下北沢通信

中西理の下北沢通信

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Q「妖精の問題」@こまばアゴラ劇場

Q「妖精の問題」@こまばアゴラ劇場

Q「妖精の問題」


作・演出:市原佐都子
出演 竹中香子
スタッフ

舞台監督:岩谷ちなつ
舞台美術:中村友美
照明:川島玲子
音楽:額田大志
ドラマトゥルク:横堀応彦
宣伝美術:佐藤瑞季
制作:大吉紗央里
制作補佐:杉浦一基


市原佐都子が劇作・演出を担う。2011年より始動。その後コンスタントに公演を重ね、芸劇eyes番外編God save the Queen、F/T13公募プログラムに選出されるなど注目を集める。作品にはよく動物や食べ物が登場する。ニンゲンの世の中の「形」に飼い馴らされきれない、そこからはみ出している、無理している存在が気になっている。

 中編が3本の3部構成。「妖精」というのは「そこにいるけど目にみえないもの」。つまりこの社会から差別され排除されているものの象徴で、話自体は全く無関係で表現スタイルも大きく異なる3つの短編が連続して上演されることで、このモチーフがつながり、多層的に展開される仕掛けとなっている。
最初のブスは落語仕立てという演出だ。「ぶす」と言えば「附子」と表記して狂言の演目でもあり、古典落語にそれを映した演目でもあるのかなと思ったが、どうやらそういうわけではなさそうで、竹中香子の語り口もそれほど落語っぽいというわけではなく、落語のパロディーだとしたら微妙。単純に容姿が不細工という意味でのブスで、田舎の学校で「ブス」な2人が卒業後どうしたらいいのかと話しているところから始まる。
 そして途中で「美人」というのは平均的ということで、平均からはずれたものたち(ブス、老人、障害者ら)が社会から排除されて社会が均質化することで、一般の人たちが安心して暮らせる世界が生まれるといい、そうした異物を排除していくような近未来の姿が描かれていく。ここでひとつ気になったのは竹中香子が「ブス」を演じる際に顔を意図的にゆがめたり、セリフをなめらかなものではなく吃音を交えたりして、記号的に障害者を思わせるものを混ぜ込んでいることで、ここでは構造的に社会から排除されるものとしてブス=障害者を等価なものとして提示しようとしたともとれるが、障害者に対する揶揄的な表現ともとれるようなところもありあまり愉快でないものを見せられている印象があった。さらに作者は自分でものが食べられないような老人は社会的に排除すべきであると論じる架空の政党の政見放送などの映像を流しながら、それが作者自身の主張ではないことは明らかだとしても世の中が確実にそちらの方向に向かって行っており、そういう世界が来るんだということを芝居は描き出していく。
 ただ、ここで作者はそういうものを不快に思うという生理そのものが構造的な差別を内部に孕んでいる社会の刷り込みなのだということを主張したいのだと解釈することも出来るわけで、そこのところを考えさせられた。
 一方、「ゴキブリ」はゴキブリに悩まされる夫婦とゴキブリとの戦いの顛末をミュージカル仕立てで描き出していく。舞台自体は笑える場面も多くて楽しめるのだが、ことゴキブリがモチーフとなると1本目の芝居で扱った社会的被差別者とは比べものにならないほど共存をイメージするのは困難だ。私の家庭ではいわゆる諱(いみな)だが、これはその名前を呼ぶことさえも忌まわしい存在として「G(ジー)」と呼称されている。妻はことのほかこれを忌み嫌っているので、大阪時代に住んでいたマンションでは非常に小型のGが1匹発見されただけで仕事から家に帰ってみると妻が「実家に帰る」と泣き叫んでいて、結局バルサンどころか業者に頼み込んで駆除してもらった揚げ句に最後はその存在自体がGの存在を連想させるということからゴキブリが完全に駆除された後は駆除業者までを忌まわしいものとして忌諱始めたほどだった。多分、この芝居に妻を間違って連れてきていたら、そういうものが出てくる芝居に連れてきたというだけで死刑宣告されるところなのだ。私自身はそこまで忌諱をしていないのでゴキブリが1匹2匹出てきた時にそれをティッシュとかでつまんで処理することはできるが、長年そういう相方と暮らしているとやはり根本的にGを受け入れることはできないのだ。
最後の「マングルト」は女性の膣でヨーグルトを発酵させるという健康食品(健康法)を推奨する会のPR活動を芝居に仕立てたものだがこれも生理的に嫌な感覚が残るのはなぜだろう。全体的な仕掛けがサンプルの「ブリッジ」と似ているのだが、どちらもそこで出てくる健康法(?)を自分で試そうと言う気にはならないが、サンプルの舞台で展開されていることにはこの「マングルト」ほどの生理的な嫌悪感は感じなかった。今回の3本の芝居を通しての主張としては社会からの排除につながるような嫌悪感はそれ自体偏見であり、「寛容なる世界」を作っていくためにはそういう生理的な嫌悪感を克服していくことが大切であるというようなことを訴えているとは思うのだが、この芝居自体の醸し出す生理的な不快感がリアルにそれを裏切っている。これはどういうことなんだろうと考えざるをえないのだ。