下北沢通信

中西理の下北沢通信

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後期維新派論 〜演劇・ダンス・音楽・美術のはざまで〜

 長らく維新派を率いてきた松本雄吉氏が6月死去したことにともない追悼の意味もこめて維新派最終公演「アマハラ」(2016年10月17日観劇)は上演された。公演会場となった平城宮跡は生前から松本がこだわり公演会場にしたいと執念を燃やしていた場所であり、本人が亡くなった後の追悼公演の形だったとはいえ、この場所での公演を見られたことにはいろんな意味での感慨があった。

 本来はこの「アマハラ」について語ることから始めなければならないのであろう。この公演については舞台の終わった後、巨大舞台の向こうに金色に光る草原が美しさとか、そこを吹き抜ける風の香りとか、断片的なイメージしか語る言葉を持てないでいる。内橋和久が生演奏でかなでる音楽はただ美しかった。パフォーマーたちもみごとなアンサンブルを見せてくれた。ただ、そこには松本が体現していた実権精神は感じられず、そこにはもういないという松本の存在の大きさをますます感じさせられることになった。

 維新派をこの目で初めて見たのは大阪・南港での「虹市」(1992年)。それから25年の歳月が経過した。もっとも前身である「日本維新派」の誕生は1970年でさらに22年を遡ることになる。私は長い歴史のわずか半分を知るだけ。その意味では松本雄吉ならびに維新派を語る語り手としては適当な人間とはいえないのかもしれない。

 しかし、それでも松本の死を契機として維新派というこの特異な集団の生み出した作品群について再び論じたいと思う。いろんな意味で重要な存在であったのにもかかわらず維新派のことはこれまであまりにも論じられてこなかったと考えているからだ。いまこそこの集団の生み出した作品群について「それが何だったのか」について考えねばいけない。維新派についての批評がこれまでなかったわけではない。多くの人が舞台を劇評で取り上げている。それをあえて「論じられてこなかった」と書いたのには理由がある。そのほとんどが「劇評」であり、主として作品の筋立てや主題(モチーフ)について論じたものだったからだ。

 もちろんそれは作品にとって重要な要素だ。作品ごとに松本を取材し話を聞けば「今回の作品は喜劇王バスター・キートンを取り上げた」(「キートン」)、「ブラジル移民の話に材をとった」(「nostalgia」)などと答えもするだろう。しかし、こと維新派について論じる際に主題は最重要な事項ではないと考えている。松本雄吉ならびに維新派は様々な実験、様々な試行錯誤を繰り返してきた。それを検証することこそが松本が亡くなった取り上げるべきことではないかと思うのだ。維新派は演劇・ダンス・音楽・美術といった領域を時に越境し、時に融合させていった。単純に演劇作品として評価したのでは捉えきれないような要素を含んで構築されていた。「壮大な野外劇を上演する集団」などとよく紹介され、それも間違ってはいないが、この集団の特異性はそこにだけあるわけではない。

 前衛色が強かった初期の維新派(日本維新派時代を含む)を音楽監督に内橋和久が加わり大阪弁ラップによる「ヂャンヂャン☆オペラ」の様式が定着した「少年街」(1990年、東京・汐止)以降と比較して論じることが多い。しかし自分で目にしていない前期の維新派についてわずかの映像と伝聞だけでは多くを語ることはできないため、本稿では後期の「虹市」以降を対象とする。だが、後期だけでも相当に大きな様式の変遷はあった。この間維新派にとって継続的に大きな問題となってきたのは物語と身体表現がどのように関連づけられて作品化されるべきなのかという問題だった。誤解を恐れずにもっと単純にいえば「演劇とダンスの関係」だったといっていいかもしれない。

 「虹市」から「青空」(94年・95年)、「南風」(97年)、「水街」(99年・2000年)と続く時期を「祝祭性の時代」と名付けたい。中上健二の原作小説「千年の愉楽」を下敷きにした「南風」がこの時期の代表的な作品といっていいだろう。この時期に公演ごとに試行を繰り返しながら、内橋和久との共同作業で生まれた大阪弁の単語の羅列により、変拍子(5拍子・7拍子)の内橋和久の音楽に乗せて、パフォーマーらが群唱する「ヂャンヂャン☆オペラ」の「大阪弁ラップ」の様式はこの時期に固まっていった。ただ、それが基調低音とはなるもののこの時期には同時に通常の演劇に近い演技・セリフも作品中に多用され、それらにより物語が綴られていくという演劇的要素も強かった。

 もう一つの特徴は祝祭性だった。当時、維新派の公演は大阪南港の野外特設劇場で行われるのが通例だったが、それは単に舞台芸術を上演する「劇場」にとどまらなかった。野外舞台の周辺に忽然と姿を現した屋台村やそこに設営された仮設のステージで芝居が始まる前から連日のように何組ものバンドやミュージシャンが参加してフリーコンサートも行われる。それはある種アジールのような祝祭の場であり、維新派はいつでもその中心にあった。そして、「ヂャンヂャン☆オペラ」の「ヂャンヂャン」に象徴されるように維新派の舞台もきわめて祝祭性の強いものであった。

 その祝祭性を演出するのに大きな役割を果たしていたのが、「映画のセットを思わせるような」と評された林田裕至の舞台美術である。林田は石井聰亙が監督し1982年に公開された『爆裂都市 BURST CITY』(ばくれつとし バースト・シティ)の美術を担当し映画界にデビュー。直近の「シン・ゴジラ」に至るまで映画の世界の第一線で働き続けているが、この時期に維新派美術監督を担当し、維新派の美術スタッフを指揮しまるで映画のミニチュアセットのようなリアルな巨大セットを作り上げた。

 その美術は音楽監督の内橋和久がパフォーマーとともに生演奏で作り出した音楽とともに世界の演劇史においても特異な祝祭空間を作り上げた。維新派の世界は松本雄吉が紡ぎ出す世界ではあるが、音楽監督としてほぼすべての作品に曲を提供し公演時には生演奏で参加した内橋和久の存在は非常に大きい。
 
 林田裕至は「水街」を最後に維新派の現場から映画界に戻り、「流星」からは田中春男のクレジット名で松本雄吉が自ら美術監督も兼任することになり、この時代は終わった。そのことは結果的には「祝祭の時代」の維新派とはかなり大きく異なる作風への転換を促進した。「流星」を最後にホームグラウンドとしていた大阪南港が公演場所としての使用が困難になり、「さかしま」(2001年、奈良・室生村総合運動公園内県民グラウンド)、「カンカラ」(2002年、岡山県犬島・銅精錬所跡地)と公演の地を本拠地大阪から離れた地に求め、作品のモチーフもそれぞれの公演地に合わせてサイトスペシフィックな作品づくりを手掛けた。サイトスペシフィックアートはもともと美術の概念であり、演劇やパフォーマンスによりそれが大規模な形で展開されるということは稀なことだった。そうした過程で維新派が大阪南港時代に持っていた祝祭性は次第に薄くなっていく。
 
次の作品「nocturne」は新国立劇場から委嘱により劇場内での作品となった。場面によって凄く印象的な場面がいくつもあったし、音楽的、演出的にも面白い試みが行われていた。「物語の構造ラインは少し弱くて散漫なところも感じられ、ここから何の前知識もなしに作者である松本氏が本来伝えたい物語の筋道を読み取るのは無理だ。特に最初の30分は水たまりを使って足のステップで音を出すヂャンヂャンならぬ『じゃぶじゃぶタップ』など印象に残る場面はあるが、登場人物の関係性やそれぞれの場面がなにを意味しているのかを読み取るには苦労を要し、ついに分からないところもあった」と当時のブログに感想を書いた。この頃には「祝祭の時代」と比べると物語を語ることへの欲望はかなり薄れてきて、代わりに前景に出てきたのが集団でのムーブメントによるダンス的と言ってもいい集団表現と美術に対する傾倒だ。集団での単語の唱和による「ヂャンヂャン☆オペラ」に対し、私は集団でのムーブメントに「動きのオペラ」と名付けたが、後から振り返るとこの「じゃぶじゃぶタップ」はその初期の実例といえる。「動きのオペラ」は初期には全員がそろってのユニゾンの動きが多い。だが、動きの種類も増え、小グループ同志に分かれた動きのシンクロのそれぞれがカノン的にズレて絡み合うなど複雑かつ高度な技術を要するものに変化していく。個人的にはその極致に至ったのが「呼吸機械」だと考えているが、このことについては後で改めて記す。

 松本の美術に関する嗜好はデザイナーの黒田武志を美術監督に迎えた「キートン」(2004年)でひとつの頂点を迎えた。これは野外劇ではあってもお囃子・下座音楽としてのヂャンヂャンオペラというような要素は非常に希薄で、キートン=サイレントという主題のせいはあるとはいえ、特に前半部分などは映画や美術作品のレファランス的引用(サンプリング)という美術的な要素への傾注が全体を支配していた。内橋和久の音楽も背景に退いている感が強い。黒田に美術を委嘱することになったとことも含めて、ストーリーテラー、劇作家というよりも元々、大阪教育大学で美術を専攻していた松本の美術家としての側面が色濃く出てきている舞台になってきているということにその原因はある。表題通り「キートン」は無声映画時代に活躍した俳優バスター・キートンがテーマではあるのだが、作品のビジュアルイメージとしては「カリガリ博士」などに代表されるドイツ表現主義の映画とデ・キリコの絵からのイメージが取り入れられた。公演会場はひさしぶりに大阪南港に戻ったものの、内橋和久の音楽の曲調も祝祭的な要素はあまりなくなり、批評家で現代の音楽にも造詣の深い佐々木敦が「ライヒ的」と評したような静謐な曲が増えていった。

 維新派の変容がより明確になったのが「ナツノトビラ」(2006年)である。「流星」では、すべての動きが細かく指示された脚本をもとに、パフォーマーが稽古場で振り付けを作り上げていくスタイルが試みられ、このスタイルはその後も続いていくことになった。松本は維新派を「踊らない踊り」と称したがそれは「既存のダンスの枠におさまらず、日本人/私たちの身体性を生かした新しい身体表現を確立していこうという維新派の意志でもある」としている。初日を見て「コンテンポラリーダンスとしての維新派」ということを唐突に考えたい気持ちにかられたのはこの「踊らない踊り」を松本雄吉自身は「だからダンスではない」と位置づけているとしても、ここで述べられていることはコンテンポラリーダンスの問題意識そのものといってもいいほど、その問題群は共有されている。さらに国際交流基金サイトのインタビューで松本は「まず、『体』のことを考える。“不自然な動き”とか、思いどおりに動かない不自然、不自由な動きを徹底してやった」などと今回の「ナツノトビラ」での身体表現についてこたえているのだが、これなどは桜井圭介氏が提唱した「コドモ身体」とほぼ重なる問題意識なのではないかとさえ思われた。さらに「踊らない」ということにこの頃は以前のように無手勝流に立ち向かうわけではなくて、最近の維新派の舞台を見ていればそこには既存のダンステクニックとは違う身体語彙が意識的に獲得されるための継続的な訓練や試行錯誤が日常的に行われていることが分かる。
 「ナツノトビラ」は舞台を見ればそこに既存のダンステクニックとは違う身体語彙が意識的に獲得されるための継続的な訓練や試行錯誤が日常的に行われていことが分かる。例えば今回の作品では音楽に合わせて、数歩すばやく歩いた後、そこで突然ぴたっと静止するということを大勢のパフォーマーが同時にやる場面がでてくるが、これなども普通のダンスにはあまりない身体負荷であり、日常的な身体訓練がなされていないとこれだけ大勢がシンクロして群舞的にそれを行うことは簡単なことではない。タップダンスのようにステップで音を出す場面も足の裏に空き缶のようなものをつけてやる場面をはじめ複数でてくるが、全員が同時に踏むというだけでなく、楽器の演奏のようにパートに分かれていたりするわけで、「リバーダンス」や「TAP DOGS」のように大向こう受けする超絶技巧のものではないが、内橋の変拍子の音楽に合わせてそれを正確に行うのは相当以上のリズム感覚が要求される。
 こうしたダンス的な身体表現が極まったのがびわ湖水上舞台での「呼吸機械」であった。この作品では表題の「呼吸機械」を思わせる“ダンスシーン”を冒頭とラストのそれぞれ15〜20分ほど、作品の中核に当たる部分に持ってきた。「動きのオペラ」のひとつの到達点といえるかもしれない。びわ湖の湖面に向かって、少しずつ下がっている舞台空間、その上を流れていく水のなかに浸かりながらそれは行われた。パフォーマーの動きだけでなく、野外劇場だからこそ可能な水の中の演技で飛び散る水しぶきさえ、照明の光を乱反射して輝き、50人近い大人数による迫力溢れる群舞は比較するものが簡単にはないほどに美しいシーンであった。巨大なプールを使ったダニエル・ラリューの「ウォーター・プルーフ」、ピナ・バウシュの「フルムーン」などコンテンポラリーダンスにおいて水を効果的に使った作品がいくつかあるが、「呼吸機械」もそれに匹敵する強いインパクトを残した。特にラストは維新派上演史に残る珠玉の10分間だったといってもよいだろう。
 その後の「ろじ式」(2009年)はフェスティバル/トーキョーの一部として東京ではにしすがも創造舎、大阪は精華小劇場とともに廃校となった学校の跡地利用をした維新派としては珍しい小劇場空間が会場となった。事前情報では「20世紀3部作の番外編」とも紹介されていたが、ここには物語もそれに付随するスペクタクル性もない。小規模かつミニマルなパフォーマンスの羅列といった形で構成され3部作とは方向性が明確に異なる作品だった。白眉といえたのは全部で10のシーンのうち最後から2番目の「木製機械」。維新派独自の動きのバリエーションをダンス的に構成した「動きのオペラ」の次の進路を垣間見せるもので、「動きのオペラ」のひとつの到達点となった前作「呼吸機械」を超えて、この集団の身体表現の方法論がいまも進化しつづけていることを証明するような刺激的な場面であった。これまでは維新派は一部の場面だけを取り出して評価することは避けてきたが、この「木製機械」とそれに続く「かか・とこ」という舞台後半の2シーンが複雑な構造のダンスならびに群唱の最新形を示した場面だった。は「2009年のダンス・ベストアクト(ベスト10)」に入るべき「ダンス」ではないかとさえ考えた。

 実は大阪時代に企画したダンスについての連続レクチャー*1を準備していくなかでローザスについて調べてみると音楽と動きを関係づけて作品として具現化していくその方法論が維新派とかなり近しい部分があるのではないかと感じたことがある。「Dance Notes」というドキュメンタリーに克明に実際の創作の現場が紹介されており、そこから方法論の一端が浮かび上がってくる。

 ローザスではまず使用する音源(音楽)を楽譜に落としたものを元にその音楽の持つリズムを分析。楽譜からリズム譜ものをのような作ったうえでまずそのリズムを声を出して唱和しながら、ダンサー(パフォーマー)全員で共有。この作業を何度も繰り返した後に今度はそのリズムを群舞の振付に落とし込んでいく。その際、ダンサーたちは壁に貼られた□と△が並んだメソポタミアの文字盤のようにも見えるリズム譜を見ながら、自分の振りを絶えずチェックしている。一方でコラボレーターである音楽家のティエリ・ド・メイはそのダンスの動きを映像として撮影したうえで、パソコンに落とし込んだ楽譜と照応しながら、そこで浮かび上がったリズムをもとにそこに音を貼り付けるように曲作りをしていくのだが、ここでは同じリズムパターンの構造をいわば設計図として同時進行で振付と音楽が作られていくわけだ。

 このドキュメンタリーのなかでケースマイケルは何度も「時間と空間の構造(ストラクチャー・オブ・タイム・アンド・スペース)」という言葉を強調しているのだが、これはパラフレーズしていけば「音楽とダンス」ということになるだろう。音楽あるいはもっと端的に言えばリズムが時間を分節化し構造化していく。そして、空間とは身体のことでそこには身体の動きと複数の身体の配置と移動(フォーメーション)が含まれる。この組み合わせことがケースマイケルにおけるダンスであるかもしれない。

 まったく異なるジャンルのパフォーマンスではあるがケースマイケルのこうしたやり方が維新派の作業手順と似ているのではないかと思われた。維新派の場合は演劇だから言語テキストとして松本雄吉が書いた脚本がある。これは脚本とは書いたが、ことヂャンヂャンオペラと言われる部分に関してはその多くは3文字、5文字、7文字の単語の羅列のようなもので、その羅列が維新派独特の変拍子のリズムを構成していく。

 つまり、ここではローザスにおけるリズム譜のような役割を台本が果たしているわけだが、維新派もその同じ設計図を基に同時進行で動き(振付)とフォーメーション、内橋和久による音楽が同時進行で作られていく。実はそのレクチャーには維新派の役者が偶然参加してくれ、維新派ローザスの類縁性についてはそのことを知らないで話していたのだが、終了後、実際に劇団において松本がローザスのことを言及して「ローザス・ダンス・ローザス」の映像化したものをみて「これオモロいで〜。」と、みんなに紹介してという話を聞いた。日頃は「コンテンポラリーダンスは嫌いだ」と公言しているだけに少し意外に思うとともに本人も少なからぬ親近感を持っていたことを知り、興味深く思った。

 維新派の公式サイトの「台湾の、灰色の牛が背伸びをしたとき」の創作日記にも演出助手の中西エレコさんがローザスのことに触れている回があり、実際に現場レベルではローザスのことも知られていて、それは松本公認であるらしいことも分かった。ダンスというのは民族舞踊的なものや日本でいえば神楽のように神に捧げるという巫女的な機能を持ったものでも歴史的に見れば音楽との関係の中で成立していたのが、一般的なことであって、現在でもバレエやヒップホップなどはその随伴音楽(という呼び方もこの場合正しくないのかもしれないのだが)と非常に高い率でシンクロ(同期)しているのが普通だ。

 ダンスにおいて音楽がいかに重要な要素であるのかという実験はさいたま芸術劇場でジェローム・ベルが「ザ・ショー・マスト・ゴー・オン」という舞台で提示していて、きわめて興味深く思ったのだが、いくつかの場面でダンサーが舞台上いてもまったく動かなかったり、時にはまったくいなくなってそこに音楽だけが流れる。それでもそこになにかしらの「ダンスがある」と感じてしまうのは見る側の意識として、ダンス作品のなかで音楽の占める重要性が示されていた。

 こうした関係性に理論的に疑問を投げかけたのはジョン・ケージマース・カニングハムのコンビで、ダンスと音楽は同期しなくても無関係に同じ空間に独立して存在しうるとして、それぞれを別々ないし相手のことを意識しないで制作したのものを最終的に舞台の上で出合わせるというようなことを一種の実験として行った。

 日本のコンテンポラリーダンスの場合も、音楽(特にリズム)と動きが1対1のように対応してしまうような作り方は「ベタになる」と称して敬遠する傾向が強くて、このことは以前から気になっていた。レクチャーではそういうなかで日本にもそうではないダンスも存在していて、それは例えば珍しいキノコ舞踊団イデビアン・クルー、BATIK(黒田育世)などなのだが、そういう人たちがどちらかというと2000年代に人気を集め、コンテンポラリーダンスのブーム化の一翼を担ってきたという実体があった。、そして、ローザスはそれらの振付家にかなり大きな影響を与えたとみられる。維新派は演劇であってダンスではないが、そのセリフ回しと動きが内橋和久の作った音楽と相当に厳密なレベルでシンクロして展開されていくのが特徴で、既存のダンスの身体言語とはかなり異なる身体所作(身体言語)を使うためにダンスのようにはみなされてはいないが、ダンスとはなにかということの考え方次第ではローザスやBATIKのような音楽とシンクロ率の高いダンスにこそ、近しい類縁性を持っているのではないか。

 「ろじ式」に話を戻そう。意外だったのは冒頭の「標本迷路」から「地図」「可笑シテタマラン」と続いていく場面がいずれも変拍子のリズムに合わせて複雑な身体所作を繰り返す「動きのオペラ」ではなくて、ヂャンヂャン☆オペラとしてはむしろ古いスタイルでかなり昔に多用されたようなシンプルな群唱に近かったことだ。開演以前から狭い精華小劇場の空間は舞台の下手、上手、天井近くとさまざまな骨格模型が収められた600個もの標本箱で埋め尽くされていた。標本箱は一辺が60センチほどの立方体の枠を、積み木のように多様に並べたものでこ枠の中には、現生あるいはすでに絶滅した生物の骨や化石を模した標本が固定され、それがまるで迷路のような空間を形成していく。表題の「ろじ式」の通りに、標本箱は積み重なり互いが簡単には見渡せない「ろじ」になる。

 野外での開放された空間とは対極のようなこの閉ざされた空間で展開された。作品が始まって最初の場面「標本迷路」では役者たちが標本箱を舞台袖から運んできて、まるでテトリスのゲームのように舞台上に積み重ねていく。ここでの台詞が「デボン紀白亜紀……」などと時代を下りながら、少年たちがいまは滅びてしまった古生物を単語として羅列していく。

 2番目の「地図」では3人の少年が公衆電話で何事かを問い合わせる昭和を思わせる郷愁をさそうイメージが提示される。「可笑シテタマラン」は雰囲気が一変して女の子たちの大阪弁の口調がおかしさをさそう掛け合い的な群唱だ。「海図」では再び犬島で上演された「カンカラ」を連想させるような島づくしの地名連呼となる。ここでは「標本迷路」とむりやり合致させて、人類の進化ならびに島づたいに渡る日本列島に行き着いたの日本人の歴史を展示した場面かも、と思うがシーンが進むごとにそのような統一した解釈には無理があることが露呈していく。やはりここにはそういう共通項のようなものはないのだ。

 「通常の演劇とは異なる構造をどうも確信犯として強い意志で試みているようだ」。観劇から時間が経過するにしたがい次第にこんな印象が強まってきた。「博物館演劇」というこの作品のもうひとつのモチーフにこの作品の構成のヒントはあるのではと考えてみた時、この作品についてひとつの仮説が生まれてきた。それはこの「ろじ式」は物語の構造(ナラティブ)でもなく、ある種のダンスや音楽がそうである構造の統一感や形式美でもない。それまでの舞台にあまりなかった「博物館の展示のような舞台」として構想されたのではないかと思われた。

 「ろじ」のような空間に博物館の展示のように個々のパフォーマンスを配置し、提示していく。それは美術そのものではないが美術インスタレーションの色合いを感じさせる。個々の場面には主題において、あるいは登場人物や物語において同一性があるのではなく、それは互いにゆるやかに響き合いながら並置されていく。小劇場パフォーマンスにおけるあらたな形態としての可能性を感じさせる試みではないかと考えさせた。

 維新派の作品はダンス的な要素の進化は抑え気味になり、ここから再び美術的な方向性に傾倒していく。岡山・犬島で上演した「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき 《彼》と旅をする20世紀三部作 #3」は最終公演の「アマハラ」の基になった作品だが、ここでは公演会場の犬島の海とかなたに見える島々への借景というサイトスペシフィックな要素が重要視された。

 やはり、犬島で上演された「風景画」はより美術的な要素を重視。「ある場所に俳優と観客が参加する三次元の絵画です。『風景画』は、幾何学的風景論です。 『風景画』は、身体的風景論です」と公式サイトで説明されたようになだらかな遠浅の砂浜にパフォーマーを配置して、ミニマルな動きだけを見せていくという人間をオブジェ的に使った美術インスタレーションといってもいい作品だった。興業の制約上から結局、客席を設けての演劇公演のような形態はとったが松本の構想では島のそこここにパフォーマーを置き、それを鑑賞者が見て回るというようなことも検討されていたという。実は「台湾の、灰色の牛が背のびをしたとき」「風景画」 の2作品はさいたま芸術劇場、池袋西武百貨店の屋上でも上演されたが、劇場向けに作り直したとはいえ、その良さが十全には伝わらないもどかしさもあった。
  最晩年の3作品「MAREBITO」(2013年、岡山・犬島)、「透視図」(2014年、大阪・中之島GATEサウスピア)、「トワイライト」(2015年、 奈良県曽爾村健民運動場)はそれぞれ公演場所の状況は異なるとはいえ、やはり「場の持つ固有の歴史」を重視したサイトスペシフィック性の強い作品で、音楽、ムーブメントともにそのクオリティーは磨かれ完成度の高いパフォーマンスとなったが、それ以前のダンス、美術などに傾斜した作品に見られたような極端さは薄れている。
 このように維新派のパフォーマンスは演劇の範疇には閉じ込めにくい複合的な要素を中に含んでおり、「演劇・ダンス・音楽・美術のはざまで」を今回の論考の副題としたように「演劇・ダンス・美術」を3極として三角形を作ってみれば作品によっても創作時期においてもどの極に松本の中心的な興味があるかで大きく姿を変えた。一応、専門といえる演劇とダンスについてはかなり踏み込んだ分析を行ってみたが、音楽、美術については同等の分析は自分の能力に余るということを実験させられた。最初に維新派は「論じられてこなかった」と書いたのにはそういう意味があり、私が書くのは無理だが音楽の専門家による維新派=内橋和久論とか美術評論家による現代美術としての維新派論などがあればぜひ読みたい。批評対象としては宝の山が眠っていると考えている。




 

 











 
 
  
 
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*1:「ダンス×アート 源流を探る ローザス=ケースマイケル」セミネールin東心斎橋