下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンスなど様々な文化的事象を批評するサイト。

ホエイ「スマートコミュニティアンドメンタルヘルスケア」(3回目)+落語「天井」@こまばアゴラ劇場

ホエイ「スマートコミュニティアンドメンタルヘルスケア」(3回目)+落語「天井」@こまばアゴラ劇場

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プロデュース:河村竜也(ホエイ|青年団) 作・演出:山田百次(ホエイ|劇団野の上)
一人の妄想が引き起こした集団ヒステリー。戦慄の再演。

河の上中学校は複式学級。生徒が少なく、全学年が一つのクラス。少人数ならではの、ほのぼのスクールライフ。 担任の先生は新採用。いつも優しく、時には熱血指導。そんな中、学校間交流から帰ってきたアイツ。覚えてきたばかりの楽しい遊びを、学校のみんなに教えてあげる。
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ホエイ

ホエイとは、ヨーグルトの上澄みやチーズをつくる時に牛乳から分離される乳清のことです。
産業廃棄物として日々大量に捨てられています。でもほんとは飲めます。
うすい乳の味がしてちょっと酸っぱい。
乳清のような、何かを生み出すときに捨てられてしまったもの、のようなものをつくっていきたいと思っています。

出演

大竹 直(青年団) 斉藤祐一(文学座) 鈴木智香子(青年団) 武谷公雄 永宝千晶(文学座
赤刎千久子(ホエイ) 河村竜也(ホエイ|青年団)  山田百次(ホエイ|劇団野の上)
スタッフ

照明:黒太剛亮(黒猿) 演出助手:楠本楓心 当日運営:太田久美子(青年団
制作:赤刎千久子 プロデュース・宣伝美術:河村竜也

ホエイの「スマートコミュニティアンドメンタルヘルスケア」は4年前に上演された作品の再演だが、実は昨年上演された「小竹物語」と物語の構造が非常に似ている、というかほぼ同型だということに気がついた。片方は周縁の複式学級、もう一方は怪談を語る人たちのサークル(のようなもの)という違いはあるけれどもいずれも閉じた同じ共同幻想を持つ共同体に起こるコップの中の嵐のようないさかいが共同体の外部から侵入者によって攪乱され、そこでついには犠牲者が出て共同体自体が崩壊してしまうという構造を持っている。
山田百次は日本における辺境的な性格を持つ青森県のなかでも中心である青森市弘前市を離れた地域の出身であることもあってか、山田が好んで描く場所は周縁的*1な場であることが多い。
 ただ、両者の違いというのもはっきりあって「小竹物語」で山田百次が演じた外部からの闖入者というのはまったく属性のわからない絶対的な他者のようなもので、中心的なものではないことは間違いないのだが、「スマートコミュニティアンドメンタルヘルスケア」の女性教師は中心(中央)を象徴する校長の失踪の後、権力不在の真空地帯に現れた共同体権力の簒奪者という側面があり、最後に共同体内におけるよそ者であった山田(山田百次)を生贄の山羊として殺し排除して、共同体の安定を守る。
  実は最後に山田が共同体のための生贄の山羊とさせるのには必然性があるというのは登場人物の名前から分かる。というのはわずか生徒7人の複式学級であり、こういう地域の周縁ではよくあることなのだが、山田以外の6人(守康、健太郎、ナナ子、祐一、シンジ、舞)は全員名前で呼ばれているのに山田だけが姓で呼ばれている。これはどうしてなのか。たまたまそうだったという場合も現実にはあるだろうが、より論理的な解答は6人の姓が同じだからということである。
 つまり、ここであるのは村落レベルの共同体のなかで全員が広い意味で一族であるなかで、山田だけがそうではないということだ。そうだとすれは村にあると思われる寺社仏閣は彼ら一族に関係するものである可能性が高く、そこから仏像や卒塔婆を持ち出すというのは村八分で殺されても仕方のないようなタブーへの侵犯があったという理屈になる。
 もちろん、この物語ではそうしたことは隠蔽されていて、山田の集団リンチによる死の理由も皆が心を捨てていく中で山田だけがそれをしなかったからだという表向きの理屈はあるのだが、裏にはいまのようなことが暗示されていて、少なくとも山田百次がそういうこととしてこの世界を設計したんだということは間違いないだろう。
 ここまで考えてきたときにこの世界におけるもうひとりの外部者である女性教師はどう位置付けられるのだろうか。前にツイッターにこんな極端な人は左翼´リベラル陣営の支持者にはさすがにいないと書いた。この人のイメージに一番近いイメージを探せばそれはネトウヨも含む、右翼・保守陣営の人が思い描く「左翼」ということになるかもしれない。ただ、ここではもうひとつの解釈も成立するのかもしれない。すなわち、彼女は舞台に安倍首相を思わせる輪郭でありながら顔の部分が意図的に消された肖像画によってイメージされた校長、そして、女性教師はその校長とすべて反対のことを主張するネガ的な存在なのではないか。そうであるとすれば女性教師は実際にはいないような人なのだが、校長に象徴されるような人物は各分野に大勢存在し作者の批判が向かっているのがこの世の中にはびこる様々な「校長的存在」に対してではないかと思ったのである。

*1:中心と周縁の対立の構造というのは文化人類学者の山口昌男による文化研究の主要な分析概念で著書「文化と両義性」で山口は、社会の中心性及び周縁性に関して先行する論考を整理し、その上で「中心/周縁」という、より二項対立的思考の枠組みと、特に積極的な意味を十分に論じられてこなかった『周縁』の側にあらためて意義を見出す視点を独自に提示した。社会は「中心」と「周縁」の有機的な組織化の上に成り立っており、すべての政治的宇宙は「中心」を持つと同時に「周縁」を持つという。それまで否定的な側面を担わされ、排除されるべきものと考えられていた「周縁」という概念は、山口によって他者性をはらむことで多義的な豊穣性を再生産し続けるという一面が意味付けられ、先行的な論考よりも大きな比重を置いて語られている。この発想は国内外の文化人類学に留まらず、大江健三郎が『叢書文化の現在4 中心と周縁』(岩波書店、1981)を編集し、その中で「周縁」の概念に基づいて小説家としてのあり方を自問しているように、20世紀後半の人文世界や各芸術にも強い影響を与えている。