下北沢通信

中西理の下北沢通信

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連載)平成の舞台芸術回想録(8) 劇団ホエイ「郷愁の丘ロマントピア」

連載)平成の舞台芸術回想録(8) 劇団ホエイ「郷愁の丘ロマントピア」

 山田百次は約10年前に上京。弘前劇場を退団した女優らとともに「劇団野の上」を設立し本格的な劇作を開始した。その活動ぶりが青年団で中心俳優だった河村竜也の目に留まり、彼らは2013年12月に青年団若手自主企画 河村企画として北海道三部作の最初の作品となる「珈琲法要」を上演し、その後の劇団ホエイにつながる活動を二人三脚で開始した。

「北海道三部作」で描く周縁の悲劇

 劇団ホエイ*1の作品群の中心となっているのが北海道に題材をとった歴史劇「北海道三部作」と呼ばれるシリーズである。
「郷愁の丘ロマントピア」はその第三弾。津軽藩士大量殉職事件を描いた「珈琲法要」が「北海道三部作」の第一弾。これは同劇団の出世作で1807年に北海道のオホーツク海沿岸の極寒の蝦夷地で多数の津軽藩士が病に倒れた亡くなった歴史上の悲劇を現代口語津軽弁で描きだした。これまで札幌での二度の上演や韓国公演でも好評を博している。
 歴史劇第2弾が「麦とクシャミ」。こちらは太平洋戦争末期の昭和新山誕生の顛末が題材で「珈琲法要」に続き北海道を舞台に歴史上に埋もれた史実を掘り起こして舞台に仕立て上げた。逞しい女優3人(中村真生、緑川史絵、宮部純子)の存在感が魅力的な舞台で緊迫した状況にもどこか呑気な男たちも登場。戦争に天変地異というシリアスな主題をペーソス溢れるタッチで描き出した。舞台ではこの地に日本各地から流れ込んできた人々が暮らしているという状況を設定し、京都、岩手、広島の異なる地域言語が同じ舞台で共存するカオスな場を描き出し、ここに満洲から戻ってきた陸軍軍人を配し、彼にノモンハン事件のことを語らせた。こうした仕掛けで北海道の寒村で起こった珍事と戦時の大陸の状況を二重重ねにして見せていく。その手つきは鮮やかなものだった。
 これらはいずれも純然たる歴史劇であり、登場人物が話す地域の言葉(方言)が交錯するものの戯曲の構造はリアルタイムで進行する群像会話劇で、平田オリザ流の作劇を思わせるところがある。それに対して「郷愁の丘ロマントピア」では夕張の炭鉱町を舞台に、数十年にわたるその盛衰をそこで働く男らの人生をからめて群像劇として描きだし、より大きな歴史的な時間の流れを射程に入れる新たな作劇手法を開拓した。

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郷愁の丘ロマントピア
 舞台では男らが80~90歳代にならんとする現代から、炭鉱でバリバリと働いていた若かりし時代までを時代は交錯しながら役者たちによって瞬時に演じわけていくのだが、観客がそれを不自然ではなく受容できるのは導入部で上演のルールが示されるからだ。まず登場人物は俳優によって完全にリアリズムで演じるというわけではない。先述した「××が演じる○○」が中間項として入り込んでくるのが「郷愁の丘ロマントピア」の作劇の特色なのだ。ここで 描かれるのは「大夕張」と呼ばれている地域。夕張市には北炭(夕張鉱業所・平和鉱業所)・三菱(大夕張鉱業所)の3つの炭鉱があったが、現在の夕張市街地はすべて北炭があった地区である。
 これらの地域は同じ夕張市内といっても離れた場所(20キロ程度離れている)にあった。三菱合資会社大夕張大夕張炭鉱のあった大夕張地区は全盛期には2万人近くの人口をかかえていたが、廃坑とともに人口は激減した。現在はダムの完成にともないかつての市街地はほとんどシューパロ湖の底に沈んでしまった。劇団のホームページには「いま、町を弔う。」の煽り文句もあったが、この「郷愁の丘ロマントピア」はその意味で国策の犠牲となって湖の底に消えていったいまはない町への鎮魂歌といってもいい。
 冒頭、前説に山田百次が現れ、彼は「本日は青年団リンク ホエイの公演にご来場、まことにありがとうございます」と観客に向け挨拶する。続いて「皆さん夕張市はご存知ですか?」などとこれから始まる芝居の概要を話し出す。そのままニット編みの帽子をかぶり、「申し遅れました。わたくし山田百次が演じる今回の役名は鈴木茂治と申します」などと語る。最初は自分が演じる役の人物を「彼は」などと三人称で説明するのだが、「彼は御年92となりました」などといいながらいつのまにか腰をかがめた老人の演技に入っていく。演技スタイルは例えば意図的に平板なセリフ回しを多用するマレビトの会などとは違って、普通の会話口調に近いが、この舞台では「登場人物は○○」というだけではなく、登場シーンで「松本亮演じる加藤謙三が来ました」と他の俳優のセリフによって説明され「俳優、××が演じる○○」という二重性がたえず呈示される。この導入部で山田はこの上演におけるルールを観客の前に提示している。この舞台の主要登場人物は茂治と謙三のほか、地元で写真屋をやっている片腕の中村三郎と孫娘に車いすを押されて出てきた島谷紀男の4人。この2人も最初の登場シーンではいずれも茂治演じる山田自らの口から「やっときたのは河村竜也演じる中村三郎85歳」「武谷公雄演じる島谷紀男86歳」とそれぞれの現在の年齢とそれを演じる俳優の名前が紹介される。実はこれも前述したように観客に役柄とそれを演じる俳優の二重性を絶えず意識させ続ける狙いがある。舞台上の俳優は老人の声色を真似てまで老人のような演技をするわけではないが、こうした意識づけにより、俳優のちょっとした姿勢の違いだけで、それぞれの俳優が老人なのか、若者なのかを認識できるようになっている。
 チェルフィッチュ岡田利規は「三月の5日間」で役と俳優の分離を方法論的に提示し、後に続くポストゼロ年代演劇の作家たちに大きな影響を与えたが、俳優と役柄の二重性を可視化していくようなホエイの演技法もその延長線上にあると言っていいかもしれない。
 この作品は暗転や照明の変化などもいっさいないままに時空が次々と転換する。老人たちが昔のことを回想する会話の最中に両腕がまだある若き日の三郎が突然登場したり、車いすの紀男が帽子をとって立ち上がるような比較的分かりやすいきっかけで一瞬で時空が転換することが何度か繰り返されたうえで、そうした場面転換のルールが観客にも浸透したかと判断されて中盤以降はもっと無造作に融通無碍に時空の転換が行われる。こうした手法で平田オリザ流の一場固定の現代口語群像劇では描写することが難しい、戦後すぐから高度成長時代をへて、エネルギー政策の転換や、安い海外炭の普及により閉山に追いやられていくという長い歴史の流れを描き出しているのである。

劇団ホエイの非日常系作品群

 劇団ホエイには社会の周縁で起こる非日常的な出来事を描いていくという別の系列の作品群もある。2017年に上演された「小竹物語」は非日常系作品の典型だ。公演会場となった小竹向原にあるアトリエ春風舎を舞台に、この場所から怪談をネット配信する怪談師らの集団を登場させて、そこで起こる怪異譚を描き出した。
 こちらも作品冒頭で河村竜也が演じる高橋という男が「私はもうすぐあちらの世界(と舞台方向を指す)に行ってしまいますが、またこちらの世界に戻ってくるかもしれません。その時はどうぞよろしく」と客席の中央部分に設けられたネット配信の中継ブースの中から、客席に向かって話しかける。最初にこれを見た時にはただの前説だと思い、その意味するものをうっかりして見落としていた。が、実はこの部分が非常に重要なのだ。
 「小竹物語」は通常交わることがない「あちらの世界」と「こちらの世界」を対比させ、その境界を揺さぶろうとする。この場合「あちら」はまず舞台であり、「こちら」は客席だ。舞台とは役者たちが演じている「作品の劇世界」のことであり、それが「客席側の現実」と対比される。
 「小竹物語」では劇場から怪談イベント「小竹物語」をネット配信しようとしている怪談師らが描かれるが、劇中のイベントで語られるという体で観客である私たちは実際に「怪談」を見ることにもなる。本当に怪談イベントに参加している場合なら目的はあくまで「怪談」であり、さらに言えばそこで語られる怖い話を体験すること自体が目的となる。
 「怪談」にはいろんなタイプがあるが、多くの場合、この世にありえないような種類の怪異が語られる。実際の怪談イベントでも「怪談」(あちら)とそれを語る「怪談師」(こちら)というあちら/こちらの二重構造はある。けれども「小竹物語」では「怪談語り」もそれを語る怪談師もともに俳優が演劇の一部として演じていて、観客である我々はそれを舞台の外側から俯瞰してみるという構造となっている。
 劇中では「死んでいる」(あちら)と「生きている」(こちら)という2つの状態も対比される。劇中で高橋は量子論などを引用しながら、「生」と「死」はどちらも量子の振動の状態であり、「それは別々のものではなく、つながっている」と語るのだが、それがこの劇の後半に起こる大きなパラダイムシフトの伏線となっているのだ。「小竹物語」の後半部分では外部からの正体不明の闖入者として山田演じる謎の男が登場して最後には河村演じる高橋を殺してしまう。つまり、冒頭の高橋の「私はもうすぐあちらの世界(と舞台方向を指す)に行ってしまいますが、またこちらの世界に戻ってくるかもしれません」という「あちら」という言葉はここでは「死の世界」も指しているダブルミーニング(二重の意味)になっていたのだ。
 このように作品外部の人間が作品に介入していくという構造は実は「郷愁の丘ロマントピア」の山田百次が演じる演技にもつながっている。そういう意味では「小竹物語」と「郷愁の丘ロマントピア」はまったく作風の違う両極端の作品にも見えるが、実は手法的には呼応するような部分もあるのだ。
 2018年の夏に再演された「スマートコミュニティアンドメンタルヘルスケア」もやはりそうした系譜の作品。田舎の中学校の分校を舞台にそこで引き起こされる集団ヒステリーを描き出している。
「雲の脂」では全国から捨てるに捨てられぬ念の詰まったモノたちを一手に引き受けているある辺境の神社を舞台にその没落を現代の日本の滅びの形と重ね合わせた。これらが非日常系の作品群である。
 劇団ホエイはレベルの高い舞台を作り続けることで、青年団周辺の劇団のなかでも注目すべき存在になってきている。6月には新作上演を予定していたが、新型コロナの自粛にともない残念ながら中止となった。今度はどんな作品が飛び出すか期待は大きかっただけに残念だが、コロナ後に注目したい。

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*1:ホエイとは、ヨーグルトの上澄みやチーズをつくる時に牛乳から分離される乳清のことだ。産業廃棄物として日々大量に捨てられているが、うすい乳の味がしてちょっと酸っぱく、飲むことができる。乳清のような、何かを生み出すときに捨てられてしまったもの、のようなものをつくっていきたいというのが劇団名に込められた意味である。