下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

「誰が漱石を甦らせる権利をもつのか?――偉人アンドロイド基本原則を考える」

「誰が漱石を甦らせる権利をもつのか?――偉人アンドロイド基本原則を考える」

オープニングアクトとして平田オリザ氏作・演出の漱石アンドロイド演劇
青年団二松學舍大学大阪大学)初上演
プログラム
Opening Act 漱石アンドロイド演劇『手紙』(13時~13時20分)
作・演出:平田オリザ、出演:漱石アンドロイド、井上みなみ
第一部 漱石を甦らせるとはどういうことか(13時40分~15時)
石黒浩
開催にあたり
山口直孝
漱石アンドロイドプロジェクトの目指すもの
福井健策「アンドロイドに権利はあるのか?それは誰が行使するのか? ――著作権、肖像権、ロボット法――」
島田泰子「漱石アンドロイドの発話行為、どこまでホンモノに近づけるか」
第二部 偉人アンドロイド基本原則を考える(15時20分~17時40分)
平田オリザアーティストトーク漱石アンドロイド演劇について」
石黒浩/谷島貫太/福井健策「偉人アンドロイド基本原則案の提起」
石黒浩×福井健策×平田オリザ×夏目房之介×谷島貫太「偉人アンドロイド基本原則はどうあるべきか」
夏目房之介夏目漱石の声になるということ」

平田オリザ(ひらた・おりざ)劇作家・演出家  大阪大学COデザインセンター特任教授(常勤)
福井 健策(ふくい・けんさく)弁護士  骨董通り法律事務所 for the Arts 代表パートナー
島田 泰子(しまだ・やすこ)二松學舍大学大学院文学研究科兼文学部教授
石黒 浩(いしぐろ・ひろし)大阪大学大学院基礎工学研究科教授
夏目房之介(なつめ・ふさのすけ学習院大学大学院身体表象文化学専攻教授
山口 直孝(やまぐち・ただよし)二松學舍大学大学院文学研究科兼文学部教授
谷島 貫太(たにしま・かんた)二松學舍大学文学部専任講師

 生前の夏目漱石に似せたアンドロイドを使って演劇を作ることに何か特別な意味合いはあるのであろうか。平田オリザのロボット演劇やアンドロイド演劇の舞台をいくつも見てきたので、実は今回の「手紙」を見る前の期待値はそれほど高くなかった。ところが実際に舞台を見て、シンポジウムも聴取してみると「漱石アンドロイド」をめぐる問題群は予想以上に広がりがあり、興味深いものであるのが分かった。
 シンポジウム冒頭で平田オリザ作演出によるアンドロイド演劇「手紙」が上演された。これには漱石アンドロイドのほかに青年団の女優、井上みなみが出演し正岡子規を演じた。この芝居に登場するのは漱石役を演じる漱石そっくりのアンドロイドと井上の2人(?)のみで、漱石が英国に留学中に病床の子規とやりとりした往復の書簡を互いに朗読するという形式で舞台は進行した。実は漱石と子規は平田が先日上演したばかりの「日本文学盛衰史」にも登場し、その中でも子規の葬儀の場面で漱石との手紙のやりとりのことは重要なエピソードのひとつとして触れられている。その意味ではこの「手紙」と「日本文学盛衰史」は姉妹編のようなものと考えることもできる。大勢の人物が登場する「日本文学盛衰史」と違いこの「手紙」はきわめてミニマルなものではあるが、平田はこの上演時間30分程度という短い芝居のなかにいろいろな仕掛けを仕込んだ。
 実は平田オリザが上演したこれまでのアンドロイド演劇のアンドロイドの発話と今回の漱石アンドロイドには大きな違いがある。それはこれまでのアンドロイドでは舞台の背後にアンドロイドのセリフを担当する俳優がいて、その人がリアルタイムでする場合とあらかじめセッティングされた場合があるとはいえ、遠隔制御でアンドロイドの表情やセリフを演じていた。ところが今回の漱石アンドロイドの声は夏目房之介の声のサンプリングを元に初音ミクのような音声合成ソフトで作成されたもので、実はセリフのニュアンスを実際に体現するためにはソフトウエアの能力自体に若干の問題があるので、それを実際にセリフとして発話させるために平田自身が調整を行っているということのようだった。
 短い作品ながらこの作品にはいくつかの仕掛けがあると書いたが、そのひとつは往復書簡をそのまま抜粋したように思われるこの戯曲の中の書簡はすべてが子規宛の書簡というわけではなく、子規以外に書いた書簡などをもとに平田が文面を書き換えたものも含まれている。この「手紙」という舞台では正岡子規らが作り出した「写生文」という文体が夏目漱石らの言文一致体の小説の成立に大きな役割を果たしたのではないかという仮説が示されるのだが、この舞台で読み上げられる漱石の手紙の文章がやりとりの進行の過程で次第に正岡子規の書く柔らかな手紙の文体に近づいていくことが示される。
 さらに言うと漱石アンドロイドの話す口調も最初はあえて手を加えずに人間の話し言葉としては違和感のあるものとしておいて、ここから調整(ボーカロイドで言うところの調教)を加えて、滑らかな話し言葉に近づけていくという工夫を凝らしている。
 平田のアンドロイド演劇ではそれを見始めた最初の方では人間とは異なるという違和感を感じるが、そうしたものに人は慣れるということなどもあって次第にそれに人間に近いものを感じ取るようになる。この「手紙」ではそれに加えて、先に挙げたようなテキスト、アンドロイドの発話の調整という2つの仕掛けをすることで、効果がより鮮やかに見えるようになっている。
 そして、最大の工夫はそうした全体の仕掛けが文語から言文一致へ、写生文から口語体小説へという正岡子規から夏目漱石へと受け継がれた文学的な遺産を象徴的にビジュアル化されるようにしたということだろう。