アレクサンドル・ソクーロフ監督「孤独な声」(シネヌーヴォ)を観劇。
もう少し睡眠十分で体調万全の時にいくべきであった。こんなんだろうと分かってはいたが「孤独な声」の途中で挿入される心象風景的なイメージシーンの訳のわからなさに思わず苦笑してしまう。「エルミタージュ幻想」は映像の美しさに魅せられるが、90分ワンカットは疲れる。気がついた時には私自身が猛烈な睡魔に襲われていて、記憶の断片的、幻想の狭間に(笑い)。見られればもう一度見直したい。最後の場面のナレーションで、「この場所の周辺は海でここは永遠に存在し続ける」というような意味の言葉*1があったのだけれど、ひょっとしてあのラストシーンはタルコフスキー「惑星ソラリス」へのオマージュ?と思ってしまったのは考えすぎだろうか。
と思ってネット検索してみたら、「エルミタージュ幻想」のなかにレンブラントの「放蕩息子の帰還」*2が登場していて、それが「惑星ソラリス」のラストシーンに引用されている絵なので、そこがタルコフスキー「惑星ソラリス」へのオマージュじゃないか*3と指摘している書き込みも発見した。もう1本の「孤独の声」の方は上演にタルコフスキーが尽力してくれたということで、エンドロールのクレジットのなかでタルコフスキーへの感謝の言葉が捧げられており、この2人の関係からすればありえないことではないとは思うのだけれど、どうなんだろうか。最後の海のシーン、確かにソラリスの海にすごく似ているし、いろんな時代の人がひとつの場所に共存している「エルミタージュ幻想」の世界はあのすべてがソラリスの海に浮かんでいると考えると理屈には合うのだけれど、逆に考えればそういう理屈で映画をとってる人じゃないとも思うしどうなんだろうか。