下北沢通信

中西理の下北沢通信

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維新派とローザス

 「ダンス×アート 源流を探る ローザス=ケースマイケル」セミネールin東心斎橋*1の準備していくなかでローザスについて調べていくなかで音楽と動きを関係づけて作品として具現化していくその方法論が維新派とかなり近しい部分があるのではないかと感じた。それはレクチャーでも一部紹介した「Dance Notes」*2を見ているとそれではかなり克明に実際の創作の現場が紹介されていたのだが、そこから十分ではないが、その方法論の一端が浮かび上がってくる。
 それはまず使用する音源(音楽)を楽譜に落としたものを元にその音楽の持つリズムを分析。楽譜からリズム譜ものをのような作ったうえでまずそのリズムを声を出して唱和しながら、ダンサー(パフォーマー)全員で共有。この作業を何度も繰り返した後に今度はそのリズムを群舞の振付に落とし込んでいく。その際、ダンサーたちは壁に貼られた□と△が並んだメソポタミアの文字盤のようにも見えるリズム譜を見ながら、自分の振りを絶えずチェックしている。


 一方でコラボレーターである音楽家のティエリ・ド・メイはそのダンスの動きを映像として撮影したうえで、パソコンに落とし込んだ楽譜と照応しながら、そこで浮かび上がったリズムをもとにそこに音を貼り付けるように曲作りをしていくのだが、ここでは同じリズムパターンの構造をいわば設計図として同時進行で振付と音楽が作られていくわけだ。
 このドキュメンタリーのなかでケースマイケルは何度も「時間と空間の構造(ストラクチャー・オブ・タイム・アンド・スペース)」というような言葉を強調しているのだが、これはパラフレーズしていけば「音楽とダンス」ということになるだろう。音楽あるいはもっと端的に言えばリズムが時間を分節化し構造化していく。そして、空間とは身体のことでそこには身体の動きと複数の身体の配置と移動(フォーメーション)が含まれる。この組み合わせことがケースマイケルにおけるダンスであるかもしれない。
 ケースマイケルのこうしたやり方がまったく異なるジャンルのパフォーマンスではあるが維新派と作業手順が似ているのではないかと思われたのだ。維新派の場合は演劇であり、言語テキストとして松本雄吉が書いた脚本がある。これは脚本とは書いたが、ことヂャンヂャンオペラと言われる部分に関してはその多くは3文字、5文字、7文字の単語の羅列のようなもので、その羅列が維新派独特の変拍子のリズムを構成していく。
 つまり、ここではローザスにおけるリズム譜のような役割を台本が果たしているわけだが、ここでもその同じ設計図を基に同時進行で動き(振付)とフォーメーション、そして、内橋和久による音楽が同時進行で作られていくわけだ。実は偶然、今回のレクチャーには維新派の役者が参加してくれていて、維新派ローザスの類縁性についてはそのことを知らないで話していたのだが、終了後、実際に劇団において松本がローザスのことを言及して「ローザス・ダンス・ローザス」の映像化したものをみて「これオモロいで〜。」と、みんなに紹介してという話を聞いて、日頃は「コンテンポラリーダンスは嫌いだ」などと公言しているだけに少し意外に思うとともに本人も少なからぬ親近感を持っていたことを知り、興味深く思った。
 ネットで調べてみたら、「台湾の、灰色の牛が背伸びをしたとき」の創作日記で演出助手の中西エレコさんがローザスのことに触れている回*3があり、実際に現場レベルではローザスのことも知られていて、それは松本公認であるらしいことも分かった。
 ダンスというのは民族舞踊的なものや日本でいえば神楽のように神に捧げるという巫女的な機能を持ったものでも歴史的に見れば音楽との関係の中で成立していたのが、一般的なことであって、現在でもバレエやヒップホップなどはその随伴音楽(という呼び方もこの場合正しくないのかもしれないのだが)と非常に高い率でシンクロ(同期)しているのが普通だ。
 ダンスにおいて音楽がいかに重要な要素であるのかという実験は先日、さいたま芸術劇場でジェローム・ベルが「ザ・ショー・マスト・ゴー・オン」という舞台で提示していて、きわめて興味深く思ったのだが、いくつかの場面でダンサーが舞台上いてもまったく動かなかったり、時にはまったくいなくなってそこに音楽だけが流れる。それでもそこになにかしらの「ダンスがある」と感じてしまうのは見る側の意識として、ダンス作品のなかで音楽の占める重要性が示されていたのではないだろうか。
 こうした関係性に理論的に疑問を投げかけたのはジョン・ケージマース・カニングハムのコンビで、ダンスと音楽は同期しなくても無関係に同じ空間に独立して存在しうるとして、それぞれを別々ないし相手のことを意識しないで制作したのものを最終的に舞台の上で出合わせるというようなことを一種の実験として行った。
 日本のコンテンポラリーダンスの場合も、音楽(特にリズム)と動きが1対1のように対応してしまうような作り方*4は「ベタになる」と称して敬遠する傾向が強くて、このことは以前から気になっていた。レクチャーではそういうなかで日本にもそうではないダンスも存在していて、それは例えば珍しいキノコ舞踊団イデビアン・クルー、BATIK(黒田育世)などなのだが、そういう人たちがどちらかというと2000年代に人気を集め、コンテンポラリーダンスのブーム化の一翼を担ってきたという実体があった。、そして、ローザスはそれらの振付家にかなり大きな影響を与えたとみられると指摘した。
 一方、維新派は演劇であってダンスではないが、そのセリフ回しと動きが内橋和久の作った音楽と相当に厳密なレベルでシンクロして展開されていくのが特徴で、既存のダンスの身体言語とはかなり異なる身体所作(身体言語)を使うためにダンスのようにはみなされてはいないが、ダンスとはなにかということの考え方次第ではローザスやBATIKのような音楽とシンクロ率の高いダンスに舞踏などのそうではないダンスよりもむしろ近しい類縁性を持っているのではないかと思ったのである。