【台詞・演出】 山中正哉
【出演】櫻井拓見、大畑麻衣子(楽園王)、藤田早織、小田さやか、山中正哉
【制作】田中真実、【照明操作】出月勝彦、【音響操作】坂本絢
トリのマーク(通称)が3年ぶりの公演「ここから見えるのはきみの家」をザ・スズナリでやるということを知って大喜びした次の瞬間にそこに「最終公演」のクレジットを見つけ呆然とさせられた。それほど今回の知らせは衝撃的だった。ちょうど1週間前に観劇した維新派最終公演「アマハラ」はひとつの時代の終わりを感じさせる出来事であったが、実は今回のトリのマークの最終公演も私にとってはそれに匹敵する事件だったのだ。
とはいえ公演自体は最後といってもいつも通りに淡々としていた。「そこはかとなくおかしいが、特別に劇的なことはなにもない」といういかにも「トリのマーク」らしい公演だった。スタイルにはセリフのある会話劇から、もう少し身体的パフォーマンスや美術パフォーマンスに近いものまで様々な形態があるが、今回は最後ということもあってはこの集団としてはオーソドックスな会話劇を上演した。
ただ、通常の会話劇と違うのはそれがいつもどんな世界のことについてであるかはっきりとしないことだ。登場人物には多くの場合名前もない。というかそもそも作品中には固有名詞がほぼ出てこない。特に劇場以外の場所で上演される作品については「場所から発想する演劇」と自ら標榜していたことからも分かるように発想の基となった事実関係がないわけではないのだが、それを直接作品にするということはなく、そこから得たイメージを基に2重にも3重にも抽象化された世界が構築されていく。
劇団名も「トリのマーク(通称)」というのは本当は劇団名ではなくて、「不思議の国のアリス」に登場する絶滅した鳥「ドードー」のシルエット=上記チラシ参照=が本来の劇団名だ。だが、これに「読み方」はないので、劇団名を呼ぶことはできない。ただ、それでは運用上不便が大きいので「(通称)」をつけて「トリのマーク(通称)」としているのだ。
これは劇団ならびにその作品のあり方を象徴的に表現しているものでもあって、登場人物に固有名詞がないため、当日のパンフでは毎回、俳優の名前と作品中での衣装が記されたイラストが記されていて、それでそれぞれの役割を演じている俳優が誰なのかが分かるという仕組みになっている。
今回はどんな話だったのか。トリのマーク(通称)の場合、あらすじを語ることにはあまり意味はない(起承転結で表されるような明確な筋はない)のだが、それでも少しでもこの公演の雰囲気を伝えるために無理を承知でまとめてみる。私たちの世界ではないが、それがどこなのか判然としない異世界での出来事。そこには監視人のような人がいてどうやら「家」と名乗っているらしい。彼(女優が演じているがひげを着けているからおそらくそうなんだろう)は他所の世界から迷い込んできた謎の男を監視して、上司のような人(舞台上手の扉の外にいるので姿は見えない)に報告している。黒い服を着た男(山中正哉)がそこにやってくると彼は男を雇い入れて新たな監視人の役割を負わせようとするが、男は応じない。
それらとの関係は不明だがそこにはカウボーイ(のような男)とその相棒になることを望んで男に売り込んでいる若い男もやってくる。彼らはそれぞれそこにやってきては意味が完全には解釈しきれない、とりとめのない話をしてまた去っていく……。
確かに物語自体は寓話(ぐうわ)的でもあり、例えばそこにマイナンバー法が施行され、ネットの普及などもあり個人のプライバシーが制限され監視社会となった現代日本社会への批判などといったものを読み取ろうと思えばそうできなくもない。だが、トリのマークの作品の方向性は現実の社会に警鐘を鳴らすというような風刺的な趣向というよりは観客の想像力を喚起することで「ここではないどこかの世界」のイメージを喚起することにあると思われる。
今回の最終公演は彼らが第2のホームグラウンドとしてきたザ・スズナリで上演され、そこに表題の「ここから見えるのはきみの家」あるようにこちらではないどこかの世界にある「家」を現前させた。そして「家」とは実はこれまでの25年間の活動でトリのマーク(通称)が造り続けてきた作品世界の象徴でもあったのかもしれない。
トリのマーク(通称)の公演では開演前と終演後にそれぞれ別内容のパンフが配布される。開演前のものは先にも書いたキャスト表代わりの登場人物のイラストと配役が書かれた簡単なもので、先入観なしに芝居を見てもらいためもあってか、内容に触れたことはいっさい書かれていない。終演後に配られるパンフには作品の着想のもとになった「場所の記憶」についてのあれこれがイラスト付きで短文にされたものなどが書かれている。今回はそのパンフには活動を開始してから25年間に公演を行ってきた場所(特に公演場所した「家」)がイラストとして掲載されていた。トリのマークが「場所から発想する演劇」である所以は多くの場合、そこに現実にある「場所」(ここでは「家」)がトリのマークが演劇により立ち上げる架空の世界と2重重ねになっていることだ。今風に言い直せば拡張現実(AR)といってもいいのかもしれない。イラストの「家」を眺めるだけで、そこで体験された千変万化のイメージが鮮やかに蘇るような気分にさせられたが、何よりもやられたのは裏面、最後のページに小さく書かれた文字。「25年間ありがとうございました」。それが最後の公演のモチーフだったんだなと黒い服を着た山中が上手の扉を通り抜けて消えていく場面を思いおこしながら「これが本当に最後か」とせつないような寂しいような複雑な気分になった。
トリのマーク「ノヴォゴロドと同じ町」@神田神保町・ショップ&ギャラリーとカフェ AMULET http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20081114/p1
トリのマーク「ザディグ・カメラ」http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20050731
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トリのマーク 現代美術としての演劇 http://d.hatena.ne.jp/simokitazawa/20040722/p1