下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ホエイ「喫茶ティファニー」(3回目)@こまばアゴラ劇場

ホエイ「喫茶ティファニー」(3回目)@こまばアゴラ劇場

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作・演出:山田百次(ホエイ|劇団野の上)
プロデュース:河村竜也(ホエイ|青年団


「喫茶ティファニー」は、もともとマージャンやポーカーなどのアーケードゲームがテーブルとなっているいわゆるゲーム喫茶だった。
ここは多摩川を越えた、東京の向こう側、町の一角に古くからある喫茶店

ホエイ

ホエイとは、ヨーグルトの上澄みやチーズをつくる時に牛乳から分離される乳清のことです。
産業廃棄物として日々大量に捨てられています。でもほんとは飲めます。うすい乳の味がしてちょっと酸っぱい。乳清のような、何かを生み出すときに捨てられてしまったもの、のようなものをつくっていきたいと思っています。


出演

尾倉ケント 斉藤祐一(文学座) 中村真沙海 森谷ふみ(ニッポンの河川) 山村崇子(青年団) 吉田 庸(青年団) 山田百次(ホエイ|劇団野の上)河村竜也 

スタッフ

照明:黒太剛亮(黒猿) 衣裳:正金 彩(青年団) 演出助手:楠本楓心
制作:赤刎千久子 宣伝美術:河村竜也

ルポ 川崎(かわさき)【通常版】

ルポ 川崎(かわさき)【通常版】

だいぶ以前にホエイの新作「喫茶ティファニー」が川崎の喫茶店を舞台に取り上げると耳にして以来、「なぜいま川崎を」と考えてたどり着い答えのひとつが音楽評論家でもある磯部涼の「ルポ 川崎(かわさき)」だった。川崎は日本のラップ音楽にとって聖地のひとつとされているが、それは何もヒップホップイベントがよく行われるクラブチッタがある場所だったのが理由というわけではない。川崎の置かれた状況とそこに暮らす人々の様相にラッパーが生まれてくる必然性があったからだというのをこの本はラッパーやダンサーらヒップホップ系アーティストへのインタビュー(取材)を通じて浮かび上がらせている。
 ここには日常生活を東京都区部で送っているような人たちから見るとかなりヤバめのひとたちが多数登場していて*1、実は「喫茶ティファニー」を観劇して、最初は出てくる人たちが普通に見える人たちばかりであることは、「もの足りない」印象が強かった。川崎のカルチャーの最先端がストリート系のものであることを考えると、内容はラディカルでも下記の映像にもあるようなスタイリッシュな要素に彩られたものを期待したが、現代口語演劇という表現手法ではそういうカルチャーの過激な側面を捉えきれないのかもしれないとも考えたりもした。

BAD HOP / Life Style - T-Pablow, YZERR (Prod by Gold Digga)

 ただ、二度三度と観劇してそうではなく、山田百次はそういうことを分かったうえであえて今回のような表現方法に落とし込んだのではないかということが次第に了解されてきた。
 「ルポ 川崎」は表題通りに川崎についてのルポルタージュだが、「喫茶ティファニー」は川崎をモデルにしていても川崎自体をドキュメンタリーとして取り上げたものではない。その証拠に川崎という固有名はいっさい出していない。
 しかし、一方ではこの舞台は「ルポ 川崎」で提示されているような川崎の状況をかなりきめ細かくフォローもしている。
 「日本人/韓国人/フィリピン人/様々なルーツが/流れる/この町でオレらは/楽しく/生きてる」
「フィリピンコリアンチャイニーズ南米もいいぜごちゃまぜ人種ジャンクション…」
「ルポ 川崎」の 「在日コリアン・ラッパー、川崎に帰還す」と題する章に書かれた在日のラッパーであるFUNIが参加して行われたフリースタイルラップで行われたサイファーからの引用の一節だ。

rapwork2~goten~
 川崎のこのエリアでは在日コリアンだけではなく、上に引用されたような様々な国籍、人種の人々が実際に暮らしており、この「喫茶ティファニー」の登場人物らもそれを反映している。そして、そこでは現地の不良青年の先輩、後輩の間にヤクザの上納金精度のようなお金のやりとりがあったり、彼らが互いの連絡をLINEでし合っていることなども紹介されており、そうした事実関係はさらなる現地でのリサーチなどを踏まえて、この「喫茶ティファニー」にも取り入れられている。
ところで「ルポ 川崎」ではタトゥーを入れたり、ドレッドヘアや身体中にピアスを入れたりと一般人からすると異形の出で立ちの若者の写真も多数収録されているのだが、この「喫茶ティファニー」にはそうした要素は一切出てこない。
 ヤクザ役の河村竜也も含めどこにでもいるような普通の人にしか見えないし、多人種・国籍の人物の間にそうした見かけ上の区別がほとんどないということが不可視の「差別の構造」というこの作品の主題につながっていく。 しかも実際には川崎のようなコリアンタウンでは大きな社会的な問題となっているヘイト行為の存在はこの作品からはかなり意図的にはずされているのだけれど、ラストシーンの近所に最近出来たらしいエスニック料理店への登場人物の言及のように重層化された無意識の差別意識がこの問題の根源にあり、それはそれをなかったことにするようなポリティカルコレクトネス(PC)的な対応だけでは決して解決しないのだということもはっきりと提示されている。
 20年以上前に平田オリザは「ソウル市民」という作品でソウルに住む日本人の中にすくう無意識の差別的構造の根深さを淡々とした描写の中で抉り出してみせたが「喫茶ティファニー」はその後を継ぐ作品であるといえるだろう。