下北沢通信

中西理の下北沢通信

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維新派論 〜演劇・ダンス・音楽・美術のはざまで〜

 長らく維新派を率いてきた松本雄吉氏が6月死去したことにともない追悼の意味もこめて維新派最終公演「アマハラ」(2016年10月17日観劇)は上演された。公演会場となった平城宮跡は生前から松本がこだわり公演会場にしたいと執念を燃やしていた場所であり、本人が亡くなった後の追悼公演の形だったとはいえ、この場所での公演を見られたことにはいろんな意味での感慨があった。

 本来はこの「アマハラ」について語ることから始めなければならないのであろう。この公演については舞台の終わった後、巨大舞台の向こうに金色に光る草原が美しさとか、そこを吹き抜ける風の香りとか、断片的なイメージしか語る言葉を持てないでいる。内橋和久が生演奏でかなでる音楽はただただ美しかった。そのすべてが松本がそこにはもういないという不在の大きさをますます感じることになった。

 維新派をこの目で初めて見たのは大阪・南港での「虹市」(1992年)。それから25年の歳月が経過した。もっとも前身である「日本維新派」の誕生は1970年でさらに22年を遡ることになる。私は長い歴史のわずか半分を知るだけ。その意味では松本雄吉ならびに維新派を語る語り手としては適当な人間とはいえないかもしれない。

 しかし、それでも松本の死を契機として維新派というこの特異な集団の生み出した作品群について再び論じたいと思う。いろんな意味で重要な存在であったのにもかかわらず維新派のことはこれまであまりにも論じられてこなかったと考えているからだ。いまこそこの集団の生み出した作品群について「それが何だったのか」について考えねばいけない。維新派についての批評がこれまでなかったわけではない。多くの人が舞台を劇評で取り上げている。それをあえて「論じられてこなかった」と書いたのはそのほとんどはいわゆる「劇評」であり、主として作品の筋立てや主題(モチーフ)について論じたものだからだ。

 それも作品にとって重要な要素だ。作品ごとに松本を取材し話を聞けば「今回の作品は喜劇王バスター・キートンを取り上げた」(「キートン」)、「ブラジル移民の話に材をとった」(「nostalgia」)などと答えもするだろう。しかし、こと維新派について論じる際に主題は最重要な事項ではないと考えている。松本雄吉ならびに維新派は様々な実験、様々な試行錯誤を繰り返してきた。それを検証することこそが松本が亡くなった取り上げるべきことではないかと思うのだ。維新派は演劇・ダンス・音楽・美術といった領域を時に越境し、時に融合させていった。単純に演劇作品として評価したのでは捉えきれないような要素を含んで構築されていた。「壮大な野外劇を上演する集団」などとよく紹介され、それも間違ってはいないが、この集団の特異性はそこにだけあるものではない。

 前衛色が強かった初期の維新派(日本維新派時代を含む)に音楽監督に内橋和久が加わり大阪弁ラップによる「ヂャンヂャン☆オペラ」の様式が定着した「少年街」(1990年、東京・汐止)以降と比較して論じることが多い。しかし自分で目にしていない前期の維新派についてわずかの映像と伝聞だけでは多くを語ることはできないため、本稿では後期の「虹市」以降を対象とする。だが、この間でも相当に大きな様式の変遷はあった*1。この間維新派にとって継続的に大きな問題となってきたのは物語と身体表現がどのように関連づけられて作品化されるべきなのかという問題だった。誤解を恐れずにもっと単純にいえば「演劇とダンスの関係」といってもいい。

 「虹市」以降は「青空」(94年・95年)、「南風」(97年)、「水街」(99年・2000年)と続くが、中でも中上健二の原作を下敷きに舞台化した「南風」がこの時期の代表的な作品である。公演ごとに試行を繰り返しながら、大阪弁の単語の羅列により、変拍子(5拍子・7拍子)の内橋和久の音楽に乗せて、パフォーマーらが群唱する「大阪弁ラップ」のアンサンブルあるいは群唱のスタイルはこの時期に固まっていったといえそうだ。ただ、それが基調低音を形成するものの、この時期には通常の演劇に近い演技・セリフ回しも作品中に多用されそれにより物語が綴られていくという演劇的要素も強かった。

 この時期の維新派のもう一つの特徴は祝祭性だった。当時、維新派の公演は大阪南港の野外特設劇場で行われるのが通例だったが、それは単に舞台芸術を上演する「劇場」というのにとどまらなかった。劇場周辺に忽然と姿を現した屋台村やそこにある仮設の舞台で芝居が始まる前から連日のように複数のバンドやミュージシャンが参加してフリーコンサートも行われる。それはある種アジールのような祝祭の場であり、維新派はいつでもその中心にあった。そして、「ヂャンヂャン☆オペラ」の「ヂャンヂャン」に象徴されるように維新派の舞台もきわめて祝祭性の強いものであった。

 その祝祭性を演出するのに大きな役割を果たしていたのが、「映画のセットを思わせるような」と評された林田裕至の舞台美術かもしれない。林田は石井聰亙が監督し1982年に公開された『爆裂都市 BURST CITY』(ばくれつとし バースト・シティ)はされた日本のSFアクション映画の美術担当で映画界にデビュー。直近では「シン・ゴジラ」に至るまで映画の世界の第一線で働き続けているが、この時期に維新派美術監督を担当し、維新派の美術スタッフを指揮し映画のミニチュアセットのようにリアルなセットを作り上げた。

 そしてその美術は音楽監督の内橋和久がパフォーマーとともに生演奏で作り出した音楽とともに演劇の世界の歴史に残るような祝祭空間を作り上げた。維新派の世界は松本雄吉が紡ぎ出す世界ではあるが、音楽監督としてほぼすべての作品に曲を提供し公演時には生演奏で参加した内橋和久の存在は非常に大きい。
 
 林田裕至は「水街」を最後に維新派の現場から映画界に戻り、「流星」からは田中春男のクレジット名で松本雄吉が自ら美術監督も兼任することになった。そのことは結果的には「祝祭の時代」の維新派とはかなり大きく異なる作風への転換を促進したかもしれない。もっとも、この「流星」を最後にホームグラウンドとしていた大阪南港が公演場所としての使用が困難になり、「さかしま」(2001年、奈良・室生村総合運動公園内県民グラウンド)、「カンカラ」(2002年、岡山県犬島・銅精錬所跡地)と公演の地を本拠地大阪から離れた地に求め、作品のモチーフもそれぞれの公演地に合わせてサイトスペシフィックな作品づくりを手掛けた。サイトスペシフィックアートはもともと美術の概念であり、演劇やパフォーマンスによりそれが大規模な形で展開されるということは稀なことだった。そうした過程で維新派が大阪南港時代に持っていたような祝祭性は次第に薄まっていく。
 
その次の作品「nocturne」は新国立劇場から委嘱により劇場内での作品となった。場面によって凄く印象的な場面がいくつもあったし、音楽的、演出的にも面白い試みが行われていた。当時のブログに「物語の構造ラインは少し弱くて散漫なところも感じられた。たぶん、ここから何の前知識もなしに作者である松本氏が本来伝えたい物語の筋道を読み取るのは無理だ。特に最初の30分は水たまりを使って足のステップで音を出すヂャンヂャンならぬ『じゃぶじゃぶタップ』など印象に残る場面はあるが、登場人物の関係性やそれぞれの場面がなにを意味しているのかを読み取るには苦労を要し、ついに分からないところもあった」と書いた。この頃には「祝祭の時代」と比べると物語を語ることへの欲望はかなり薄れてきて、代わりに前景に出てきたのが集団でのムーブメントによるダンス的と言ってもいい集団表現と美術に対する傾倒だ。集団での単語の唱和による「ヂャンヂャン☆オペラ」に対し、私は集団でのムーブメントを「動きのヂャンヂャン☆オペラ」と呼ぶようになったが、後から振り返るとこの「じゃぶじゃぶタップ」もその初期の実例といえるかもしれない。「動きのヂャンヂャン☆オペラ」は初期には全員がそろってのユニゾンの動きが多いのだが、動きの種類も増え、小グループ同志に分かれた動きのシンクロのそれぞれがカノン的にズレて絡み合うなど複雑かつ高度な技術を要するものに変化していく。個人的にはその極致に至ったのが「呼吸機械」だと考えているが、このことについては後で改めて記す。

 松本の美術に関する嗜好はデザイナーの黒田武志を美術監督に迎えた「キートン」でひとつの頂点を迎えた。表題通り「キートン」は無声映画時代に活躍した俳優バスター・キートンがテーマではあるのだが、作品のビジュアルイメージとしては「カリガリ博士」などに代表されるドイツ表現主義の映画とデ・キリコの絵からのイメージが取り入れられた作品となった。公演会場はひさしぶりに大阪南港に戻ったものの、内橋和久の音楽の曲調も祝祭的というような要素はあまりなくなり、静謐な曲が増えた。

 

 











 
 
  
 
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