木秀樹を中心とする大阪芸術大学の映像学科の仲間らによって設立されました。他の劇団と比較すれば関西ではMONOの前身であるB級プラクティスが同じ年の旗揚げ、東京では翌90年に双数姉妹が旗揚げ、宮城聰のク・ナウカも90年設立でした。大阪芸大のOB劇団といえば関西の小劇場演劇で劇団☆新感線南河内万歳一座といった劇団から若手では売込隊BEAMと一大勢力をなしています。これらの劇団はいずれも「舞芸(ぶげい)」と呼ばれる舞台芸術学科の出身なのです。
 これに対しクロムは映像学科の出身。気鋭の映画監督を次々と輩出するなど注目の学科ではありますが、大阪芸大の舞芸が関西演劇の保守本流とすればクロム=青木は演劇に対してはあくまでアウトサイダーの立場から出発しました。これは単に学閥だけの話ではなく、関西あるいは日本の現代演劇史においてクロムが占める位置を考えるときに重要な意味を持っているのです。
 作風は最近の東京で主流となっている群像会話劇系の劇団とは明らかに違うため、この集団が「関西系の劇団だから」と勘違いしているコメントがネット上で散見されるのですが、それは明らかに間違いで関西においてもこの集団は旗揚げ以来、その作風において変遷を重ねてきたはいるものの、常に異端(アウトサイダー)で孤高の存在であり続けてきました。
 ところがポストゼロ年代に至ってそうした構図が変化してきた兆しがあります。というのは2010年以降に出てきたいくつかの若手劇団(ポストゼロ年代劇団)の舞台に奇妙なことにクロムと共通する特徴を持つ作品傾向を持つ劇団が現れてきたからです。今回はクロムモリブデンの作品を素材にポストゼロ年代の演劇との共通点と相違点を考えてみたいと思います。
 2010年以降その活動が目立ってきた劇団(ポストゼロ年代劇団の)特徴をその最大公約数においてまとめると次のようなことがいえると思います。
ポストゼロ年代演劇の特徴1)その劇団に固有の決まった演技・演出様式がなく作品ごとに変わる2)作品に物語のほかにメタレベルで提供される遊戯的なルール(のようなもの)が課され、その遂行と作品の進行が同時進行する3)感動させることを厭わない……など。
クロムモリブデンの舞台はポストゼロ年代演劇の特徴のうち1)2)が該当する。特に顕著なのは2)の作品に物語のほかにメタレベルで提供される遊戯的なルール(のようなもの)が課され、その遂行と作品の進行が同時進行する、であろう。
クロムモリブデンはモチーフは時事的な問題(いじめ、死刑制度、被害者の権利、尼崎のJR事故、別れさせ屋……)を扱うことも多いが、それは物語を進行させるための単なる道具立てといえ、舞台の眼目はその主題を素材にに「いかに遊ぶか」にある。こういう遊戯性が特徴なのだが、例えば快快の「Y時のじかん」「SHIBAHAMA」や柿喰う客の「悪趣味」などに見える遊戯性にはクロムモリブデンとの共通点が感じ取れる。
「スチュワーデスデス」は「スチュワーデスです」ではなくて、「スチュワーデスDeath」の意。森下亮が演じる殺人鬼の高田が自ら名乗る名前である。 残虐な殺人事件を犯した高田は極刑を言い渡された途端にこん睡状態に陥る。こん睡状態のままでは刑が執行されないことに怒った被害者の家族たちは殺し屋に依頼し、高田を刑務所から拉致して自らの手で殺そうとする。
つまり、「スチュワーデスデス」は死刑制度と被害者の権利(復讐権)の問題が一応問題になっている。これに加えて、被害者の1人がいじめに遭っていて、実際には殺人犯・高田は救いとしての死を与える存在だなどという一種の価値観の逆転のようにものもでてくる。
しかし、観客の側の快感原則としての舞台の進行はそういう倫理的な主題とは直接的な関係がなく構築されていく。「スチュワーデスデス」の場合、物語の後半に某有名アニメの名場面の「見立て」がある。これは単にパロディーとかそういうものではなく、劇作家の創作の動機が「その場面を舞台上で実現する」ということにあって、すべてはそのための道具立てにすぎなかったのではないかとさえ思われるのだ。
 ぼかして言っていても仕方がないので予め言ってしまうと「某有名アニメの名場面」というのはここでは「新世紀エヴァンゲリオン」のヤシマ作戦の場面なのだ。


 同じような作品の構造がゼロ年代演劇を代表する劇団であるシベリア少女鉄道ヨーロッパ企画にあり、これは特殊なものと思われがちだが、こういう遊戯的な動機は日本の伝統演劇である歌舞伎にあったし、和歌、俳句から絵画にいたるまで日本文化にはかなり普遍的な動機だった。

こうした遊戯性が演劇から排除されていくのは歴史的に見れば西洋近代演劇が導入されて、近代芸術の枠組み(リアリズムなど)が作品の前提とされて以降のことだ。
ポストゼロ年代演劇(=ポストモダン演劇)というのは乱暴にすぎる見方ではあるけれど快快、柿喰う客、ままごと、東京デスロックなどの舞台において「演劇の遊戯性」へのこだわりというのは本質的な問題ではないかと思う。

一方でクロムモリブデンの作品には最近の若い作家たちにはあまり見受けられない強烈な悪意が感じられる。



(第2回はシベリア少女鉄道を予定、以下東京デスロック、ロロ、マームとジプシーなどのポストゼロ年代劇団と惑星ピスタチオク・ナウカなど「身体性の演劇」の流れの紹介も準備中)
 


【日時】2月8日 7時半〜
【演目】レクチャー担当 中西理
 クロムモリブデン「スチュワーデスデス」「空耳タワー」ほかクロムモリブデン作品 
クロムモリブデン「空耳タワー」


ゼロ年代からテン年代へ」
第1回
指値(快快)「霊感少女ヒドミ」  
五反田団「長く吐息」
快快「ジンジャーに乗って」 
ミクニヤナイハラプロジェクト「五人姉妹」 
第2回 
渡辺源四郎商店「俺の屍をこえてゆけ」「河童」ほか
第3回
ポツドール「顔よ」
第4回
柿喰う客「真説・多い日も安心」
特別編
少年王者舘「夢+夜」
ままごと「わが星」
toi「あゆみ」ほか
第5回
悪い芝居「嘘ツキ、号泣」
第6回
デス電所「夕景殺伐メロウ」

セミネールで使用した主な映像
チェルフィッチュ
「三月の5日間」「フリータイム」「目的地」
 ニブロール
ニブロール 初期秀作集」「3年2組」「青ノ鳥」初演版「青ノ鳥」NHK放映版
「ROMEO OR JULIET」「no direction」
青年団
「冒険王」「バルカン動物園」「S高原から」「東京ノート」(南河内万歳一座「S高原
から」)
イデビアン・クルー
「排気口」「くるみ割り人形
弘前劇場
「家には高い木があった」「職員室の午後」「冬の入り口」「あの川に遠い窓」(山田
辰夫・村田雄浩出演)
レニ・バッソ
「Finks」「ゴーストリー・ラウンド」「Slowly,slow for Drive」「パラダイスローグ
 Paradiselogue」
五反田団
「ながく吐息」「さようなら僕の小さな名声」「いやむしろわすれな草」
ポツドール
「恋の渦」「顔よ」「激情」など
珍しいキノコ舞踊団
「フリル(ミニ)ワイルド」「作品集抜粋」
ダムタイプ
「pH」「OR」「メモランダム」
藤本隆行
「true」「Refined colors」「lost」など
上海太郎舞踏公司
ダーウィンの見た悪夢」「マックスウェルの悪魔」「RITHZM」など
ヤザキタケシ
「ブルータイム」「GUYS2」(トリイホール)「ヤザキタケシVS伊藤キム」など