吉田寛 × 土居伸彰 × 東浩紀 「ゲーム的リアリズムとアニメーション」@ゲンロンカフェ
『ゲンロン8』に論考「メタゲーム的リアリズム」を寄せた立命館大学の吉田寛さん、『ゲンロン9』にアニメーションとインディ・ゲームに関する論考を掲載予定の土居伸彰さん(アニメーション研究・評論・プロデュース/ニューディアー代表/新千歳空港国際アニメーション映画祭フェスティバル・ディレクター)をお招きし、東浩紀との鼎談を開催。
吉田さんは論文で、自己批評の果てに登場した「ゲームであることを自ら否定するゲーム」が、私たちをとりまく「ゲームのような現実」を塗り替えつつあるという議論を展開。他方で土居さんの論文は、アニメーション作家がインディ・ゲームに接近する理由を、ゲームが「別種のリアリティ」を「追体験」させることに長けていると喝破しています。21世紀の「現実」の特徴がゲームをモデルとすることでどのように分析できるのか、ゲーム研究とアニメ研究の両面から迫ります。
東浩紀が物語分析の延長に「ゲーム的リアリズム」を唱えてから11年。表象文化論の最先端の知見を踏まえた、ゲーム批評の新しい可能性を議論します。文芸批評、映画批評などに関心のあるひとも必見です!
──『ゲンロン8 ゲームの時代』刊行記念イベント #2
土居氏からの論点▶「追体験」
=異質な他者の経験を芸術鑑賞を通じて自らのものとしていきること、『個人的なハーモニー』参照
→ウォーキング・シミュレーターなどのインディ・ゲームでいかに理想的に発揮されるのか▶「原形質性」
→ドット絵など抽象化された(写実的ではない)インディ・ゲームのビジュアルがもつ原形質性▶「重なりながら離れている」
→ゲンロン8の吉田さんの論考における「重なりながら離れている」という話
→『マザー』や『アンダーテール』といったRPGにおけるプレイヤーの位置について考えるのに有益では。▶「触視的平面」
→東さんのゲンロンβにおける映画からゲーム、視覚的平面から触視的平面という話
→『君の名は。』はきわめて触視的平面的な作品。もしかしたらノルシュテインの作品も。
→粘土の話は、アニメーションの新しいモード(山田尚子やウェス・アンダーソン、その先駆者としての押井守)とつながる。
→湯浅さんの近作もそういうモード。リアリティを自分で作る。吉田氏からの論点
▶「反復」
→(デジタル、アナログを問わず)ゲームの本質は「反復」にある。
→ゲーム的リアリズムも、いわゆる「キャラ」の問題も、「メタ化」の現象も、要は「反復」に起因するのでは。
→ゲームプレイは「似て非なるものの反復」。誰も「同一の経験」を共有できないが、みな「同一のゲーム」について了解し、語っているつもりになっている。
→しかしこれはゲームだけの話か?
→土居さんの「追体験」との関係
→ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」との関係▶「ゲーム批評/研究の困難」
→ゲーム研究の壁:分析対象の記述やドキュメンテーションが困難。体験共有ができない(反復の問題)。
→たとえばゲーム研究の教室では、その場で皆でプレイして考察・分析することができない。
→「個人化」された文化としてのゲーム(インタラクティブの別側面)は、 批評/研究を困難にする。
→これもいまや映像メディア一般の特徴では?▶「ゲーム批評/研究の価値」
→ゲームというメディアに固有なものはなにか?
→最初は視覚面に注目し、その後ルールや物語の側面に。しかしそんな研究は必要か?
→ゲーム批評/研究はなにが求められているのか?
→逆に、批評/研究のなかでゲームはどういう存在なのか?▶「触視的平面」
→コンピュータゲームのデザインがコンピュータインターフェイス(GUI)のデザインに応用された
→D・A・ノーマン、クリス・クロフォード、ブレンダ・ローレルなどの研究
→このことを押さえたうえで、「触視的平面」の問題を発展させるとどうなるか?
ウェス・アンダーソン最新作『犬ヶ島』冒頭3分映像!
ウォーキングシミュレーター【NOSTALGIC TRAIN】