下北沢通信

中西理の下北沢通信

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ヨーロッパ企画第39回公演「ギョエー!旧校舎の77不思議」@関内ホール

ヨーロッパ企画第39回公演「ギョエー!旧校舎の77不思議」@関内ホール

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作・演出=上田誠 音楽=青木慶則

出演=石田剛太 酒井善史 角田貴志 諏訪雅 土佐和成 中川晴樹 永野宗典 本多力
祷キララ 金丸慎太郎 亀島一徳 日下七海 納谷真大

 映画やテレビでお馴染みの「学校の怪談」的なものの舞台化といえばあながち間違いともいえないが、そう言う見方をしてこの舞台を見ていくと「怪談なのに怖くない」とか物語性もなく、感動もせず「芝居としてつまらない」という類の感想が出てきてもおかしくないかもしれない。
 ただ、この文章の冒頭をこんな風に書きはじめたのはこの舞台は表面上のモチーフこそ、そんな風にも見えるかもしれないが、怪談でもないし、そういうモチーフをドラマに仕立て上げたものでもないのだ。
 歌舞伎などに代表される日本の伝統演目では芸と呼ぶ演者の演技力や創意工夫にもまして「外連(けれん)」などと称せられる舞台上の仕掛けやスペクタクルが重視されてきた。そして、それは1人の役者が何役も勤める一連の早替わり演出や「東海道四谷怪談」の戸板返しや仏壇返し、提灯抜けなどの奇術的な仕掛けが評判を呼んだようにこれも演劇として重要な要素であった。
 日本の演劇においてこうした要素が軽視されていくのは歌舞伎の近代化やそれを引き継いでの新劇運動の歴史のなかからリアリズムの重視する流れが主流となり、そうではない要素が荒唐無稽などの評価のもとに切り捨てられることになったからではないかと思う。
 2008年に「悲劇喜劇」に寄稿した論考「ゲーム感覚で世界を構築 シベリア少女鉄道ヨーロッパ企画*1に当時どのように演劇の系譜にどのように位置づけたらいいのかが分からなかったヨーロッパ企画シベリア少女鉄道について「欧米のリアリズム演劇に起源を持つ現代演劇においてはアウトサイダーと見える彼らの発想だが、日本においてこうした発想は実は珍しくないのではないか。鶴屋南北らケレンを得意とした歌舞伎の座付き作者は似たような発想で劇作したんじゃないだろうか。舞台のための仕掛けづくりも彼らが拘りもっとも得意としたところでもあった。その意味ではこの二人は異端に見えて意外と日本演劇の伝統には忠実なのかもしれない」と書いたことがあった。
 今回の「ギョエー!旧校舎の77不思議」はヨーロッパ企画の作品としてもいつも以上に物語的な深みに欠けるようにも見えるし、ネット上の感想でも「中身が全くない」などの否定的な評価も散見された。
 ところがこれを一端、怪談の要素の強いホラー演劇などの現代的なエンターテインメントとしての評価軸を取り払って、鶴屋南北以来の日本演劇の伝統に基づく、演劇における外連の要素を極大化しようとした試みと考えてみればきわめて刺激的な試みと言えるのではないだろうか。
 「ギョエー! 旧校舎の77不思議」の表題通りにこの舞台では77種類もの怪異がビジュアルとして示されるが、それはほとんどが歌舞伎以来の伝統である小道具的な仕掛けによるものであって、CG、プロジェクションマップのような現代の技術によるSFX(特殊効果)的なものは避けている。その結果、さらに言えば怪異の数が極端に多く次から次へと起こるために時にそれはチープに見えたりすることも多いし、これだけ多いと逆にひとつひとつの怪異のインパクトは薄まってしまってあまり怖くはない。77もあるので中には単なるネタもの、ダジェレのようなものも含まれているが、1つの怪異が示現するたびに舞台上手上方の壁部分にこれは文字のプロジェクションでそれがどういう怪異だったのかが、示される。そのために舞台を見ながら次はどういう怪異として提示されるのかが、カウントダウン的に示されるようになり、それを楽しむというのがこの舞台の趣向なのだ。