下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ピナ・バウシュ逝去

モーリス・ベジャールが亡くなったのがつい先日のような気がしているのだけれど、ついにピナもか。もう新作が見られないと思うと悲しい。世間的な関心もそれなりに高いためか、ピナが亡くなってからこのサイトで反応するまでに少し時間がかかってしまっているうちにネット検索でこのサイトに来ているものがけっこうあるようだったので、どんな文章を書いていただろうかと自分でも覗いてみると、ピナ自身について直接書いたものは以前の「下北沢通信」時代にはあったと記憶しているけれど、このブログになってからはあまりなくて、短い文章だが以下のが見つかったぐらい。
http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20060409

 唯一そこそこ長く書いているのがこれ*1なんだけれど「バンドネオン」を酷評しているから、検索したピナファンの怒りを買っているだろうなと思った(笑)。でも、正直言って私にとってはこの時に見た作品はあまりよくなくて、ピナもどうしたのかと思っていたのだけれど、忙しくて感想こそ書いていないけれど昨年見た「パレルモパレルモ」「フルムーン」はかなりよくて、「今度は新作がぜひ見たい」と思っていただけに今回の急逝は残念でならない。
 「80年代の後半以降に日本に紹介された欧米のコンテンポラリーダンスピナ・バウシュ、W・フォーサイスローザスなど)に強く影響されて作品創作をはじめた」と珍しいキノコ舞踊団のセミネール講義のなかで述べたのだが、日本のコンテンポラリーダンスにとってピナ・バウシュの影響は非常に大きい。それは彼女の来日公演がなかったら、90年代の日本におけるコンテンポラリーダンスの爆発はなかったと思わせるほどで、もちろん彼女だけでなく続けて来日したW・フォーサイスローザスも大きな刺激を与えているのだけれど、直接与えた影響ということでいえばとてもピナにはかなわないだろう。
 ピナのなにがどんな影響を与えたのかについては受ける側の立場によってもそれぞれ異なるから一概に「こうこうだ」と断定するのは難しいのだけれども、あえて言うならば最大の貢献はピナがそれまでのダンス(バレエやモダンダンス)が持っていた悪しき主題(テーマ)主義から舞台作品を解放したことにあるのではないだろうか。ピナの作品は例えばバランシンのように抽象的な構造を提示するようなダンスと比べると、その出自であるドイツのノイエタンツの尻尾はくっついていて、表現主義的であったり表出的であったりするところがないではないけれど、その最大の特徴は作品が多義的で多様な解釈に対して開かれている。だから、ピナの作品では例えば「パレルモパレルモ」の冒頭の巨大なレンガの壁が崩落する場面がいかに作品初演当時の状況からベルリンの壁の崩壊を彷彿されるところがあるとしても、だからといってそれが「ベルリンの壁崩壊」を主題にした作品ということにならない。そこがそれまでの現代舞踊*2との大きな違いであった。 
 もっとも、いささか言い訳じみて感じられることは承知であえて言及すればそうであることは「作品が多義的で多様な解釈に対して開かれている」ということはピナの作品についてなにかを論じようとするときに特有のジレンマを突きつけられることになる。それはピナの作品は見る側にとっては鏡のように働き、そのイメージ喚起力が見る側に想起させるものはピナが直接提示したものというよりは舞台を見ている観客それぞれが常日頃考えたり、感じたりしていることそのものであることが多く、その場合、多くの論者がピナについて語ることで結局、自分自身についてのことを告白しているにすぎない、そういう構造をピナの作品は持っているからだ。
こういうことに気がついたのはいささか古い記憶になるのでやや心もとないのだが、「ヴィクトール」を見てそれについての感想を旧「下北沢通信」に書いた時だったかもしれない。私はその時に「ヴィクトール」という作品に「支配/被支配」という権力の構造とそれから逃れ難い人間というものの悲劇というようなモチーフをそこから読み取ったのでそれについて書いた*3のだけれども、他の人はどんな風に思ったのだろうとちょっとした好奇心からネットで検索して出てきた感想やレビューを読んでみると、そこには数多く私が想像さえしなかったようなことが書かれていて仰天したのだった。そのうちのひとつにはこの作品に即して、確か暴力と女性の性の問題のことが延々と書かれていて、私自身は観劇している時には思いもよらないモチーフだったので、「そんなバカな」と思って、作品を心のなかで反芻してみて「そういうことはないよな」といったんは「この論者の言説に根拠はなく単なる妄想」と納得したのだが、よく考え直してみるとその同じことがたった今自分が提出した論点にも同じように当てはまるのではないかと考え、思わず愕然とさせられたからだ。
 つまり、ピナ自身は特定の問題に集約されるというよりはもう少し普遍的な構造のようなものを舞台で提示する*4のだが、観客はその構造を見てそこにそれぞれの経験や考えを投影して、より具体的なものの立ち現れとしてその舞台を自らの鏡として見ることになる。そういう構造をピナの舞台は持っているのだ。

*1:http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20040717

*2:例えばクルト・ヨースの「緑のテーブル」が傑作であるからそれだけにとどまらない普遍性を持つということはあるにしても、やはり第2次世界大戦の時の具体的な状況と取り上げ「反戦」を主題としている作品であることが否定できないのと対照的であろう

*3:とは書いたけれども具体的な内容については記憶があいまいなので違っていたかもしれない

*4:ここも正確ではない。ピナの提示するのは構造そのものではなくて、複数のダンサー・パフォーマーによって提示される短いドキュメント風のシーンの羅列なのだが、そこから見る側は自分で構造のようなものを読み取る。そういう仕掛けになっている