下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

維新派「ナツノトビラ」@NHK教育・芸術劇場

維新派「ナツノトビラ」NHK教育の芸術劇場で見る。
 劇場で観劇した際の感想はこちら*1とこちら*2に書いたのでそれを参照していただきたいが、維新派に関してはこれまでの公演では映像を見るのと実際の舞台ではかなり大きな印象のうえでのギャップが生じたことがあったのだが、今回の「ナツノトビラ」に関してはそれは意外と少なく、むしろ細かいところで上演の際には気がつかなかったことが、アップの映像で改めて分かったこと*3もあり、そこのところは興味深かった。
 もちろん、ここでいう印象は舞台を2度見て、その後で映像を見た私にとってはそうだったということで、この映像で初めてこの舞台を見た人、あるいはこれまで維新派の舞台を生でみてない人がこの映像を見て想像したものと実際の舞台の印象が近いかというとそこには疑問があるし、特に後者に関しては野外であろうとこの舞台のように劇場での上演であろうと、実際の維新派の舞台のあのスケール感は日常の感覚とはかけ離れたものであり、テレビはそれを伝えることがどちらかというと苦手なメディアであるがゆえに「やはり生で見ないと分からない」とは思う。
 テレビで見てあらためて感じさせられたのは維新派における内橋和久の音楽の素晴らしさである。その独特の質感、そしてクオリティーの高さが音楽劇としての維新派をささえている。舞台芸術の世界にはかならずしもその2人だけの組み合わせですべての作品が創作されたのではないにしても、その創作活動を2人の連名の形式で語らざるをえない特別な関係というのが何組かあって、これは例えば先日エジンバラ演劇祭でオペラ作品を見てきたばかりのブレヒト=クルト・ヴァイルがそうだし、歴史をさかのぼればプティパ=チャイコフスキー、ディアギレフ=ストラヴィンスキーからジョン・ケージマース・カニングハムしして現代ではウィリアム・フォーサイス=トム・ウィレムズ、ケースマイケル=ティエリー・ドゥ・メイと挙げていけばいとまがないほどだが、松本雄吉=内橋和久もそれに近い出会うことがなかったら、その後のことは決して起こらなかったと思われるような組み合わせだったと思う。日本維新派の時代は一度も舞台を見ていないからなんともいえないが、ヂャンギャン☆オペラと呼ばれることになる独特の音楽劇のスタイルはこの2人が出会うことことで生まれたもので、その出会いがなければ松本雄吉の演劇はまったく異なるものとなっていただろう。
 こんないわずもがなのことをわざわざ書いたのは私の知人の何人かから「今回の維新派はよくなかった、それは内橋の音楽がよくなかったからじゃないか。だから内橋以外の作曲家と組んでみてはどうか」というような意見を聞いたせいがある。もちろん、こうした発言はあくまで非公式の場でのものでこれはその人にとって今回の維新派の音楽は以前のものより気に入らなかった*4ということにすぎず、真正面から反論するべきものでもないのであるが、それでもこういう意見が出てくることが気になったのは確かなのである。
 もちろん、維新派の世界は一義的には作・演出である松本雄吉が構築するイメージの世界である。だが、ここにおいて内橋の存在が非常に重要なものであるのは作品の作り方と内橋の音楽との関係が単純に劇と劇伴音楽の関係にとどまらず、もっと複雑かつ密接に関係しあっているからだ。維新派の最近の舞台を構成する要素にはパフォーマーの群唱による「ボイス」、とそれをダンスと呼ぶかどうかは別としてパフォーマーの「群像での動き」があるが、それぞれの場面においてこの両者を規定して劇構造を形成していくのは内橋の音楽であり、この両者の関係性は不即不離なのだ。
 誤解がないようにもう少し突っ込んでいうと、これは実際の創作過程においてまず内橋の音楽が実際にあって、それに合わせて場面を作っているというようなことではなくて*5、少なくとも松本の作劇作業が内橋の音楽を前提としているようなところがある。典型的なのが変拍子の音楽に合わせての「ボイス」ないし「動き」であり、これが生まれてきたのは根源的には3文字、4文字の単語の連鎖を基調とする松本の言語テクストなわけだが、それが独自の形で複雑な進化をとげていく過程では内橋がそれにつけた5拍子、7拍子などという普通の音楽ではあまり頻繁には使われない変拍子の音楽の存在が大きい。
 そして、逆を言えば内橋もけっして維新派の場合には自分のやりたい音楽を自由にやっているというわけではなく*6て、あくまで維新派の舞台を前提として、それぞれの作品性に合わせて曲を作り上げている。このことは実際に生で舞台を見ているときにも感じてはいたのだが、今回テレビに収録された映像で見るとそしてその音楽はあらかじめ録音されているものに加えて、オケピットのなかの内橋が生の即興演奏でそれに付け加えているものも含めて、「この場面にこの音楽」という必然性が説得力を持って感じられたのである。
 そしてこういう不即不離の複雑な相互作用を伴った関係性というものこそ、優れた芸術家同士が出会ったことで生まれるコラボレーションの妙味というものであって、ともに優れた才能を持つアーティスト同士が組んだとしてもこういう化学作用のものが起こるかどうかは未知数。しかも、それは共同作業を継続していくことで、深化しあるいは少なくとも変化し、熟成していくものでもある。
 その意味で松本雄吉と内橋和久が出会ったことで生まれた現在の維新派舞台芸術において稀有な実例でもあり、例えば少しマンネリ感が生じてきたから、今回の公演は別の音楽家と組んでみたいというようなことで、これを失うことがあるとすればその損失はあまりに大きいと思うから、どうしても先ほど持ち出したのような安易な(と私には思われる)意見には組することはできないのだ。
 もちろん、物事には残念ながらいつでも終わりというものがあるから、これ以上一緒に作業をしてもマンネリズムに陥るばかりで、そこから新しいものは生まれない、ということになれば当然関係は解消すべきだが、こと維新派に関していえば作品ごとに変化し続けており、それゆえ昔のような作品を望むファンからは非難されているという現状を考えればそういう状態ではないはず。無責任なファンの立場に立ち戻れば松本雄吉がほかの優れた音楽家、例えば坂本龍一とコラボレーションするという企画があればミーハー感覚では「見てみたい」とは思うけれども、それは維新派ではないし、やってみなくちゃ分からないとはいえ、いくら坂本が優れた音楽家だとしてもそこからこれまでの一連の維新派の舞台を超えるような刺激的な舞台作品が一朝一夕で生まれるとは到底思えない*7のだ。
 本当は内橋の音楽がどう素晴らしいのかということについて、その特性とかを含めて、もう少し具体的かつ細かく分析したいところなのだが、音楽についてはまったくの門外漢。音楽そのものではなくて、音楽劇としてはそこにはミュージカルとも、オペラとも明らかに異なるありかたがあり、そこが維新派の真骨頂とは思っているが、音楽自体を分析するのは私の手には余る。以前から、だれか専門家でジャズについて菊地成孔がやっているみたいに分かりやすく、維新派の音楽についての分析をやってくれる人がいないだろうかと思っているのだが。

*1:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060714

*2:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060717

*3:例えば小山加油の演技などは劇場での観劇では細かい表情の変化などは到底分からないが、こうしてテレビで見てみると役者としてもいい芝居をしているなと感心させられた場面がいくつもあった

*4:当然ここでの比較対象はほかの作曲家でなく、以前の内橋ということになる

*5:実際には逆、つまりシーンが先にあって内橋が松本のサジェスションのもとにそれに合わせて曲を書くことが多い、とも聞いている

*6:音楽家としての内橋の活動が変拍子を基調としているということはない

*7:逆に言えば維新派の公演ではなくて、つまり演出家、松本雄吉が単独で参加する企画ということであれば見てみたいし、松本がそれによってなんらかの刺激を受けるのであれば無意味ではないとは思う。ただ、それと維新派の公演を同列で論じることはできないと思う