下北沢通信

中西理の下北沢通信

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マームとジプシー「Kと真夜中のほとりで」@こまばアゴラ劇場

マームとジプシー10月公演
「Kと真夜中のほとりで」
作・演出 藤田貴大

<出演>
伊野香織 大石将弘(ままごと) 大島怜也(PLUSTIC PLASTICS)
荻原綾 尾野島慎太朗 川崎ゆり子
斎藤章子 坂口真由美 高橋ゆうこ
高山玲子 成田亜佑美 波佐谷聡
萬洲通擴 召田実子 吉田聡


マームとジプシーを見るのは「ハロースクール、バイバイ」「コドモもももも、森んなか」「あ、ストレンジャー」と続きこれが4本目。残念ながら前回公演の「塩ふる世界。」が劇場(横浜STスポット)まで行ってキャンセル待ちまでしながら直前で「きょうはここまでです」となり、見られなかったからずいぶんひさびさの観劇となった気がしたが、考えてみればせいぜい半年だから、この集団がいかに頻繁に公演してきたのかがうかがえる。
表題を聞いて最初にまず連想したのは「トムは真夜中の庭で」だったのだが、ファンタジーな児童文学とは違いおそらく作者の藤田貴大の出身地である北海道伊達町をモデルにした湖のある田舎町についての物語だった。その意味でこれは藤田版「わが町」と考えることもできるかもしれない。ワイルダーの「わが町」でも1人の女性の死が描かれるが、ここで描かれるのも「K」と呼ばれる一人の女性の「死」ないし「消失」である。その意味でこの舞台は「わが町」を下敷きにしたとも考えられはするが、実際には「死」ないし「消失」による「喪失感」というのは藤田のこれまでの作品に共通するモチーフであって、それがこの新作でも変奏されていると考えた方がしっくりくるような気がする。
 この湖のほとりに靴を残して「K」がどこかに消えた。その日からちょうど3年目となった日の真夜中、眠れない「K」の兄(尾野島慎太朗)そして「K」のことを忘れられないかつての友人らがシャッター商店街、駅と人けのないこの町を彷徨い、いつのまにか湖のほとりに集まってくる。おおざっぱにあらすじを説明するとそんな風になってしまうのだが、それだけでは行きつ戻りつ何度も何度も際限がないほどに反復されることで観客と舞台の間に生じてくる「幻のこの町とそこから消えたK」の豊饒なイメージは伝わるべくもない。
 マームとジプシーの作劇の特徴は同じ場面が何度も何度もリフレインされながら反復されていく構成にある。そして、小さなパッセージのようなセリフが少しずつずれながら繰り返されることで、その隙間に生まれる空白が観客のそれぞれの記憶に働きかける。
 その結果、舞台上で実際に提示されている以上のイメージがテクストのいわば行間から浮かび上がってくるのだ。これはチェルフィッチュ岡田利規が「三月の5日間」などで試みた方法論の変形であり、さらに言えば「あゆみ」で柴幸男も類似の手法を試みている。この反復の多用による想像力の喚起というのがこれまでのマームとジプシーの最大の武器だった。
 この舞台もそれは同じだが、これまでに見た舞台と「Kと真夜中のほとりで」では様式において大きな違いがあった。
 ひとつは全編でセリフが音楽に乗せて展開されていくことで、ままごと「わが星」で柴幸男がとったスタイルをさっそく見事なまでに手の内にして取り入れている。尾野島慎太朗のセリフなどは途中で完全にラップ調になっている部分もあり、そのまわりをほかの俳優がセリフを唱和しながらぐるぐると時計まわりに回っていくというのはまさに「わが星」だろう。
 実はそれだけではなくて、この舞台には東京デスロックやミクニヤナイハラプロジェクトといった身体的な負荷を俳優にかけ続けることで身体が消耗していくさまを見せていこうという演劇との共通点も強く感じられる。コンテンポラリーダンス風の身体所作(しかも群舞)とか、セリフを音楽のリズムに合わせて高速度で発話するスタイルとかはいずれも先に挙げた2劇団などを彷彿とさせるものだが、こうしたこれまではあまり目立たなかった演技スタイルがこの舞台にはふんだんに取り入れられている。
 チェルフィッチュの後に次々と登場してきたポストゼロ年代演劇の多彩なスタイルを自在に引用してのデータベース消費あるいは総集編を思わせるところがあった。