下北沢通信

中西理の下北沢通信

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無隣館若手自主企画 vol.29 野宮企画「イチゾウ」@アトリエ春風舎

無隣館若手自主企画 vol.29 野宮企画「イチゾウ」@アトリエ春風舎

詩作・構成:野宮有姫
宮沢賢治作品―特に童話『よだかの星』と詩集『春と修羅』を種として試みる詩作実験、或いは、演劇。
無名の詩人が現代の都市を描いた新作詩集を、
俳優の身体とインスタレーション的舞台美術を以て立体化する。


今日ここから、ひとつずつ五感を壊してゆく。
語るに足らぬいきものへ。
正しい進化だろう。

反吐の海で窒息しても狂わぬよう、
なんて、それすら見栄だ。

正当化するに足る痛みなんて知らない。
ほんとうはただただすべてが面倒なだけ。
生理痛みたいな怒りだ、
なんて、彼がいうから少し笑った。

独り善がりなきみの紫。
飼い殺されたぼくらの橙。

ぜんぶ映した、酉の空。
(無名の詩人の詩集より 抜粋)

これらのデッサンは或るひとりのひとへ捧げることにする。そのひと自身の肖像として。痕跡として。シャッターの音。或るひとりの人間を想うことは、社会と時代と遭遇することであり、僕ら自身の生命や思想に気がつくことであるとする。自明の仮定だ。シャッターの音。この宇宙の何処かに存在する語るに足らぬそのひとへ。相変わらずハンバーガーは嫌いで、無心にかぶりつくきみはとても■■■■■。

詩作・構成:野宮有姫



野宮有姫

詩人を称する演劇人。無隣館三期演出部所属。
2009年、都立駒場高校演劇部の同期と企画団体シックスペースを旗揚げ。
以降、同団体中心に、詩作・演出活動を続ける他、映像シナリオ提供・作詞提供・WSコーディネート、最近は高校演劇部での講師などを行う。
詩を母体として演劇やアートセッションなどへたち上げる方法を確立中。
酒と猫とひととことばをこよなく愛している。






出演

小野 亮子
黒澤 多生
外 桂士朗
名古屋 愛
南風盛 もえ

以上、無隣館

スタッフ

総合演出・詩作・構成:野宮 有姫(無隣館/シックスペース)
美術監督:鬼木 美佳(無隣館)
振付:山下 恵実 (無隣館/ひとごと。)
舞台監督:黒澤 多生(無隣館)
⾳響・他:櫻内 憧海(無隣館/お布団)
ドラマトゥルギー:朴 建雄 (無隣館)
制作:笠島 清剛(青年団)、百瀬 みずき(シックスペース)
制作補助:井上 哲、中村 奏太(無隣館/アルココチ)
宣伝美術・撮影:大西 沙絵子(シックスペース)
協力:陳 彦君(青年団)、森 一生(無隣館/阿佐ヶ谷スパイダーズ)、木村 恵美子(無隣館/kazakami)
総合プロデューサー:平⽥ オリザ
技術協⼒:⼤池容⼦(アゴラ企画)
制作協⼒:⽊元太郎(アゴラ企画)

 詩的なテキストと会話体、ダンスとも見える身体表現、ボード状で出演者の手による書き込みが自由に出来る舞台美術……。野宮企画の作品はこうした様々な形態の表現を自在に組み合わせコラージュしたものだった。
実はこの舞台の各要素の配置のやりかたを見ていて思い出したのが二十数年の山の手事情社だった。まだ、「四畳半」などと呼ばれている現在のスタイル(様式)にたどり着く以前のことで、当然作者の年齢からして無関係、偶然の一致だろうと考えて、一応作者に確かめるともちろん実際には見たことはないが「映像などは見たことがあって意識した部分はある」(野宮有姫)との回答があり、驚かされた。山の手事情社のハイパーコラージュが実際どのようなものなのかについては過去のブログページを検索してみたところ、以上のような文章が掲載されている。

2000年11月の日記風雑記帳
山の手事情社「印象 青い鳥」(7時半〜)を観劇。私は日本現代演劇の様式の多様性は世界に誇るべき財産であるということは以前から主張してきたのだが、なかでも様々な演劇的な実験を繰り返しながらスタイルを変えてきたという点では山の手事情社という集団はその典型といえるかもしれない。早稲田劇研のアンサンブル劇団として当初には第三舞台の影響を強く感じさせるスタイルだったのがある時点で、戯曲を中心とするのではなく集団創作による構成劇に転換。さらには演出の安田雅弘が提唱した「ハイパーコラージュ」と呼ばれる全く新しいスタイルの演劇に挑戦を開始した。「ハイパーコラージュ」とはダンス、パフォーマンス色の強い身体表現から会話劇までそれこそ多様なスタイルの身体表現を舞台上に同時多発的に展開することで、それらが渾然一体となってそれまでにそれぞれの表現が単独では表現できなかった新たな表現を獲得しようというまさに革新的な演劇理論で、それは考え方としてはそれがもし実現するならきわめて刺激的な考えであった。

 しかし、初期の「ハイパーコラージュ」はそれこそ舞台のそこここで同時多発的に事が展開するというスタイルを取っていたため、受け取る側としてはちょっとしんどいというのがあった。というのは、様々な身体表現が舞台上に渾然一体として展開するということ自体はこれまでもやられてきており、それがまさに安田の提唱する「ハイパーコラージュ」とかなり近い形で実現されているのだが、それはダンスだからである。あるいは演劇の世界でも来月ひさびさに再演される「マックスウェルの悪魔」の立ち尽くす少女と恐竜がオーバーラップするラストシーンなどいくつかの上海太郎の舞台でもそれは実現されている。実現できるのはそこに言葉が介在しないからである。

 安田の仮説では例えば舞台中央に会話劇を続ける役者がいて、その傍らをゆっくりと通りすぎていくパフォーマーがいる。普通の見方ではあくまで会話劇が主で、通りすぎる方が従だとしてもある瞬間、あたかも老女と少女の絵が見えるだまし絵のように地と図が逆転を起こす瞬間がある。それが「ハイパーコラージュ」の狙いである。当時のパフォーマンストークでこんなことを言っていた。それが考え方としては認識論的逆転などを思わせて魅力的だったので、きわめて印象が強かった。

しかし、実作を見る限りそれは必ずしもうまく機能していないように思われた。さらに当時作品を見ながらなんとなく感じていたのは「ハイパーコラージュ」の理論は確かに面白かったのだけれど、それが論理的には可能でも人間の生理に反していて、実際には難しいのではないかという疑念である。というのは演劇においては言語テキストがどうしても作品にからんできて、これが音楽やダンスと大きく違うのは時間軸の中に意味を持って現れるころである。例えば言語をともなっていてもそれが維新派少年王者舘の一部シーンのように意味性よりは音声なり言葉のモノ性に重きを置くような使い方をするならば別だが、これが会話劇のように断片ではなく互いに意味を持つパッセージの連続からなっているとすればどうしても人間は言葉を聞き取ろうとするため、そこに集中してしまう。そうするとそこ以外の舞台というのは背景に退いてしまい、その横でいくら面白いダンスをやっていても聖徳太子ならぬ私には単なるバックダンスになってしまうからだ。

 カクテルパーティー効果という言葉があって、これはカクテルパーティ(日本でいえば立食パーティー)のような喧騒空間でも人間には意識を集中すると聞くとりたい会話だけを選択的に聞き取ることができる。これは人間の意識というものが単なる集音マイクのような機械的なものでなく、志向性を持っているものだということが関係しているのが、これを逆に考えると当該の聴き取りたいもの、あるいは見たいもの以外の情報をサブリミナルな域にとどめてシャットアウトしてしまうということである。青年団の同時多発の会話で、理解したい会話を選択して聞き取ることができるのは私たちが日常なにげなく意識しないで使っている能力を引きだすように計算がされているためだ。「ハイパーコラージュ」ではこうした意識の集中ではなく無意識にカットされている情報を舞台上から同時に感じとるためにこの逆の作用が要求されるわけで、それは難しいのではないかと考えたのである。

 実は最初の「ハイパーコラージュ」を第1期と呼ぶとすると安田はこの後、第2期の「ハイパーコラージュ」の実験に入る。それは舞台上における台詞による会話と身体のあり方を分解して、そこにそれまでの演劇のような有機的な関連性を持たせないという方法論である。今回上演された「印象 青い鳥」はこの延長線上にある演出により上演されている。この方法論に入ってもしばらくは複数のテキストの共存というのは残っていたのだが、しだいに単一のテキストの舞台化という様相が強まりこの作品にいたっては幕間に場面転換の代わりに展開されるダンスのようなシーン(かれらはルパムと名付けている)を除くとこの舞台ではほぼメーテルリンクの原テキストがそのまま使用されている。

 演劇には大別すれば「語りの演劇」と「会話の演劇」があってテキストの再現という意味においては最近の山の手事情社の表現は「語りの演劇」への傾斜を深めている。日本の伝統演劇というのは能にせよ、歌舞伎によ基本的には「語りの演劇」であって、その場合、「語り」を聞かせるに際してそれに合わせて身体表現の方にはある種の様式化がなされる。これは現代劇においてもSCOTや蜷川幸雄のある種の舞台でも同様で、「語り」が具現化されるにおいて日常性から離れた身体が必要になってくるのである。これを極端な形におしすすめたのがク・ナウカでここでは「語り」の役者は動くことなく語りのためだけに存在する。

 山の手事情社の場合、特異なのは身体の表現が「語り」を異化するための阻害物として語りと無関係に存在するような形態を取ることだ。その動きはダンスとは全く違い抑制的なものだが、台詞回しにおける感情の表出とリアルな形ではシンクロしない。これはおそらく、「語りの演劇」と「ハイパーコラージュ」の混合的な様式となっているためではないかと思われる。つまり、ここでは「語る身体」(声としての肉体)と「動く身体」が普通の芝居のように言動一致体(宮城聰の用語による)とはならずそこにズレを生むことで1人時間差のような形で、「異なったスタイルの身体表現を舞台上に同時に展開する」ことになっているわけだ。

 もっとも、この方向性にもジレンマはある。というのは無関係とはいえ、動きも語りも同一のテキストを挟んでその具体化として存在する以上、なんらかの関係を持たざるえないからで、全く無関係ならどういう動きでもいいかといえばそうではない。現にこの「印象 青い鳥」では「Folklore〜ふるさと」などこの方法論に移行した初期の作品と比べると安定感はでてきているもの依然、様式的に見るとク・ナウカ(ムーバー)やSCOTなどと比べ様式的な安定度において格段の差がある。もちろん、山の手の方が不安定(座りが悪い)のである。

 もっともここで言いたいにはだからだめということではなく、だから、面白いということであるのだが、様式などというものは長く同じスタイルを続けているとしだいに洗練の度をいくらとも高めていくためで、ここに不安定な形長く続けることの困難があるわけだ。ク・ナウカのようにある種の様式性を獲得して洗練の道に向かうか、それともこれまで獲得した様式性を創造的に破壊し、あくまでもまたさまよえるユダヤ人の如く、苦難の道に乗りだすのか。個人的な希望としては後者の道を選んでほしいとは思うけど、どうやら前者の方向に向かいかけているようにこの公演からは感じられた。

 今回の場合、メーテルリンクの「青い鳥」をテキストに持ってきたことにそもそも問題があるような気もしないではない。というのは今世紀の初頭に最初に構想され時には夢幻劇として様々な思想的要素を含んでいたとはいえ、現在は童話とししかほとんど知られていないこの作品を通常の形式で上演してしまえば多かれ少なかれ児童劇のようものになってしまうことは否めない。この舞台では山の手独特の安定しない(つまり通常の様式に取り込まれない)身体表現による異化効果がいくぶんそうした印象を救っていたとはいえ、正直言ってシェイクスピアから西洋近代劇に射程を広げていくのに適した戯曲を選択したのかというのには若干疑問が残った。

 「ハイパーコラージュ」は確かに理念としてはすごく刺激的だったのだが、この引用文でも若干突き放したような筆致で書いているのは理念を実際に実現するのに非常な困難をともなうような方法論であったからだ。30年を超える観劇歴を振り返ってみてもこれと類似の手法を試みた集団(アーティスト)は数少なく、ニブロールが一時期試みていた程度。しかも、矢内原美邦のこの試みも彼女が岸田國士戯曲賞を受賞し、劇作家としても評価されるのに伴い戯曲主体へと方向を変えていったように思われる。
 いずれにせよ野宮有姫の探求は始まったばかり。先人はあるにせよこの方法論にはまだ豊かな可能性は眠っているとも思われる。