下北沢通信

中西理の下北沢通信

現代演劇やコンテンポラリーダンス、アイドル、ミステリなど様々な文化的事象を批評するサイト。ブログの読者募集中。上記についての原稿執筆引き受けます。転載依頼も大歓迎。simokita123@gmail.comに連絡お願いします。

五反田団「偉大なる生活の冒険」@こまばアゴラ劇場

五反田団「偉大なる生活の冒険」こまばアゴラ劇場)を観劇。

作・演出:前田司郎
出演:安倍健太郎(青年団)、石橋亜希子(青年団)、内田慈、中川幸子、前田司郎

岸田国士戯曲賞を受賞したばかりの前田司郎(五反田団)の新作である。受賞後第1作となるが、相変わらず「だめ男」を描かせたら日本一という前田らしさを存分に発揮した舞台に仕上がっていて、思わずニヤリとさせられる。芥川賞候補となった自作の小説「グレート生活アドベンチャー」の舞台版なのだが、小説と舞台を比較すると主人公の男(前田司郎)の「ダメ」ぶりは一層グレードアップした感がある。小説ではまだ男は外出もしてるし、最初の方ではカメラの修理をしてそれをネットで販売することなどでそれなりの収入をえているのに、この舞台版ではテレビゲームをしているだけでいっさい活動らしい活動をしていない。ころがりこんでるのも小説では一応、彼女の部屋なのだが、舞台版では元彼女(内田慈)という設定にはなってはいるけれど、もはや単なる居候であったりする。ただ、「でていけ」と面と向かって言ったりはしているが、この女性が男を本気で追い出しにかからないで、猫でも飼っているような状態しているのはどうもおかしい、不自然とは思うのだけれど、見ているうちにそういうことも次第に気にならなくなるのは主演の前田の憎めない「ダメ」キャラゆえであろうか。
 部屋の中に万年床が敷いてあって、そこに男がひとり寝転がっているという風景はどこかで見たことがあると思う。デジャヴじゃないか、というぐらい「ふたりいる景色」とそっくりである。「ニート」「セカイ系」「引きこもり」「エヴァ症候群」といった現代の病症とこの物語に登場する男は明らかに問題群を共有している。そこにこの舞台の現代性がある。−−こういう風に「ふたりいる景色」のレビュー*1で書いたのだが、こうした点においてもこの2つの作品はモチーフを同じくしている。もっとも、「ふたりいる景色」が自分の部屋のなかに引きこもったまま、外に出ずにゴマと自分の尿だけを摂取して即身仏になることを目指す男の物語。それに対して、「偉大なる生活の冒険」は元カノの部屋に引きこもったまま、外に出ずにRPGのゲームで魔王を倒すことだけに注力しながら、のんべんだらりとただ生き続けている男の物語。そう言いきることに若干の躊躇はあるのだが、即身仏=死ねこと、と一応考えると、このふたつの物語は片方は死への憧憬、片方は生への執着とまったく正反対の志向を扱っていながらも、どちらが生き方として前向きかというと一見、生>死のように思われながらも、前者はまだ積極的に死に向かってすすんでいく意志が感じられるのに対して、今回の生き続ける男は逆に積極的にはなにもしない後ろ向きさがあって、この2本を続けて見る時に死ぬことも、生きることもどちらがどうとは言い切れない。だから、ただ、生きるだけということも「偉大な生活=グレートアドベンチャー」なのだというが今回の作品に託した思いなのだろう。
 一緒に暮らす男女の価値観の対立を描いた物語であり、夢想家であり働きに行かない「ダメ男」で現実主義者の女性とくれば目新しいというよりはむしろ古典的なモチーフといってもいいぐらい陳腐なものだが、その2人のほとんど何が起こるわけでもない日常を適度の笑いや諧謔も交えて、きっちり見世物として成立させてしまうところにこの作家の並々ならぬ技量が感じられる。
 平田オリザ岩松了松田正隆らが90年代半ばから開始した一群の群像会話劇のスタイルを呼ぶのに人口に膾炙した「静かな演劇」ではなく、「関係性の演劇」の呼称を使用したのはそれらの舞台の多くが複数の登場人物の会話のなかから、人物間の背後に隠された隠れた関係性のようなものを浮かび上がらせるという共通の特徴を持っていたからであった。ところが、一見それに似た会話劇のスタイルを継承するかに見えた若手の劇作家のなかで実は似て非なる方向性、アプローチで作品に取り組む作家が増え出したということに気がついたのは2000年前後のことであった。彼らの特徴はまず彼らの描き出す作品の登場人物には平田オリザらが好んで書き込んだような「社会的な関係性のなかで存在している人間」という視点が希薄だということであった。
 そうした性向を持つ若手劇団、劇作家として当時出会ったのが初期のKAKUTA、ポかリン記憶舎(=明神慈)、ポツドール(=三浦大輔)といったところだが、なかでも目立った存在として当時この目に映ったのが五反田団の前田司郎であった。
 もっとも私が最初に出会った当時の前田の作品(「動物大集会」「家が遠い」「ながく吐息」)では自分の方法論が関係性の演劇とは明確に違うということに対してそれほど自覚的ではなかったと思われる。見る側としても同様であったため、「動物大集合」では学生時代からの友達だった女の子たち、「家が遠い」「ながく吐息」では中学生が主人公、と社会的な関係性のしがらみにそれほど縛られていない世代の人物を取り上げたがゆえの違いであろうと解釈し、より広い事象に向かって作品によって描かれていくなかで「関係性の演劇」へと解消していく過渡期のものと解釈していた。
 しかし、それは前田がその後、発表した作品や彼が書く小説などを読んでいくにつれて次第にこれが決して過渡期のものではなく、確信があっての方向性だということが分かってきた。
 さらに興味深いのは彼の世代と相前後して活動を活発化した一群の劇作家たちが皆それぞれ作品の方向性は違っても、同種の傾向を持っているということに気がついたことで、それは演劇の手法としては「舞台上に起きている状況が引き起こすそこはかとない空気のようなものを観客と共有する」ので「存在の演劇」と名づけた。「存在の演劇」は実は太田省吾が自らの沈黙劇に対して名づけた名称なのだが、太田省吾の演劇こそ「空気を共有する」という特徴に合致したもので、この特徴をもうひとりの劇作家、遊園地再生事業団宮沢章夫も共有していて、宮沢の具象から太田の抽象へ矢印を延ばしたこの線上に当時登場してきた若手作家らを置くことができるのではないかと考え、これをひとくくりのものと考えたのであち。。
 なかでも前田の演劇は典型的。彼らの世代の演劇にはそのほかにもいくつかの共通点があり、そのひとつが描かれる世界にある種の幻想や白昼夢のような異世界が侵入してきて、それが区別されずに渾然一体のものとして表現されることで、そのためその作品は一種の「幻想劇」として表現される。この特徴がもっとも顕著なのはポかリン記憶舎の明神慈なのだが、「動物大集会」などのころの平田流の会話劇から明らかに幻想劇の方向に舵取りを進めてきたのが分かったのが、「逃げろおんなの人」で、それは「キャベツの類」「ふたりいる景色」「さようなら 僕の小さな名声」では一層明確になってきている。「偉大なる生活の冒険」もそうした方向性の延長線上にある作品といっていい。
 これらの作品では「生」と「死」というのが大きなテーマになってきている。舞台上で次々と十数名の登場人物が死んでいくというのが岸田戯曲賞を受賞した「生きてるものはいないのか」だったのだが、この作品が「死を描く」というアプローチから「生と死」に迫ろうと試みていたのに対してこの「偉大なる生活の冒険」は逆にすでに死んだ妹といつのまにか交歓している死者との世界(あるいは回想)、魔王を倒そうと試みているRPGのゲームと同居人の女性や隣の部屋の男と話す現実世界は主人公にとって区別のないものとして描き出す。部屋の外に世界があっても男にとってそれは次第に存在の意味を失っていき、同居女性ともコミュニケーションもすれ違い、男の世界は自分だけの内部に閉じていく。そういう状況はこれまでの多くの文学や演劇では否定的に捉えられるのが普通だが、前田は大胆に肯定してしまう。この躊躇のなさが凄いと思う。
 最初の方で「セカイ系」と書いたのはここで表現された世界が「セカイ系」と言われている物語群と構造を共有しているところがあるからだ。「セカイ系」については論者によって多少ニュアンスの違いもあるようで、例えばネット上のフリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』の定義では「世界」(セカイ)には一人称の主人公である「ボク」と二人称となるヒロインあるいはパートナーの「キミ」を中心とした主人公周辺しか存在しないという設定の元、救世主である主人公周辺の登場人物の個人的行為や精神的資質・対人関係・内面的葛藤等がそのまま「世界」の命運を左右していくという形で物語が進行していく作品スタイルを指す。
 主人公が救世主であるという設定上の前提条件に社会的裏付けが存在せず、個人的事象に由来する小状況がハルマゲドン(世界の破滅)や世界を救う行為等の大状況に対し、社会や世間・国家等といった中状況を一切介さずに直接アクセスするという展開が物語の基本を成す。つまり「想像界」(経験を経ない感情やイメージ・観念に属する領域)が「現実界」(結果として起こる目の前のリアリティ)と直結され、媒介すべき「象徴界」(社会的組織・秩序・身分や具体的行動等の領域)は省略されると言うことであり、「ボク」と「キミ」と「世界」の外部にある存在、すなわち三人称に相当するものは、全て排除すべき敵あるいはなかったこととして扱われる。役者や舞台装置が最低限で済むメリットから、演劇や自主制作映画等では定番だが、それら低予算実写手法をヒーローアニメに取り入れた『新世紀エヴァンゲリオン』の爆発的ブーム以降、メジャーを含む諸種の創作物にも導入されることになったため、「エヴァ系」・「エヴァ症候群」等とも称される、と知らされている。
 実は小説版の「グレート生活アドベンチャー」の方では物語の最初、主人公の状況は隠され、「僕は東京に生まれた。ちょうど魔王のいる洞窟に入ろうとしているところ」となんの説明もなく一人称描写で主人公がプレイしているファミコンのゲームの世界のなかの話が形式的に現実生活の話から区別されることなく語られる。それゆえ、「セカイ系の心象風景って実はこういうことじゃなかったのか」というのが了解されるように思われるほど、「セカイ系」と近親関係にある。芝居の方はもう少し現実寄りに描かれる。というのは小説と違って演劇は心象のようなものをそのまま描くことがないためだが、それでも男のなかでは死んだ妹も彼女も、読んでいた少女漫画もゲームのなかの世界もすべて同値なのではないかというのが例えば隣の男との会話などから思われてくるからでこの現実感の希薄さが前田ワールドの特徴なのだ。