下北沢通信

中西理の下北沢通信

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マレビトの会「蜻蛉」

 マレビトの会「蜻蛉」(京都・アトリエ劇研)を観劇。
 松田正隆の新ユニット「マレビトの会」の公演第2弾。99年に岩崎正裕(199Q太陽族)が演出。あまがさき近松創造劇場「蜻蛉」*1として上演された作品の再演である。戯曲・演出ともにラディカルでよくも悪くも前衛性の強かった前回公演「島式振動器官*2」と比較するとオーソドックスな作りの舞台であった。ただ、岩崎演出の初演と比較すると印象はかなり異なる舞台となった。
 岩崎演出の初演の印象は台詞の一部が関西弁で語られていたこともあって、日常会話劇の印象が強かったのだが、今回の松田はこれを標準語に直し、舞台の質感を少し日常から距離のあるものに変化させようという意図を感じさせた。
 舞台中央に方形の部屋があってそこが周囲よりも一段高くなっている。今回での舞台ではここでの会話や演技はどちらかというとナチュラルな日常会話体に近いものでなされるのだが、方形の舞台の周囲は往来であるとともに日常/非日常の狭間のような特殊な空間として意味づけられていて、登場人物が中央の舞台に入退場する前と後にそこを非常にゆっくりと歩いていくことで、能舞台における橋掛かりのような役割をこの空間が果たすのである。
 「蜻蛉」は教師をしている深雪とその妹、佳代の姉妹を巡る物語である。冒頭で深雪の部屋には家出して居候状態にある須永がころがりこんでいて、そこに妹の結婚相手であるか梶井が佳代の失踪を伝えにやってくる。物語の進行にしたがって、実は妹の夫である梶井と深雪は結婚以前に付き合っていたことがあって、結局、梶井は妹の佳代を選んで結婚するのだが、思いは結婚した今でも深雪の方にあってそのことが結婚生活がうまくいかないひとつの要因になっているのではないかということが分かってきて、現在の相手である須永も含めて、この4人の微妙な関係に物語の焦点は当てられていく。
 ところが舞台の後半に至って佳代が深雪の部屋にやってきて唐突に須永を一緒に逃げてくれと誘惑して出奔することになるあたりから物語の様相は一変する。一見男女の愛憎についての物語に見えていたこの話の関係の中核が幼い時から姉の好きなものをすべて自分のものにしたがるという姉に向かう愛情がゆがんだ形で発露する佳代と深雪の関係にこそこの物語の核があるのだということが浮かび上がってくるからである。
 岩崎演出では「蜻蛉」は教師をしながらひとり暮らしを続けている深雪の微妙な年齢ゆえの心の揺れを表現したような芝居になっていて、近松との関連もよく分からなかったのだが、ここでの佳代と須永の出奔を「心中の道行き」のようなものになぞらえてみれば「蜻蛉」という物語が全然そういう主題の作品ではなかったんだということが分かってきて、思わず愕然とさせられた。
 今回の上演では松田はこの「蜻蛉」という作品を日常(生者)と非日常(死者)が往来する一種の「夢幻劇」のようなものとして構築した。死者というのは以前から松田作品においては「月の岬」や「夏の砂の上」を持ち出すまでもなく松田作品の中核的モチーフであり続けたのだが、前述の2作品では舞台上の登場人物の隠れた関係性から垣間見える深淵のようなものであるのに対して初演を見た時には気がつかなかったのだが、この作品では舞台の後半部に至って須永と2人で出奔したはずの佳代が再び深雪の部屋に現れるのだけれど、これは明らかに「亡霊」の類だということが明らかな演出になっているからだ。
 その後に登場して妻と路傍で再会する須永も同様にここでは「亡霊」的な存在である。「死者」とは「生者」にとって永遠の不在なのであり、ここでの「亡霊」は生き残ったものが死者に対して残した思いのことと解釈することもできる。ここでは「亡霊」が超自然的な実体的な存在なのか、それとも「生者」の思いが示現させる幻影なのかということは問われることなくあいまいなまま残される。
 それがいかにも「現代の夢幻能」を構想したかに思われる松田らしいところなのだが、最後にそれはかつてあったはずなのにいまはそこにはない「追想」についての物語へと通低していく。この舞台にはストーリーが別段似ているわけではないのにどことなく、チェホフを思わせるところがあって、それが台詞のせいなのか、演出のせいなのか考えあぐねていたのだが、この連想は「蜻蛉」が生者がいまはなき死者を追想するという「追想劇」の構造を持っているからじゃないかということに気がつき合点がいったのである。