下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

柿喰う客*1「悪趣味」@シアタートラム

■作・演出中屋敷法仁*1
■出演
七味まゆ味 コロ 玉置玲央 深谷由梨香 村上誠基 本郷剛史 高木エルム 中屋敷法仁
(以上、柿喰う客)

梨澤慧以子
國重直也
片桐はづき
須貝英(箱庭円舞曲)
齋藤陽介(ひょっとこ乱舞)
野元準也(ビビプロ)
出来本泰史(劇団Seven Stars)
高見靖二(チャリT企画)

佐野功
浅見臣樹
永島敬三
佐賀モトキ
伊藤淳二
川口聡
瀬尾卓也
柳沢尚美
熊谷有芳

渡邊安理(演劇集団キャラメルボックス
 
 
■会場
シアタートラム
〒154-0004 東京都世田谷区太子堂4-1-1
キャロットタワー1F 03−5432−1526
三軒茶屋駅[東急田園都市線世田谷線]徒歩3分

 「ゼロ年代」と呼ばれた岡田利規、前田司郎、三浦大輔らの世代に対して、ポスト「ゼロ年代」と呼ぶべき一群の作家たちが登場しているのではないか。そんな風に強く感じさせられたのがこの春にこまばアゴラ劇場で開催された6人の若手演出家作品の連続上演、「キレなかった14才♥りたーんず」であった。元々、演劇ないしほかの分野のアートにおいて世代論だけで、作家を語るのは問題と考えたのが「関係性の演劇」「身体性の演劇」という基本タームを生みだし、時系列ではなく、共時的な作品構造において作品を語ろうというのが私の批評スタンスであった。
 そえゆえ、彼らをことさらに取り上げ「テン世代」などと言いだしている一部東京の新しいもの好きの言説に加担するべきかどうかには若干の躊躇があるのだけれど、前述の岡田らが基本的に現代口語演劇として平田オリザらの作業を継承しているのに対して、この新しい世代のなかにそういう先行世代の作風から身体表現への大きな揺り戻しがあり、その代表が快々(篠田千明)であり、この柿喰う客(中屋敷法仁)ではないかと思ったからだ。
 もっとも、快々についてはDVD映像ではいくつかの作品を観劇したものの実際に劇場で見たのはまだ「キレなかった14才♥りたーんず」での篠田作品と吾妻橋ダンスクロツシングでの小品だけで、劇団の本公演を見ていない。篠田は中心メンバーのひとりではあるけれど、快々自体は集団創作を標榜していて特定のリーダーはいないような構成になっているので、その立ち位置についての評価は保留しておいたおいたほうがいいかもしれない。いずれにせよ、柿食う客(中屋敷法仁)はこの後続世代のトップランナーのひとりであることは間違いないようだ。しかも、中屋敷の場合、アフタートークなどの場で「アンチ・会話劇」「アンチ・現代口語演劇」などと自分の立場をあえて挑発的に広言したりするところが興味深い。
 では実際の「悪趣味」はどんな作品であったか。一言で言えばコメディーの風味でまぶしたスプラッタホラー風活劇といったところだろうか。これまで見た中屋敷の作品「恋人としては無理」「学芸会レーベル」はいずれも素舞台に近いほとんどなにもセットのない空間に役者が身体ひとつで世界を構築していくような作風で、しかも少数の俳優たちが複数の登場人物を次々と演じ分けていくというようなものであった。そのため、作品の方向性自体は大きく異なるけれど、演技・演出的な部分で私が連想せざるをえなかったのは惑星ピスタチオ西田シャトナー)であった。
 しかし、この「悪趣味」は全然違う作風。劇場に入ると舞台上に崩れかけて地面に埋まってしまい上半分だけになってしまった鳥居とか、いかにもなにか出てきそうな古井戸(映画版「リング」に出てくるようなのを想像してほしい)がリアルに作りこんである凝りに凝ったセットが仕込んであって、それを背景になにやら森の中で「化け物」のようなものと戦いを繰り広げているらしい村人の集団や村に住むなにか秘密を持っているらしい一家、この森の村に伝わるという“化け狐”伝説を探りにきたという大学教授とその助手、森に自殺するために入ってきた女、近所の池にいるらしい河童とその一族、ゾンビーになって行き返った村長……という多彩な人物たちが入り乱れての活劇調の舞台である。
 誤解を恐れずにこれが私に先行する舞台との類似においてなにを連想させたかというと劇団☆新感線のスタッフによって上演された「犬夜叉」、あるいは大人計画の「ファンキー!!」などなのだが、その類似というのはそれほどでもなくて、この作品の感じさせるある種の質感、例えば映画や漫画などの先行テキストを縦横無尽に引用してコラージュしたような作風とか、全体に漂うどことなく作り物っぽくウソくさい雰囲気、B級っぽさに共通するものを感じたからだ。「――北東北の山深き寒村、霧田村。人を食い殺す“化け狐”伝説が残るこの村で身元不明の惨殺死体が見つかった時村人たちの運命の歯車は、少しずつ狂い始める―」というのが劇団公式サイトに掲載されている「悪趣味」の筋立てである。しかし、筋立てそのものはこの舞台においてそれほど大きな意味をそれ自体で持っているというわけでもない。「悪趣味」の表題通りにそれはむしろステレオタイプで陳腐といってもいいかもしれない。
 ステレオタイプ・陳腐などというと否定的なことを言っているように聞こえるかもしれないけれど、それでいいのだ。というのは「ステレオタイプ・陳腐な筋立てなのに面白い」というのがこの柿喰う客の特徴で、この集団、あるいは作・演出の中屋敷法仁にとっては物語も劇世界もそこで遊ぶための遊び場以上のものではないように思われるからだ。
 この「悪趣味」ではいかにもそれ風というB級ホラー的な世界を舞台に映画や漫画などからの引用あるいは元ねたをひねってのくすぐりなどをちりばめながら、役者たちの身体を駆使させて縦横無尽にその世界を遊んでみせる。そこのところの無茶苦茶さが面白い。実際、例えばホラーの常道であるどんでん返しを入れたために人物設定的にはつじつまが合わなくなってしまったところなども、解消せずにそのまま放置されていて、アフタートークでは「その方がB級ホラーっぽいから、その方がいいと思いあえてそうした」などと確信犯ぶりを強調している。
 実はこの「悪趣味」という作品を見て最初はひどく驚かされた。というのは冒頭でも書いたようにこれまでは中屋敷作品としては「恋人としては無理」「学芸会レーベル」の2本を見たのだが、この「悪趣味」はそれとはあまりにも作風が違いすぎて*2、彼らがどんなタイプの演劇を志向する集団なのかがはっきりと焦点を結ばなくなったからだ。
 実はこの日会場で売られていたDVD「真説・多い日も安心」も見てみると、AV業界と始皇帝が統治していた時代の秦を二重重ねにするというずい分変なことをやっているのだけれど、身体中を使ったり、走り回ったりしながらの演技はどう考えてもこれは野田秀樹じゃないかという感じなのだ。
 それで思ったのはこれはひょっとすると美術で言うところのアプロプリエーションではないのかということであった。
 これは美術評論家である椹木野衣の著書「シミュレーショニズム」 (ちくま学芸文庫) に出てくる用語なので詳しいことはそちらを参照してもらうことにしたいが、美術系のサイトからアプロプリエーション(Appropriation)の定義を探してみるとこういうことになる。

アプロプリエーションAppropriation
「流用」。既製のイメージを自作のなかに取り込む技法としては、すでに今世紀初頭の段階で「コラージュ」や「アサンブラージュ」が開発されていたが、「アプロプリエーション」は一層過激なものであり、「オリジナリティ」を絶対視する近代芸術観を嘲笑するかのようなその意図と戦略は、しばしば高度資本主義との並行関係によって語られることになった。代表的作家に数えられるM・ビドロ、S・レヴィーン、R・プリンスらが近年いずれも失速を余儀なくされているのを見ると、この動向が80年代のポストモダニズムとの密接な関係のうちに成立していたことが了解される。なお、流用に際して必ず何らかの変形を加えるのも「アプロプリエーション」の特徴で、代表的手法としては、引用よりは略奪と呼ぶのが相応しい「サンプリング」、切断を交えた「カットアップ」、絶えず反復する「リミックス」などが挙げられる。
暮沢剛巳

 要するに「サンプリング・リミックス」のことなのねと言われれば、まあ、その通り。シアターガイドのインタビューに中屋敷は次のように答えている。

 「本当に演劇オタクなので、影響ってことで言えば、野田秀樹さん風でもあり、松尾スズキさん風でもあり、KERAさん風でもあり、アングラ風でもあり……おいしいものを無理矢理くっつけてるんだと思うんです。最初から、自分の方法論がないところが、方法論になってたかな」

 これは特定のスタイルを持っていないことに開き直っているようにもとれるけれど、前述のアプロプリエーションなどを考慮に入れて考えれば、「おいしいものを無理矢理くっつけてる」(つまりサンプリング、コラージュ)自体が中屋敷独自の方法論と考えられなくもない。若手の劇作家の作品が自分ならではの方法論を模索している間、その人が好きな特定作家に似てしまうというのはよくあることで、最初は柿喰う客(中屋敷法仁)もこの段階かとも考えてみたのだが、これもう少し様子を見てみないと確実にこうだと言い切ることはできないのだけれども、どうやらこれは違う。ひょっとして、完全に確信犯だという印象を強く受けたのである。
 コンテンポラリーダンスの場合には珍しいキノコ舞踊団が「ダンスについてのダンス」(メタダンス)というような言われ方をしていて、最近は私はそれを「ダンスを遊ぶダンス」と位置づけているのだけれど、それになぞらえて言えば柿喰う客は「演劇を遊ぶ演劇」ということができるのかもしれない。そういう風に考えると中屋敷が自分の演劇人生の原点を学芸会だと考え「学芸会レーベル」という作品を創作したのは興味深い。珍しいキノコ舞踊団の伊藤千枝も自らのダンスの原点を幼稚園(保育園)時代のお遊戯会であるとしていることで、そういうところにもこの2つの集団には意外な共通点があるのかも考えさせられたからである。

*1:シアターガイドによる中屋敷法仁インタビュー http://www.theaterguide.co.jp/feature/kaki/

*2:前者が惑星ピスタチオなんかを連想させるとするとこちらは劇団☆新感線や昔の大人計画を連想させた