下北沢通信

中西理の下北沢通信

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スタニスワフ・レム「ソラリスの陽のもとに」

スタニスワフ・レムソラリスの陽のもとに」(早川SF文庫)を再読。
 いささか前にはなるけれどレムへの追悼と先日テレビで偶然タルコフスキーの映画「惑星ソラリス」を見たこと(もっとも、途中からだったので前半のうち少し欠けてしまっているところがある)、さらに「エルミタージュ幻想」を見て「惑星ソラリス」の映画を思い出したこと。以上に理由で原作がどうなっていたのか気になって、大学時代以来何十年ぶりかでスタニスワフ・レムソラリスの陽のもとに」を読み直してみた。
 その結果分かったのはタルコフスキーの映画はかなり原作に忠実な作りになってはいるものの、タルコフスキーの問題意識で撮られたもので、原作とはまったく別物だということだ。タルコフスキーの映画でもっとも印象的なのは主人公のクリスが生まれ故郷の村の帰る場面*1とその後の映像が上空から俯瞰する映像に変わっていき、その故郷の村自体がソラリスの海に浮かぶ模造にすぎないということが示される場面だ。特にこの最後の最後の俯瞰の映像は最初に見た時に衝撃を受けて、この監督はこの最後の映像を効果的に見せるためにこの映画全体をつくったに違いないと思ったのだが、この部分はすべて原作にない部分なのである。
 映画ではクリスがソラリスに向かう以前の出来事も恋人のハリーとの思い出やその悲劇的な死、両親と暮らした故郷の記憶などがかなり詳しく語られるが、原作ではハリーが過去にクリスの裏切りにより自殺にいたったことは簡単に説明されても、その詳しいディティールはまったく描写されないし、そもそもクリスの両親などはまったく登場せず、物語は最初の場面からして、クリス(ケルビン)がソラリスステーションに到着するところから始まり、その前の記述はいっさいないのだ。
 実はこの本を読み直したのにはもうひとつ理由があって、それは松田正隆が砂連尾理+寺田みさこに書き下ろし、マレビトの会で自らも上演した「パライゾ・ノート」は宇宙の彼方から送られてくる妻の声(メッセージ)というのが出てきて、松田はこのイメージは「惑星ソラリス」を下敷きにしているとしていたのだが、映画のなかにはこれは出てこず、ひょっとしたらこれは映画でなくて、原作のほうだけに出てくるエピソードかとも考えたのだが、そういうモチーフはいっさい原作には登場せず、これはやはりなにかの記憶違いではないかと思ったのである。この部分はひょっとしたら、地球での妻の死とソラリスという宇宙の彼方の惑星でのその再生のことを比ゆ的に述べたのではないか、とも考えられるのだが、テレビでは見逃している冒頭部分になにかそれに類したエピソードがあった可能性は否定できないので、これはもう一度、レンタルかなにかで借りて映画の方も見直してみなくちゃいけないとも思ったのである。

 聞くところによるとレムはソダーバーグの「ソラリス」はもちろんのこと、SF映画としては古典的な評価となっているタルコフスキーの映画にも不満だったらしいが、そのことはこの小説を読み直してみるとよく分かりような気がする。レムの小説がソラリスという仮想上の存在に対する哲学的・思想的な思弁にのみ重点が置かれており、ここではクリスは彼が持つ過去のトラウマとそれによってハリーが客として現れ、それに対して次第に執着するようになるとしても、本質的に観測者である立場が崩れないのに対して、最後の「放蕩息子の帰還」の主題に典型的に示されるようにタルコフスキーにとっては「惑星ソラリス」はクリスについての物語であるからだ。ここでは客として現れるハリーの問題に関しても、クリスや両親の過去との関係が切り離せない、つまり、クリスが途中で写真を燃やす場面に象徴されるように彼はここでは故郷を捨ててでてきた故郷喪失者なのであり、どちらかというと映画はその彼がソラリスと遭遇することでどんな風に変わるのかというクリスの物語が主体となっているからで、ここではレムが想定していた未知の知性とのコミュニケーションは可能かなどという思弁的な問題は描かれはしているが、ある意味、背景にしりぞいているとも思われるからだ。
 

*1:この部分はレンブラントの「放蕩息子の帰還」からの引用だとされている部分だろう